世界を駆け巡る革命戦士『オズワルド』
誰もが、彼が絶対的にフェルトリネッリだと知っていたにも関わらず、他の革命家たちと接触する際は、必ず『オズワルド』と名乗り、フェルトリネッリは決して本名を明かさなかったと言います。『赤い旅団』との接触は、そもそもレナート・クルチョが『オズワルド』のことをトレントでの学生時代からよく知っていたことに加え、フランチェスキーニがレッジョ・エミリア時代に仲間たちと共同生活していたころ、弁護士を通じて間接的に青年たちを援助し、彼らの動きを背後で追っていたという経緯があります。またCPM時代は武装集団形成のため、ヴァンニ・ムリナリスを通じて、クルチョとともに、件のコラード・シミオーニとも何回か会ったことがあるそうです。
『革命』のスタイルについていえば、レナート・クルチョが、都会的なメトロポリタン『革命』闘争を目指したのに対して、フェルトリネッリの『革命』のイメージは、かつてのパルチザンのレジスタンスのように野山を駆け巡って攻めるスタイルで、レッジョ・エミリアのパルチザン文化のなかで育ったフランチェスキーニには馴染みのある考え方でもあり、共感もしています。共産主義パルチザンたちにとっては、イタリアの終戦記念日とも言えるファシズムからの解放記念日であるの4月25日は、単なる停戦のメモリアルデーにしか過ぎず、フェルトリネッリにとっても、闘いは終わっていなかったということです。なにより『フォンターナ広場爆破事件」以降、社会が一気に騒乱へ向かい、緊急を要する事態となっていました。
シミオーニと決別しCPMを解散したあとのクルチョ、フランチェスキーニは、1ヶ月に1度の割合で、『オズワルド』に会っていたそうです。火曜日の夜8時、と時間を決めて、カステッロ・スフォルツェスコの公園のベンチで待ち合わせをし、『オズワルド』がもし来なければ、次の週にまた行ってみる、という会い方で、普段は互いに知らないふりをしていました。なるほど、秘密裏に動く革命家同士は、電話では盗聴の心配があるため、カジュアルに連絡し合うことはありえないことなのでしょう。
『オズワルド』は、1969年、12月に起こった『フォンターナ広場爆発事件』以来、Clandestino(偽の身分証明書で、正体を隠して活動:しかし彼がフェルトリネッリであることは、周囲の誰もが知っていたわけですが)となり、ファシストたち(軍部、軍部諜報、CIAなど国際諜報、極右グループを含み)がただちに起こすであろうクーデターをしきりに心配していたと言います。事実、『フォンターナ広場爆破事件』では、主犯とされる極右グループ及び国内外の諜報たちが目的とした『緊急事態宣言』は、ルモール首相の英断で発動されることはありませんでしたが、いつ何が起こってもおかしくない緊張が、社会を覆いはじめていました。
1970年の5月には、『フォンターナ広場事件』の捜査がアナーキストの犯行という、『真実』とはかけ離れた方向へと向かい、極右グループの関与が公にはなっていない時点で、弁護士と数人のジャーナリストが匿名で『La strage di Stato( 国家の虐殺)controinchiesta (カウンター捜査)』という書籍を出版していたことは、以前の項で述べましたが、当時の極左グループの誰もが、おぼろげながらも『緊張作戦』を把握し、イタリアが軍部のクーデターの危機に晒されていることを知っていたのです。
ところで、クルチョとフランチェスキーニが『オズワルド』に何度か会ううちに、『赤い旅団』が発行していた雑誌の資金源を、それとなく聞かれたのだそうです。青年たちが即座に『強盗している』と答えると、「金はわたしが出すので、もう強盗をする必要はないよ」と『オズワルド』は資金援助を申し出ています。実際『オズワルド』は大変な金持ちで、いつも気前よく資金援助をしてくれたと言います。とはいえ、かた苦しい主従の関係はなく、ミーティングが終わると、『オズワルド』と青年たちは、どこにでもあるような近所のオステリアに繰り出し、互いに冗談を言い合う親密な関係を築いていました。しかもそのオステリアでは、友達同士、必ず割勘にする習慣となっていて、フランチェスキーニもクルチョも『オズワルド』を仲間だと信頼し、ほぼ自由に、なんでも話していたと言います。
そのころの『オズワルド』は、度重なる旅で、すでにソ連、東欧諸国、南米と深い関係を築き、キューバやプラハに家を持つインターナショナルな人物で、ことあるごとに「東欧と協力しなければ革命は成功しない」と強調していましたが、『赤い旅団』としては、プラハの社会システムを受け入れるのは難しいのではないか、と逡巡もしています。フランチェスキーニは、ひょっとすると『オズワルド』は東欧のスパイかもしれない、とも考えたこともありましたが、スパイにしては知性がありすぎる、とその疑いを何度か打ち消してもいる。
フェルトリネッリはイタリアで最も質の高い出版社を持ち、『ドクトル・ジバコ』を世界に紹介し、ボリス・パルテルナークにノーベル文学賞を受賞させるほどの影響力を持つ、世界の文化に精通したインテリでした。その時代の『赤い旅団』はインターナショナルな連帯を何ひとつ持っていなかったので、『オズワルド』が『赤い旅団』の青年たちにとっての「世界との架け橋」であり、青年たちはいつか彼が『赤い旅団』に参入してくれることを信じてもいた。フランチェスキーニは、『オズワルド』がイタリア社会に思想的影響を与えるために東欧と連帯したエージェントだった可能性を完全に打ち消すことはできなくても、『オズワルド』のことが大好きで、信頼しきっていたと言います。
フェルトリネッリが『赤い旅団』と密に接触していたこの時期は、マリオ・モレッティが何人かの仲間たちとふらりと舞い戻ってきた時期と重なりますが、モレッティはフェルトリネッリについては、何ひとつ語っていません。もちろんこの時期は執行幹部ではなく、メンバーのひとりとして周辺にいたにすぎず、実際にはフェルトリネッリに会ったことはなかったのかもしれない。したがってモレッティは、パルチザングループGAPの『オズワルド』からは何の影響も受けていないとみられます。
※数少ないテレビ出演から。ジャンジャコモ・フィルトリネッリ。政治のレベルからも急進的に、人々がもっと本を読む時間ができるようにしければならない、と力説。
▶︎1972年、『赤い旅団』のその後を決定する初の誘拐事件とフェルトリネッリの死