イタリアの人々は、主要メディアの報道に対して、かなり不満を持っているようではありますが、外国人であるわたしには、イタリアのジャーナリズムには「禁忌となるテーマ」が、ほぼ存在しないのではないか、という印象を持っています。闇のなかに埋もれ語られずにいた「不都合な真実」に光をあて、徹底的に暴き尽くし分析する、なかなか気骨のあるジャーナリストがイタリアには多くいて、スクープのたびに国じゅうが大騒ぎになることも少なくありません。
しかも、彼らが証拠を掴んで明らかにする「真実」は、たとえばネットで静かに語られる程度では済まず、主要メディアが積極的に、しかも劇的に掲載し、大キャンペーンを展開するケースもあります(もちろん、事件の内容に政治的要素がある場合は「意図的」に、と考えられる、ありきたりなネガティブ・キャンペーンの場合もありますが)。
一度発覚すると、マフィアが絡んでいたり、国際問題に発展しそうだったりと、かなりあぶなっかしい複雑な案件であっても、どうにも隠すことができない、喋らずにはいられない、開放的なメンタリティを持つイタリアですから、世間の空気、しがらみなどまったく意に介する風でもなく、「これでもか、これでもか」と暴き続けるメディアの姿勢はなかなか大胆不敵です。しかも暴かれた案件は一過性に終わることなく、ことあるごとに執拗に、繰り返し語られ続け、市民の注意を惹き続けます。
しかしまた、「真実を暴き、市民に伝える」というその信念と正義感が、のちに深刻な脅迫や妨害を招き、ジャーナリストがその身を危険に晒す事態に発展するケースも多く、2015年、5月14日付のラ・レプッブリカ紙は、当局が身辺警護せざるをえなくなったジャーナリストの増加の記事を掲載、大きく問題視しました。イタリアが「報道の自由」世界ランキング74位(2022年は180国中58位)と、かなり低い位置にあるのも、ジャーナリストへのこの脅迫、妨害という背景があるからに他ならないでしょう。
『鉛の時代』、真実を掴んだ多くのジャーナリストが次々に殺害され、口封じされた事実から、イタリアには命知らず、まさに真正のジャーナリストが多く存在することを知ってはいましたが、現在もこれほど多くのジャーナリストが危険に晒されているとは、と記事を読みながら、正直、驚愕しました。ラ・レプッブリカ紙によると、2015年に入って、5 月14日の時点で159件のジャーナリスト脅迫事件が起こっています。それが9月20日には、なんと206人にまで膨れあがっている。
ところで、近年最も重要視されるジャーナリストの脅迫事件といえば、ロベルト・サヴィアーノの例が有名です。2008年、マテオ・ガッローネが監督し、カンヌ映画祭で審査員特別賞を受賞した映画の原作、ナポリのローカルマフィア「カモッラ」の凄まじい実態を描いた「ゴモッラ」の著者であり、ベストセラー作家のロベルト・サヴィアーノが、「いつか必ず殺してやる」とひっきりなしに暗殺予告を受け、それ以来、当局の厳しい身辺警護のもとで活動していることは国内外でも知られています(それが2023年まで継続しています)。
1979年、ナポリに生まれたこの作家、ジャーナリスト及びコメンテーターは、当局から派遣されたボディガードに囲まれて、日常生活を監視され、行動を制限されながらも精力的に活動を続け、TVにも多く出演、現在はラ・レプッブリカ紙、エスプレッソ紙、ニューヨークタイムズ紙、ワシントンポスト紙、その他、スペイン、ドイツの有力紙とも協力、イタリアの『表現、報道の自由』をシンボライズするジャーナリストともなっています。
厳重な警護なく、ごく普通の社会生活を送ることができるなら、自由に取材に飛び回り、気ままに世界を旅することもできたであろう、いまだ36歳という若さのこの作家は、しかし何処に行くにも四六時中、スクラムを組み、銃を抱える警察の「警護」という、鉄の防壁に阻まれて生活せざるをえない。常に2台の車で7人のボディガードに取り囲まれながら移動。寝起きは警察署内かホテル、2日同じ場所に眠ることは稀、という生活だそうです。外国に行く際も、「何処へ行って、誰に会って、何をするか」、分刻みのプログラムを内務省に提出、当地の警察とともに精査され、手続きに一ヶ月以上かかることもあるそうです。
「真実」、「表現、報道の自由」という民主主義における正義を貫き、『ゴモッラ』は25万部のベストセラー、イタリアのみならず、各国で絶賛されたと同時に、自らのプライベートな時間、生きる『自由』を失ってしまったというあまりに不条理な状況に、サヴィアーノは直面しています。
「僕はまだこんなに若いんだ。他の友人たちと同じように、夜、出かけてビールを飲みたいし、恋もしたい。あたりまえのことができない生活には耐えられない。自分の人生を諦めることはできない。Cazzo! 僕はまだ28歳なんだよ。確かに僕の書くことへの情熱は途切れることはない。しかしリアリティのない生活からは何も書けない」
そうサヴィアーノは宣言し、8年前にはニューヨークに居を移した時期もありましたが(それもまたボディガードとともに)、結局再びイタリアに戻ることになりました。もちろん、その後もアンチマフィアの精鋭として、さまざまな不正を暴き、イタリアのダークサイドの現状、政治との癒着をも歯に衣を着せず糾弾、その勇気ある活動は、ウンベルト・エーコをはじめとする、イタリアの知識人たちからも強い支持を受けています。それでも彼のホームページには、監獄に閉じ込められたような生活、警護の厳しさ、また彼に対する人々の反応など、読むのが辛くなるほど深刻な苦悩が綴られているのです。
同じく5月14日付のラ・レプッブリカ紙WEB版に掲載された、サヴィアーノのインタビュー映像から引用します。
僕ら、つまり厳重な警護のもとで生活しているジャーナリストのことを、「そんなおおげさな状況はジャーナリスト自身が望んで、自らに利益になるように作り上げたんじゃないのか? 一種のオペレーション、作戦だ」という声を耳にすることがたびたびあるが、それはまったく真実ではない。もし、それが真実であれば、僕はこの厳重な警護が永遠に続くことを僕らは望むはずだ。
あるいはまた「国家が、あるジャーナリストを『言論の自由』を守るために厳重警護するということは、『表現の自由』を完全に保護している、つまり国家こそが自由の味方だ、という国家にとってはイメージ・アップのプロモーションにもなる。と同時にジャーナリストは、国家に警護されている状況が、自分という主役をめぐる仰々しい舞台装置となって、仕事の可能性も増え、さらなるキャリアを積むことができるじゃないか。だいたい本当にマフィアに脅迫されているのなら、とっくに殺されていてもいいはずだ」などということを言う人々もいるが、僕はこのような発言は大変危険なことだと思っている。このような物事の捉え方はマフィアを増長させ、世の中を彼らのモラルで塗り替えようと目論んでいる、彼らの構想そのものを受け入れるということだ。
「僕らを消す」ということは、「僕らの言葉を消す」、ということだ。この数年間で、僕の警護はいよいよ厳重になり、いつになったら、この状況から解放されるのか、まったく見通しのきかない、かなり不安な毎日を送っている。こんな状況に置かれているというのに、「キャリアを積みたいから、みなの関心を惹こうと、自ら進んでこんな状況をつくりだしている」と言う輩には、われわれは、もはやキャリアなど積む必要はない、さらに一般の市民生活を送っている市民たちが、僕らに関心を払うことは、まったくないのだ、と言いたい。
マフィアというのは、Attenzioneー関心は『時間』だということをよく知っている。マフィアは、人々の関心が薄れ、警護が弱まり、司法上の手続きすべてが終わるのを、じっと『待っている』ものなんだ。
最近の僕の経験は、かなり複雑なものだった。マフィアのボスの差し金で僕を脅迫し続けていた弁護士がいたのだが、脅迫を命じた、と推察されるマフィアのボスたちは、今回の裁判で、結局『無罪』になった。理由は、弁護士が僕を脅迫していた事実をボスが知っていたか、知らなかったのか証拠がなく、彼らが命じていたと断じることはできない、というものだった(確固とした証拠がないため。『疑わしきは罰せず』という司法のモラルにより)。僕らは、たとえば友人や、家族をも含めて日常的に脅し上げられているというのに。
僕たちは1日も早く、普通の生活に戻りたい。マフィアからも、警護からも自由になりたい。僕の生活は常に監視され、管理されている。
自由に発言したために自由を奪われる。監視され続け、プライベートがまったくない、という状況は、どれほど頑強な精神力の持ち主でも、かなり応える状況だと察します。わたしも含め、普通に社会生活をしている市民たちは、確かに日々の生活に忙殺され、ともすれば自分の暮らすテリトリーとは遠くに存在すると感じられる、社会的事件への関心も徐々に薄くなります。また、不正を憎んではいても、人は日常の暮らしの雑多なあれこれに気を取られるうちに、簡単に、重大な社会問題、あるいは国際問題を忘れてしまいます。そしてサヴィアーノが言うように、時間は「罠」でもあることを、自覚しておいたほうが良さそうです。
さて、話を本筋に戻します。