近代史をループするイタリアの政治
ここしばらく、リサーチしている案件があり、イタリアの戦後の動き、特に70年代、80年代の出来事をなるべく正確に把握しようと、あれこれと資料を当たっていたところでした。そのうちに、同じイデオロギーを根に持つにも関わらず、多様に分岐して、それぞれが反目しあう、現代イタリアの複雑な政党の有り様は、実はすべて過去に連なっているのだ、と気づいてハッとしたこともありました。
もちろん時代とともに、社会、情報環境、経済状況、市民の精神性は大きく変化していますが、「なるほど、今、起こっている出来事のプロトタイプはここにあったのか」という発見に出会うことが何度かあったのです。
ちょうど今、80年代、『イタリア社会党』政治の一時代を築いた、ベッティーノ・クラクシーについて1章が割かれた本を読んでいたのですが、たまたま今回の、マテオ・レンツィ元首相の、連立政府をひっくり返す造反を目の当たりにし、激怒すると同時に、膝を打つことにもなりました。
前々から言われていたことですが、レンツィ元首相は意識して、クラクシー・モデルを踏襲しようと奮闘しているように思えたからです。
1976年、『イタリア社会党』の若きリーダーとして躍り出て、政財界に強い影響力を持ったクラクシーは、ミラノの公共福祉施設「ピオ・アルベルゴ・トリヴルツィオ」からはじまって、イタリア全国に3000人もの逮捕者を出した収賄・汚職事件(タンジェントポリーMani Pulite)に巻き込まれ、94年にチュニジアに亡命しました。政治資金にまつわるあらゆる不正、犯罪が明らかになったのち、クラクシー本人が「不正資金は、みんな身に覚えがある普通のこと。覚えのない人は立ってください」、と悪びれず、議会でさらっと認め、議員に賛同を求めた、有名な演説もあります。
ひたすらエネルギッシュで大胆、優れた決断力、外交力を発揮したカリスマだったクラクシーは、イタリアの近代化を進めた有能な政治家であると同時に、「スカラモービレ」と呼ばれる、インフレ率に合わせて給料をあげていくシステムの歩合を削減して「貧富の格差」を広げ、国債赤字を倍以上に増やしています。亡くなって20年を経た今、悪名も含め、その人間的魅力、政治手腕が語られる、いわば清濁併せもつ、古いタイプの政治家らしい政治家、という印象でしょうか。
なお、近代史的に見て、ベルリンの壁が崩れるや否や、政・財・官の大量汚職事件『タンジェントポリ』が発覚した90年初頭は、78年の『アルド・モーロ誘拐・殺人事件』からはじまった、イタリア第一共和国と呼ばれる戦後の政治システムの腐敗が進み、遂に飽和状態に達して崩壊した時期と捉えられます。
余談ですが、「政財界と強い絆を結ぶ」マフィアの撲滅を目指し、捜査を進めていた司法官、ジョヴァンニ・ファルコーネ、パオロ・ボルセリーノが、それぞれに仕掛けられた爆弾で亡くなった、「90年代の国家の虐殺」と呼ばれる事件が起こったのもこの時期です。
なお、クラクシーときわめて仲がよく、大金の手どころが定かでない新進の企業家として、長年に渡り『イタリア社会党』を支援していたのが、かのベルルスコーニ元首相です。クラクシーが失脚し、ベルルスコーニが政界入りした途端、『イタリア社会党』のメンバーは、金回りのいい、この若き政治家に流れることになりました。そして戦後のイタリア政治を担った、『キリスト教民主党』が消滅していくこの時代から、イタリアの政治は大きく変わることになるのです。
なお、現在のベルルスコーニ元首相はお年を召したこともあり、一時の勢いはまったく見られませんが、約7%の支持率を持つ『フォルツァ・イタリア』のリーダーとして、『同盟』、『イタリアの同胞』という極右政党とともに『右派連合』の一端を担い、『フォルツァ・イタリア』には、クラクシーの息がかかった『イタリア社会党』以来の古参議員が何人か残っています。
※亡くなって20年のメモリアルとなった2020年、クラクシーのチュニジア時代を描く映画が、ジャンニ・アメリオ監督、ピエールフランチェスコ・フラーヴィオ出演で制作されました。フラーヴィオは特殊メイクでクラクシーそっくりです。
さて、レンツィ元首相に話を戻します。
今回の離脱劇の主人公であるレンツィ元首相がベッティーノ・クラクシーの何を踏襲しようとしているのか、といえば「少数による政権支配」ということでしょうか。
クラクシーが政界に頭角を表した1980年代前半の『イタリア社会党』は、たったの9~10%前後しか支持率がなかったにも関わらず、『キリスト教民主党』、『イタリア社会民主党』、『イタリア共和党』、『イタリア自由党』の連立政府(中道左派政府)において、首相の座を2回(83年、87年)も得るほど、連立与党内に強大な支配力を誇っていました。
つまり市民の支持が、多くの政党に分かれ、連立を組まなければ過半数に達しない場合、斬新なアイデアと政治手腕、潤沢な資金を持つカリスマであれば、支持が少なくとも、議会劇場の頂点に達することは可能だということを、クラクシーが体現していたわけです。
事実、マテオ・レンツィ元首相は以前から、尊敬する政治家にクラクシーを上げていましたし(キリスト教民主党のアルド・モーロ、アルチーデ・デ・ガスペリとともに)、『イタリア・ヴィーヴァ』の少数議員で、連立政府をなんらかの形で支配下に治めたい、と考えていたことは、今回の動きから明らかになりました。
流行のスーツに身を包み、「エスタブリッシュ然」としたレンツィ元首相は、モダンでシンプルで軽薄なボキャブラリーを駆使して、未来的な展望を語るプレゼンテーションを得意とするわりには、古色蒼然とした策を弄する、古いタイプの政治家です。
さらにマキャヴェリスト、というコンセプトから言えば、500年も昔のルネッサンス、あのボルジアの、どろどろ古い魂を現代に引き継いでいる、と言えるのかもしれません。
まず、パンデミックのこの時期、連立政府から離脱すると政権を脅せば、前倒しの総選挙をマッタレッラ大統領が決定するわけはない、と考えたのでしょう(政権が過半数を満たさず、内閣が解散したあと、選挙を行うか、臨時の政府を形成するかを決定する権限は大統領にあります)。万が一『総選挙』となれば、支持率が3%に満たない『イタリア・ヴィーヴァ』は、海の藻屑と消え去ります。
たとえば連立政権からコンテ首相が去り、いったんは大統領が指名するテクニカルな実務政府になったとしても、「アンチエスタブリッシュ」を謳う『5つ星運動』の勢力を削ぐことができる、と考えたのかもしれません。
ただし、タイミングを間違えたうえ、計算違いもあり、レンツィ元首相は連立政府を危機に陥れはしたものの、『5つ星運動』はもちろん、古巣である『民主党』も、「コンテ首相以外にこの政権のバランスを保てる人物はいない。コンテ首相でないならば、いますぐ選挙に突入だ!」と一気に結束を固め、「死なばもろとも」とレンツィ元首相を脅したため、計画に狂いが生じました。
結果、確か「野党に回る」と言っていたはずなのに、何食わぬ顔で再び過半数に舞い戻り、「自分が考えているのは、イタリアの未来。子供たちの将来のことだけだ」と主張しながら、次の連立政府で、自らの党がどれほど影響力を発揮できるポジションを得られるか、フィーコ議長を核に、難しい交渉をはじめた、というわけです。
このように、パンデミックという歴史的災禍は、そもそもあまり仲が良いとは言えなかった『5つ星運動』と『イタリア民主党』、左派勢力『LeU』の絆を、予想以上に強固にしました。この騒乱が勃発しても互いが互いを尊重し合う、とてもいい雰囲気が続いているのは頼もしいことです。
現状としては、イタリアの大部分の人々が総選挙を望んでおらず、コンテ首相の人気に衰えもありません。しかしながら、イタリアの政治は、気まぐれな運命の女神に魅入られており、日に日に気分が変わり、小さい意見の違いから仲間割れが起こったり、逆に相互利益を確認しあって同調が生まれたり、刻一刻と変化します。したがって、これから何が起こるかは未知数のままです。
▶︎イタリアの不安定な政治の理由と数のマジック