パオロ・グラッシーニがインタビューで語った、1974年、12月14日にコリエレ・デラ・セーラ紙に寄稿されたピエールパオロ・パソリーニの、冒頭、詩のごとくはじまる記事 ”Cos’è questo golpe? Io so(このクーデターが何なのか、僕は知っている)”は、時代を超え、伝説にすらなっています。
もちろん『鉛の時代』に起こった数々の事件、事象の内容を把握していなければ、ひとつひとつの記述の詳細は分からないのですが、『フォンターナ広場爆発事件』の流れをおおかた把握していれば、この記事でパソリーニが何を糾弾しているか、おぼろげに見えるのではないかと思います。
ネオファシスト、イタリア国家の軍、及び内務省のシークレット・サービスが国際諜報とともにプロジェクトした謀略が、一部の若者たちの間では語られてはいても、未だ公にはなっていない74年の時点で、コリエレ・デッラ・セーラという主要紙にこの記事が発表されたことは驚くべきことでもあります。
また、『イタリア共産党』など具体的な固有名詞、そして政治思想などの詳細の記述に重点を置かずにこの記事を読むならば、ある意味、その主張は普遍的な「権力」のエニグマ、その権力に組みしない人種である「知識人」としてのパソリーニ自身の、きわめて明確な覚悟がメタフォライズされているかもしれません。なお、この場合、彼が使うIntellettualeー知識人という言葉は、自らを特権的に捉えているわけではなく、長い勉学と思索を積み重ねた「表現者」として自らを認識していた、と捉えるのが妥当と考えます。
イタリアで、現在、最も多い部数を誇る影響力のある新聞が、74年という政治の混乱期に、このような攻撃的でスキャンダラスな記事を掲載したこと(著者であるパソリーニ自身も、熱狂的なファンに支えられながら、常に右派からも、左派からも糾弾、攻撃され、数々のスキャンダルに巻き込まれた人物でありましたし)は意義深く、勇気あることでもあります。
終わりなき暴力的なカオス、謎と不穏に満ちた時代、パソリーニが署名入りで主要紙にこの記事を発表した日は、国内に衝撃が走ったと言います。今の時代にもその衝撃は語り継がれ、ネットで検索すれば、この記事に関する記述が数多くヒットもします。パソリーニは、ミラノの富豪(当時)が所有する、このコリエレ・デッラ・セーラ紙に1973年1月7日からジャーナリストとして記事を書きはじめ、その言論は世間に大きな影響を与えました。
この記事の発表から約1年が経った75年の11月2日、『Salò o le 120 giornate di Sodomaーサロ、あるいはソドムの120日』、観る者に直視できない、いや、嫌悪をももよおさせるほど、ショッキングな映像でタブーともなった映画の封切り直後、パソリーニはローマ近郊の海辺、オースティアで惨殺されます。当時パソリーニは、1962年、イタリアのエネルギー主要会社ENIの総裁、エンリコ・マッテイが巻き込まれた飛行機爆破事件の不可解をつぶさに取材、『原油』という小説を書いていますが(未完)、この経緯については『パッショーネ』に若干記述しました。
なお、「僕は知っている」は、通常、メタフォリックに前半だけが引用されることが多い記事ですが、記事全体を見ることで、『イタリア共産党』をも非難するパソリーニの権力への姿勢が明らかになると思われたため、記事を全訳しました。
Cos’è questo golpe? Io so
このクーデターはいったい何なのか? 僕は知っている。
ピエールパオロ・パソリーニ
僕は知っている。
僕は知っている。”クーデター”(実のところ、この一連の”クーデター”は、権力を保護するために仕組まれたものだが)と呼ばれるこの動きの、事実上の責任者の名前を。
僕は知っている。1969年12月12日のミラノ(フォンターナ広場爆破事件)の大虐殺の責任者の名前を。僕は知ってる。1974年 初頭に起こったブレーシャ(デラ・ロッジャ広場爆破事件)、ボローニャ(イタリクス事件)の、事実上の責任者の名前を。僕は知っている。これらの事件、つまり”クーデター”を企てた昔ながらのファシストたち、初期の虐殺爆破事件を実際に遂行したネオファシストたち、さらに最近の虐殺爆破事件を実際に実行した”名無し”たち、謀略を練り操った”首脳陣”たちの名前を。
僕は知っている。ふたつの違う勢力、いやむしろまったく対局にある勢力をうまく利用して緊張状態に導いた者たちの名前を:ひとつはアンチコミュニストの形成期(Milano 1969の事件により)、ふたつめはアンチファシストの形勢期(74年Bresciaデッラ・ロッジャ広場とBologna イタルクスの事件)である。僕は知っている。CIA (マフィアであるギリシャの大佐たちの軍事政治体制に準じるため)の助けを借りて、まず最初にアンチコミュニスト十字軍を構築し(悲惨な失敗に終わりそうだが)、68年までの(民主主義的な)動きを封じ、さらにはーこれもまたCIAからインスパイアされ、その助けを得たものだがー”国民投票”*という災難を防ぐために、純然たるアンチファシストグループを再構成した権力者グループに属する者たちの名を(*74年5月に『離婚』を法律化するための国民投票が行われた)。
僕は知っている。古参の軍司令官たち(潜在的なクーデターを計画し、それを維持するために)、若いネオファシストたち、いや、むしろネオナチストというべきだが(アンチコミュニズム勢力として確固とした緊張を確立させるために)、そして最後に、それは多分永遠に、名無しのまま(アンチファシストたちの次なる緊張を煽るために)普通の犯罪者となり、多分恒常的にそうなるであろう者たちに、潜在的政治力を次々と与え、その力を保証した者たちの名を。
まるでオペレッタのようにCitta Ducale*(その間、イタリアの森林は燃え尽きようとしていたのに)で活動していた滑稽な人物たち、たとえばあの森林警備隊の司令官*(*Citta Ducaleの森林警備隊の司令官はボルゲーゼのクーデターに加勢しようと隊を扇動しています)、あるいはグレイッシュでよく正体のわからない、それでいて純粋に活動的な人物たち、たとえばミチェリ司令官*( *当時のSID、内務情報局のシークレットサービスの責任者) のような特異な人物の背後に存在する、謹厳で重要な者たちの名前を。
僕は知っている。殺し屋や刺客となることも厭わない、残忍なファシストやならず者の集団ーそれがシシリア出身の者たちであろうと、なかろうとーとして自殺的な残虐行為を選んだ悲劇的な青年たちの背後にいる、謹厳で重要な者たちの名前を。
僕は知っている。これらの人物たちの名前、そして有罪であるべき彼らがやった事実(政治体制への攻撃や虐殺事件)のすべてを。
僕は知っている。しかし、証拠がない。手がかりすら持っていない。
僕は知っている。なぜなら僕は、起こることすべてを追いかけ、書くべきことを識ろうとし、通常は知ることのできない、沈黙されている事項を想像により再構成する知識人であり、小説家だからだ。僕は遠い場所から、それぞれ関係がないような事柄も含め、バラバラで無秩序のままにある断片をまとめ、狂気と謎に実体を持たせ、うまくまとまるように論理を再構築する政治的な描写によって一貫性のあるものへと置き換える。そうすることが僕の職業の役割のひとつであり、作家としての本能でもある。僕のこの”小説化されたプロジェクトの全容”が現実とはかけ離れた間違いであり、そのなかで言及している事実、登場人物である現存の人物描写が不正確だと考えることは難しいと思っている。さらに僕が知っていることは、他の小説家や知識人も、小説家、知識人であるがゆえに、すでに知っていると思う。なぜなら、68年以降のイタリアに起こった事件における真実を認識する、再構成することは、それほど難しいことではないからだ。
この真実はー完璧な精度でそれを真実だと感じることができるがージャーナリスムを使う、政治的な巨大な介入の背後に存在する:つまり、本来小説家である僕がするような想像や虚構が、(真実を伝えるはずの)ジャーナリストにより書かれているのだ。直近の例をあげれば:真実そのものが、1974年11月1日付けのコリエレ・デッラ・セーラの社説の背後で、それら首謀者の名前をちらつかせながら、何者かがせきたてたのは明らかである(記事内容不明)。
多分、ジャーナリストたちや政治家たちは、証拠、あるいは少なくともなんらかの手がかりを持っているのだろう。
今問題なのはこういうことだ:ジャーナリストや政治家は、おそらく証拠、あるいは手がかりに近いものを持っているのに、誰も名前も明かさないということなのだ。
では一体何者が(ジャーナリストや政治家がそれを明かせないのであれば)、これらの名前(をもつ権力者たち)に責任を負うのか? 十分な勇気を持っている者、実際に権力に妥協しない者だということは明らかであるが、そのうえ定義上、失なうものを持たない者:つまり知識人である。
知識人こそが、公に名を明かすことができる。しかし証拠も手がかりもない。
権力と世界はー権力に属すことなく、権力と実際に取引をしている世界はー自由な知識人たちを、証拠、あるいは手がかりを得る可能性から排斥した。例えば、知識人であり、物語の紡ぎ手でもある僕は、明示的な政治世界に(権力、あるいは権力の周辺に属する者が構成する)、自らを危険にさらしながら入っていけるのではないか、非常に高い可能性として、証拠と手がかりを得る権利を持つことのできる世界に参加できるのではないか。しかし、それは不可能である、と僕は答えよう。真実を述べる(つまり明確に彼らの名前を明らかにするということ)、という潜在的な知的勇気を持ちながら、政治世界に入るという行為は嫌悪以外の何ものでもないからだ。
真実を追求する知的勇気と実際の政治は、イタリアにおいては両立しない。知識人はーイタリアのすべてのブルジョア階級に属する者たちから、激しく、また本能的に無価値だとみなされているがー見せかけの、上品で高貴な役割を担わせられているが:しかしモラルの問題や思想を議論することにおいては、実のところ、卑しいものでしかないのだ。もしモラルに関する問題や思想を議論すれば、自らの役割への裏切り者だとみなされ、”聖職への裏切り”と叫ばれ(まるでそれ以外のことは待ってなかったかのように声高に)、また、知識人を糾弾することが政治家や権力に奉仕する者たちのアリバイであり、満足だ、と叫ばれる。
しかし世の中には権力だけが存在するわけではない:反権力もまた存在する。イタリアにおいては、権力と同じほど、反権力は広大で力強い:もちろん僕が言及しているのは『イタリア共産党』のことであるが。
この時期に、反対勢力として『イタリア共産党』のように大きな政党が存在することが貧弱な民主主義制度しか持たないイタリアにとっては救いであることは確かだ。『イタリア共産党』は、堕落した国にある清潔な国、嘘つきの国にある正直な国、愚かな国にある知的な国、無知の国にある教養のある国、消費主義の国にある人間的な国のようなものだ。ここ数年の間に、イタリア共産党の内部は真性な意味で互いに了解、統一ー幹部、基盤、そして有権者たちすべてがコンパクトにーされた。そしてその他のイタリアは、『イタリア共産党』という『分離した国』、ひとつの離れ小島と交易を開いた(交流をはじめた)わけだ。
こういう状態であるからこそ、今日、共産党は腐敗した、役立たずで品位のない、現権力に癒着することなく、強い関係*を結んでいる(*この時代のイタリアの第1党はキリスト教民主党、長期間、支配権力のシンボルともみなされた):しかしその関係は国と国の外交関係とでもいうものでもある。実際のところ、彼らの具体性、統一性において、両者のモラルの違いは計り知れないものだ。この事実を根拠に、完全な破滅の道へと進もうとするイタリアを救うための、現実的な妥協を思い描くことが可能である。:”妥協”はしかし実際のところ、互いに互いを鎖でしばるふたつの隣接した国の”連帯*”でもあるのだ (78年に『赤い旅団』により誘拐、殺害されたキリスト教民主党のアルド・モーロ元首相は、イタリア共産党との連立政権を支持し、実現しようとしていました)。
しかし今僕が言及したイタリア共産党のポジティブな側面はまた、相対的にネガティブな側面をもまた、同時に構築する。
国をふたつに分けることで、一方が堕落と悪に首まで浸かり、一方が何ひとつ手付かずのまま、妥協もしなければ、平和を得ることは難しく、また建設的ではない。その上、僕が概略を述べたようなことが想像され、客観的に、すなわち国のなかにあるもうひとつの国のように、反対勢力も別の権力として自己をみなすことになる:それは反対勢力の権力ではあるが、それでもなお、常に権力であることには間違いない。つまり反対勢力の政治家である人物たちも、権力者のごとく振る舞わずにはいられないのだ。
今このときのように、イタリアが非常に特殊な悲劇的な状況に置かれているとき、(僕のような)知識人は彼らの側に立っているとみなされる。ー純粋にモラル的にイデオロギー的にふるまうことでー彼らの側に立たないとすれば、彼らすべてを納得させる。つまり、裏切り者、とみなされる、ということである。反対勢力の人物たちは一連の事件に関する証拠、少なくとも手がかりを持っているならばーそして多分彼らはそれらを持っているがー実際の責任者たちが誰であるのか、つまりそれに関わる政治家たち、滑稽なクーデターを策謀した者たち、恐るべき数々の虐殺事件を企てた者たちの名前を、何故、今、明かさないのか。簡単なことだ。反権力勢力の政治家たちはーここが知識人と大きく違うところだがー政治的真実と政治的実践を区別する限り、彼らは名前を明かさないのだ。したがって、もちろん彼らまで、非公式な知識人には証拠や手がかりを手渡さない、という状況となっている:客観的な事実関係を考えれば当然だが、そんなことは夢にも考えないのだ。
知識人は義務として、この状況に関わるために繰り返し、事象を関連づけ、編集しなおさなければならない。
僕は今このとき、すべての政治階級に属する者を不承認にする、まったく認めないという発議を、公にする(議会で議員が手をあげて発議をするように)ケースではないことーこのイタリアの歴史において特殊な時期にーをよく理解しているつもりだ。そうすることは外交的でもなく、適切でもない。しかし、そうすることは政治のカテゴリーであって、政治的真理ではない:知識人がそれをできる時に、また適切な方法を使って、すべきことをする存在であることが重要なのだ。そういうことだ。そういうわけで僕は、いままさに緊急事態宣言を出そうする、数々の虐殺事件の首謀者たちの名前を挙げることができない。(その代わりというわけではないが)イタリアのすべての政治家すべてに対する、僕の弱々しく、理想主義の非難を口に出すこともできない。
そして、僕が信じるところの政治を信じるように、民主主義の『形式的』原理を信じ、議会と政党を信じる。もちろん、それはひとりの共産主義者としての特別な視点をもって、そうするのだ。
もし、一人の政治家が意を決して、その時期が来たから、という理由ではなく、その時期を自ら進んで選び、その責任者の名前を公表することを熱望することになれば、政治そのものを不承認にするという発議を引っ込める用意はできている(そしてその機会を待っている)。クーデターと虐殺事件の責任者の名前を僕と同様に知っていて、明らかにその証拠、少なくとも手がかりを知らないわけがない人物が、その名前を公表することを決めることを待っている。
多分ーアメリカの権力者たちがそれに同意すればーつまりニクソンに認められたアメリカ的民主主義が、他の民主主義の有り様を”外交的”に好意的に認めればだが、これらの名前は遅かれ、早かれ公にされることだろう。しかしそれを言う者たちは、米国の権力を共有する者たちだ:より責任のある者たちに対して、より責任のない者たちとしてである(アメリカの場合のように、それがより良い者だと言っているわけではない)。
そして、それこそが決定的な、真のクーデターであるにちがいない。