『鉛の時代』の「占拠」から現代へ: ローマの心臓部、Spin Time Labsの場合

Cultura popolare Deep Roma Occupazione Società

イタリア人を含める30カ国以上の国籍、130世帯もの家族が占拠している巨大な建造物があることを知ったのは、映画監督パオロ・グラッシーニとの雑談からでした。「大がかりな『占拠』だよ。週末は地下にあるチェントロ・ソチャーレ(反議会政治グループの占拠による社会文化スペース)で、レゲエだの、テクノだの夜通しパーティをやっていることもある」

その、ローマのアンダーグラウンド・カルチャー界になっていた、チェントロ・ソチャーレ「Spin Time Labs(スピンタイラブス)」に、わたしがはじめて立ち寄ったのは、今年の遅い春のことです。その晩、スピンタイムでは、ブラジル路上生活をせざるをえない境遇に陥った少年たちに、自ら私財投げ打って住居提供、彼らの教育にも携わっているイタリア人社会活動家のための基金を募る「ラテン・フォークロア・フェスタ」が開かれ、その情報が別の文脈から人づてに流れてきたのでした。

Google マップを頼りにたどりついたその通りに聳える巨大建造物は、ローマでは珍しい、戦後建てられたと思われる無機質で直線的建築で、どこかミース・ファン・デル・ローエの作品を彷彿とさせる風情でした。比較的中心街にあるにも関わらず、周囲には店もバールも見当たらず、人通りも少ないため、夜半ともなると閑散として、ぐるり一周歩いても(巨大建造物のため、一周するとかなりの距離になります)、なかなか入り口が見つかりません。行ったり来たりしながらようやく見つけた玄関は、今にも剥がれそうな、ライブ告知のビラでいっぱいの頑丈な鉄門でした。

重たいその門をギギギと軋ませ中に入ると、グレイッシュな石の階段、いくつも並ぶ飾りのない硬質のガラスとアルミの窓、植木のない中庭、やはり無機質で直線的な空間が広がっています。その空間を通り抜け、何となく気後れしながら巨大ガラス扉を抜けた途端、ギリシャ神話から題材をとったと思われる、重厚なレリーフが設えられた正面玄関踊り場が現れて、そこには子供が工作で作ったような赤い花や青い花、星や月、手書きで雑に書いた「Welcome」ポスターが、まったく調和を考えることなく、バラバラと無造作に飾られていました。レリーフを見上げると、両手を広げて優雅に踊る、ふくよかな女神が悩ましげな視線を辺りに投げかけています。

その薄暗い玄関の踊り場には簡素な机、カンパ用のボール箱が置かれ、数人の若い男女が呑気にタバコをふかしながら談笑していました。「パーティだね。会場はこっちだよ」とその男女に案内された地下へと続く階段は、埃にまみれながらも総大理石という豪華さで、その階段をキョロキョロしながら、さらに暗い地下へと潜ります。確かに、どこか遠くで音楽が鳴り響いているのですが、ところどころ染みのついた、黴臭い壁に囲まれた闇のなか、歩いても、歩いてもなかなか会場にはたどりつけません。

不安な気持ちであちこち曲がりくねったトンネルを、慎重に通り抜けると、ようやく人のざわめき、赤い灯が漏れてきて、ほっと胸を撫でおろすことになりました。その「異次元」へのちょっとしたタイムカプセル体験から抜け出して、明るいところで辺りを見回すと、一面にかなり鮮烈な色彩のウォールペインティングが好き放題に描かれていて、思わず「おっ」と声が漏れます。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

Spin Time Labs ホールのウォールペインティング。スピンタイムの文化スペースはホールの他に、演劇やコンサートを開くためのアウディトリウムや幾つものミーティングルーム、食堂、作業室があり、その充実ぶりには目を見張ります。

ただ、ただ広いホール、地下のスペースに大勢の人々ががやがや集まるが大きく壁に映り込み、その薄暗さが、どこかあやしげでもありましたが、薄赤いスポットにもやがて目が慣れ周りを見ると、大勢の人々がビールの入ったプラスティックのグラスを片手に歩き回ったり、立ったり座ったり、大声で話したりと、会場は明るく賑わっています。

大きなイヤリングを垂らしたエレガントな初老ご婦人、背中が腰まで大きく開いた、真っ赤ナイトドレスをまとう美女70年代風ファッションの若いカップルドレッドにピアス、サンダル履き男の子、巻き髪に黒いベルベットリボンを結んだ人形のようなキュートな女の子、にこにこ微笑みながらをついて、ホールを歩きまわる老人、哲学者のごとく苦悩に満ちた顔をした紳士が、白い髪をかきあげながらラテンミュージックに酔い痴れています。そんな大人たちの群れの足元では、南米やアフリカ大陸がオリジナルと思われる子供たち子犬数匹が、深夜だというのに駆け回って、わたしはそのカテゴライズ不能、何とも形容しがたい、見たことのない光景に、瞬く間に魅了されました。

さらにあちらこちらを歩き廻って、これはすごい、と目を見張ることになるのですが、ワンフロアを散策するだけでくたびれる、その7階建の巨大建造物は、長い間、閉ざされたままの廃墟だったゆえ荒れ果て、ところどころ埃が積もってはいても、床は総大理石、階段の手すりも磨き込まれ、地下1階には「アウディトリウム」と呼ばれる、600〜700人は収容できそうな、立派なコングレスホールもあります。しかしローマのほぼ中心街に建てられた、こんなに豪勢な建造物が、いつのまにか廃墟となって、打ち捨てられていたなんて、にわかには信じ難い出来事です。

そこで数人の人々に、「この建物は一体何なんですか?」と聞いてみると、「さあ、知らないな」「何だろうね、大きいよね」「病院ではないな」「学校でもない」「普通じゃないよな」「ああ、普通じゃない」「パオローネが知っているよ」「そうそう、パオローネに聞くといい」「パオローネ?」「さっき見かけたけれど、どこへ行ったのかな」「あ、あそこにいる」「本当だ。パオローネだ。あの痩せた背の高いスキンヘッドの彼がパオローネ。彼に聞いてみるといいよ」と、それぞれがはるか遠くに見える人影を指さすのです。

こうして、ようやくこの「占拠」の責任者のひとりであろう「パオローネ」に行き着くことになるわけですが、みなからパオローネ(Big Paolo)と呼ばれ慕われる、その人物こそが、ローマの「占拠」界伝説パオロ・ペッリーニ氏であることを、のちに知ることになります。そのときのパオローネは、穏やかそうでありながら、時に鋭い視線を放ち、周囲に気を配る様子から、なかなか一筋縄ではいかない人物とお見受けしました。赤いTシャツという普段着でも、その優雅な物腰からは「在野の聖職者」、とでもいうような、おごそかな空気が漂よってもいる。それがペッリーニ氏を見た瞬間の第1印象です。

「はじめまして」わたしは人をかき分けながら、パオローネに歩み寄り、自己紹介もそこそこに「一体この建物は何なんですか? なんでこんなに豪華なのですか」と単刀直入に尋ねてみました。なお、わたし自身は、そもそもそれほど礼儀知らず、というわけでもないにも関わらず、なんとなく周囲の雰囲気に飲まれてしまい、どう振舞っていいのか見当がつかず、ストレート唐突な問いとなってしまったのです。しかしパオローネ=ペッリーニ氏は、そんな無礼にもほとんど表情を崩さず、微笑みながら、気さくにこう答えました。「ここはね、昔『官僚』の宿舎だったんだ。それが閉鎖されて、まったく利用されずに長い間放棄されたままでね。なかなかいい建造物だろう?」

そこで、「なるほど、この巨大建造物は、市民の税金で建設された、過去、官僚たちの憩いの場であったのか」、と、豪華さの合点がいきました。総大理石と重厚なレリーフ、本格的なコングレスホールの理由がこうして明らかになり、しかし、こんな贅沢な廃墟がローマの中心街にほど近い、こんな場所に存在していること、そして長い間、廃墟になっていたことを、おそらくローマ市民のほとんどが知らなかったのではないのでしょうか。

「おもしろい!」そう反射的に思い、パオローネに詳しい話を聞かせてほしいとインタビューを申し出たところ、彼は一瞬考えたように真顔に戻って下を向きましたが、顔を上げ微笑むと「いいよ。午後においで。ミーティングをやっている時間にね」やはり気さくに言います。そのとき背後から「パオローネ、パオローネ」と誰かが呼んで、パオローネはその声に応えるように、ゆっくりと片手を上げました。そしてわたしに軽く会釈、「じゃあ、また。午後に」と言い残し、せつなげなラテンの歌声に乗って人の群れのなかへ悠々と消えていったのです。そのあと、パーティ会場で彼の姿を見かけることはありませんでした。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

あらゆる壁の隙間に、何かがこっそり描かれている

さて、「夕方」と漠然と言われても、いつ行けばいいのか、皆目見当がつきません。しかし住所はすでに確認済みでしたから、とりあえず、行き当たりばったり、行ってみることにします。さっそく鉄門のある玄関へと向かいましたが、パーティの日は開いていた鉄門には大蛇のような鎖が巻き付けられ、頑丈に鍵がかけられていました。建物の周囲を息を切らせて歩き回ってもまったく入り口が分からず、そもそも違法に「占拠」された巨大建造物ですから、関係者でもないのに、普段はそうそう簡単には内部に入れてもらえないのかもしれません。

しかたない。次のイベントまで待とう、と諦めかけ、近所のバールでエスプレッソでも飲んで帰ろうとしたときです。遠くを歩くアフリカ人の青年が、巨大建造物の大通り側でスッと消えるのを見かけたのです。青年が消えたあたりは先ほどから何度も行き過ぎた場所ですが、どうやらあの辺りに入り口があるのかもしれません。

見当をつけてその場へ直行すると、すりガラスが嵌め込まれた鉄柵の小さいドアが、何気なく、やはり鎖が巻かれて存在しています。実際、これでは入り口かどうか外からはまったく分かりません。そこで、すりガラスに顔を近づけ、聞き耳をたてると、中から人の話す声が聞こえてきたので、「ボンジョルノ」と大声で挨拶してみましたが、返答はありませんでした。さらにもう一度、「ボンジョルノ」と大声をあげても、シーンとしています。

「確かに声は聞こえているのに」、としばらくその場に佇んでいると、イスラムのヴェールを被った北アフリカ系と思われる中年の婦人が、ようやく顔を覗かせ、「何の用?」と眉を顰めて迷惑そうに聞くので、「パオローネに会いにきたのだ」と答えると、「パオローネ。さあ、いるかいないか、分からないよ」とドアを開けて、しぶしぶ、といった様子でなかに入れてくれたのです。この建造物の住人たちなのでしょう。踊り場になっているその周辺に集っていた数人のアフリカ系、南米系、そしてイタリア人の人々は一様に訝しげにわたしを見つめます。

と、その緊張を和らげるかのように、さきほど道で見かけたアフリカ人の青年が、真っ白い歯をニッコリ見せて「ニーハオ」とおどけながら明るく挨拶しました。思わず吹き出して「残念。わたしは日本人です」と答えると、ごめんごめん、とさらに白い歯を見せて笑い、今度は「僕、大好きなんだ。テコンドー」と自信たっぷりにポーズを決めます。その様子があまりに無邪気で、つられて笑うと、彼もまた嬉しそうに「テコンドー、テコンドー」と繰り返しました。いずれにしてもアフリカの人々における、東アジア各国の認識はこの程度のものです。

RSSの登録はこちらから