『鉛の時代』 イタリアの知の集積 フェルトリネッリ出版と『赤い旅団』の深い関係

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1972年、その後を決定する初の誘拐事件とフェルトリネッリの死

1972年は『赤い旅団』にとって、非常にデリケートな転換を迎えた1年となりました。

その後、『誘拐』というイメージが焼きつくことになる『赤い旅団』ですが、はじめての誘拐事件は、1972年3月3日に起こしているのですそれは、マリオ・モレッティが技術者として働いていた大手通信会社シット・シーメンスの幹部、イダルゴ・マッキアニーニを誘拐したのがはじめての犯行で、その際は「morde e lascia (ちょっと噛んで離す)」、という数時間の拘束に終わっています。それでもマッキアニーニの頭部にピストルを突きつけたショッキングなポラロイド写真を公表したことで、プロパガンダとしてはおおいに成功し、あらゆる新聞が注目、『赤い旅団』の存在をさらに印象づけることになりました。

その誘拐事件が起こった際、フェルトリネッリはちょうど体調を崩し、オーストリアのお城で療養をしている最中でしたが、事件を知って「いよいよ革命の時が来た」と急いでイタリアへ舞い戻っています。『オズワルド』は、今まさに『革命』が起ころうとしていると考え、ただじっとそれを見ていることは、どうにも我慢ができなかったのでしょう。

事故(?)が起こったのは、1972年の3月14日のことでした。ミラノの近郊にあるセグラーテの高圧線付近で爆死したひとりの男の死体が発見されたのです。その死体が身につけていた身分証明書には「ヴィンチェンツォ・マッジョーニ」と記されていましたが、それはフェルトリネッリが正体を隠すために持ち歩いていた偽の身分証明書で、間もなく、その死体がジャンジャコモ・フェルトリネッリであることがインゲ・フェルトリネッリ以前のパートナーだった女性により確認されています。

なお、その時セグラーテに駆けつけたのは、奇しくも『フォンターナ広場爆破事故』の際の捜査責任者で、重要参考人として取り調べ中のジゥゼッぺ・ピネッリの警察建造物からの落下死に関して、『継続する闘争』から殺人者として糾弾されていたルイジ・カラブレージでした。そしてそのルイジ・カラブレージもまた、それから2ヶ月も経たない1972年5月に、自宅前で殺害されることになります。

カラブレージ殺害に関しては『継続する闘争』のリーダー、アドリアーノ・ソフリが主犯とされ、ソフリは無実を訴えながらも2012年まで収監され、真実は未だ謎に包まれたまま、現在は自由の身となっていますが、殺害当時のカラブレージは、『フォンターナ広場事件』の犯人たちとされる極右グループたちの武器の供給元を捜査している最中だったそうです(フォンターナ広場の爆発に使われた爆薬はNATOが隠していた武器ーNASCOと一致することが、のち、明らかになりました)。

フェルトリネッリはその日、ミラノでイタリア共産党が、融和路線、ユーロコミュニズムを推進するベルリンゲルを書記長に任命することを知り、それを阻止するために中央高圧線を爆破、ミラノの大部分の地域の電源を中断させるブラックアウトを企てるためにセグラーデの高圧線に登った、ということになっています。そのための時限爆弾が予定より早く爆発し、設置する前に爆死したと見られている。捜査の結果、『事故死』と断定されましたが、『緊張作戦』の一環としての他殺説が根強く語られ、当時は仇敵のイタリア共産党までも、CIAの『陰謀説』を主張しています。

のち、捜査が入った『赤い旅団』のアジトから、クルチョ、フランチェスキーニがセグラーデのフェルトリネッリ爆破事件を独自に調査した書類が押収され、その事故の最中に一緒にいたGAPのメンバーのひとり、ギュンターの証言を録音したテープが見つかっています。クルチョたちは『オズワルド』という大切な同志を失って、GAPのメンバーたちをかなり詳細に、執拗に調査をしていたようです。そしてその録音テープでもやはり、フェルトリネッリ自身が高圧線に登り、爆弾を仕掛けようとしていたところ、突然爆発が起こり、落下したことが語られていました。

その後何年も経ったのち、レナート・クルチョをはじめとする数人の『赤い旅団』メンバー、及び、ラ・レプッブリカ紙創立者、エウジェニオ・スカルファロなどは、フェルトリネッリの死は武装プロパガンダアクションを起こそうとした際の『事故死ー戦死』と断定。クルチョは、GAPと『赤い旅団』は強く連帯する同志であった、と声明を出しました。

しかしながらフランチェスキーニは現在も、その死に疑惑を抱き続けているのです。フランチェスキーニは、その日『オズワルド』が使った爆弾に仕掛けるタイマーがそもそも性能が悪く、機能しない不良品であったことを指摘。かつてコラード・シミオーニが秘密裏にアテネのアメリカ大使館を爆破しようと女性テロリストを送った際、タイマーが機能せずに大使館を爆破する前に彼女が自爆してしまったものと、まったく同様の型のタイマーであったことがのちに明らかになったと語っている。また、インゲ・フェルトリネッリも、「ジャンジャコモはグラディオのことも、NATOが隠した武器のことも知っていた。国にとって、あまりにも不都合な人物だった」と『政治殺人』説を主張しています。

いずれにしても、フェルトリネッリの死には『赤い旅団』だけではなく、『労動者の力』、『継続する闘争』『マニフェスト』も大きな衝撃を受け、混乱し、途方に暮れました。心理的な支柱を失った上、活動資金も武装のためのミトラ(軽機関銃)も全てフェルトリネッリからの援助だったので、どのグループも、まず一斉に資金難に陥った。マニフェストは、事故が起こったその日に資金3億リラを受け取る約束をしていたにも関わらず、その日セグラーテに向かってフェルトリネッリが運転していた小型トラックに積まれていたはずの3億リラは、どこを探しても見つかりませんでした。

また、フェルトリネッリの死後、解散したGAPをフランチェスキーニが助け、ギュンターが鍵を持っていた、フェルトリネッリのスイスの金庫を開けたところ、パスポートと身分証明書以外は何もなく、お金もまったくない空っぽの状態だったそうです。

いずれにしても、国際的にも重要な出版社の創立者であったフェルトリネッリの死は、彼を支柱にしていた極左グループだけでなく、イタリアの社会全体に大きな衝撃を与え、ミラノにあるフェルトリネッリ家の壮大な邸宅でのお葬式には多くの人々が集まりました。そしてそのお葬式は途中から一変、『CIAは殺人者、ブルジョワは殺人者』というスローガンが響き渡る政治集会へと発展し、機動隊が大挙して警備する物々しい追悼となっています。

なお、GAPが解散した後、数人のGAPメンバーが『赤い旅団』へと移動していますが、72年は、GAPのメンバーだったマリオ・ピセッタ(トレント大学)という青年が、カラブレーゼ殺人事件を機に一斉に行われた極左グループ捜査で、新たな誘拐を計画していた『赤い旅団』の別のメンバーとともに逮捕されます。彼は逮捕されると同時に、ただちにSIDー軍諜報部に協力しはじめ、『赤い旅団』に関わっているメンバーの詳細を話していますが、のちにこのピセッタが、本当に改悛者であるのか、そもそもはじめから諜報協力者だったかが、議論の的ともなりました。フランチェスキーニは、このピセッタという青年を、GAPの時代からの軍部諜報SIDの潜入者ではなかったか、と見ています。この72年の一斉捜査には、不可解な動きがいくつもあり、後述するつもりです。

※ マルコ・ベロッキオ監督1972年の作品、 Sbatti il mostro in Prima pagina (1ページ目に怪物をぶつけろ)。冒頭で極右集会で演説している青年は、2023年、『イタリアの同胞』のメンバーとして上院議長となったイグナツィオ・ラ・ルッサです。

マリオ・モレッティの帰還と『赤い旅団』の変化

71年、ピレッリの「トラック爆破プロパガンダ」で、一気に『革命』シーンに躍り出た『赤い旅団』には、フェルトリネッリだけではなく、さまざまな極左グループからコンタクトがありましたが、一旦は消えていたマリオ・モレッティが戻ってきたのも、ちょうどその時期と重なっていたことは前述した通りです。クルチョをはじめとするメンバーは、モレッティが戻ってきた当初は不信を抱き、スパイではない、という証明をさせるために、モレッティに『強盗』を強制しています。甘いといえば甘いのですが、彼らは軍諜報関係者ならば、社会倫理に反する強盗などするはずがない、と単純に考えていました。

ロッサーナ・ロッサンダによるモレッティのインタビューを読んでいると、自分の家族や労働者仲間への思いが迸る箇所がいくつかありますが、パルチザンや『赤い旅団』の初期執行部、クルチョやフランチェスキーニへの、たとえば友情や共感、仲間意識を表現するような発言は全くありません。むしろ、自らが執行幹部のひとりとなる72年から、真の『赤い旅団』の活動がはじまるのだ、と断定してもいます。ただ、マラ・カゴールにだけは特別な仲間意識を抱いていたようです。

また、『赤い旅団』に舞い戻った際、スパイではない証明として『強盗』を強要されたとき、『Operaio non ruba(工場労働者は盗まない)』という倫理観からかなり躊躇したと、モレッティは語っていて、強盗の際は、被害にあった銀行員よりも、自分たちの方がよほど恐怖に震えていた、とも言っているのです。アルド・モーロを殺害した、とされる人物にしては、かなり臆病な発言です。

ともあれ、モレッティという人物の語りには、メリハリとなる情熱や興奮はあまり感じられず、淡々と実務的に、悪く言えばだらだらと話し続けるという印象を受けます。それは決して『冷血』という印象ではなく、時折、強い自意識が見え隠れし、その動機には、クルチョやフランチェスキーニのような『思想』に裏付けられた、ある種の『正義感』に突き動かされた、という側面は見受けられず、むしろ「彼らとは、明らかに自分は違う」という承認欲求が強いようにも思う。また、『赤い旅団』は、あくまで工場労働者の大規模な政治行動であり、それを率いたことを誇りに感じ、『モーロ事件』についても「ひとつの政治のあり方の実現」として、後悔する素振りは見せてはいません。

読み進むうちに、フランチェスキーニが「彼はスパイ以上の人間だ。心理レベルでは自らのことをレーニンだと思っていた」という意味が、インタビューからは、なんとなく浮き上がるようにも思います。モレッティは、グラディオー緊張作戦における『シークレット・サービスと緊密に繋がっていた』という疑いを払拭できない人物ですが、複雑な謀略の渦中にいながら、工場労働者の『クーデター』という政治行動で、国家を支配したい、権力機構を揺るがしたい、という野望もまた、彼の真実であったに違いないとは思います。

ともあれ、71年にモレッティが戻ってきてから、『赤い旅団』の暴力が次第にエスカレートした、とフランチェスキーニは指摘しています。「いつまでもトラックを燃やすだけなのか」「もっと大きなことをする必要がある」と、モレッティはたびたびクルチョ、フランチェスキーニに進言し、モレッティとなり計画した、前述のマッキアニーニの数時間の『誘拐』が成功したことを機に、執行幹部のひとりに昇格しています。

現在のフランチェスキーニは、マリオ・モレッティの背後にはコラード・シミオーニが存在する、と考えていますから、『赤い旅団』に マリオ・モレッティを通じて、再びシミオーニの力が及ぶようになると同時に、「信頼していた大好きな『オズワルド』、ジャンジャコモ・フェルトリネッリを失って、目の見えない猫たちのような気持ちで、ひたすら仲間と議論を続けた」と回想しています。

To be continued ・・・

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