『鉛の時代』 イタリアの知の集積 フェルトリネッリ出版と『赤い旅団』の深い関係

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ジャンジャコモ・フェルトリネッリとの親密な交流

急激に存在感を増した、その『赤い旅団』に興味を持って近づいてきたのが、70年当時、武装パルチザングループ『GAP』を結成したばかりのフェルトリネッリ出版の創始者、ジャンジャコモ・フェルトリネッリでした。その頃のフェルトリネッリは、学生や労働者たちに、過激な革命思想を吹き込むインテリ扇動者として、長きに渡り当局にマークされる人物でもありました。

さて、はじめて『赤い旅団』の名前が公共の電波に流れたのは70年、4月16日のことです。ジェノバ、トリノ、ミラノで、20時33分に放映されたテレビニュースの音声が、突如としてジャックされ、次のようなアナウンスが放送されたそうです。(共和国の夜・La Notte della Repubblica/セルジォ・ザヴォリより)。

アテンション。アテンション。今、君たちに向かって話しているのはGAPである。危険だから近づかないように。新しい、大規模なレジスタンスが誕生したことを告げる。それは労働者たちの資本家への反乱、国家への反乱、外国の帝国主義への反乱、人民の反乱であり、南イタリアの労働者たちの反乱である。社会の再構築、共産主義によるプロレタリアートの永遠の解放、イタリアの労働者たちの解放、長い戦争であるイタリア資本と海外資本による占領からの解放を目指して『赤い旅団』は誕生し、そしてGAPが再生した。パルチザンの旅団員たち、労働者たち、共鳴者たち、そして革命闘士である学生たちは、これからひとつとなって勝利に向かって突き進んで行くだろう。

今のイタリアでは到底考えられない、こんな電波ジャックを企てたのが、ジャンジャコモ・フェルトリネッリでした。「この書店の創始者は、インテリな過激分子だったのだ」、というようなことを考えながら、2018年のモダンでクリーンなフェルトリネッリ書店を巡ると、感慨深いものがありますが、現代イタリアの奥行きの深さ、社会心理の複雑さは、このような人物たちの存在が、いまだに社会に影響を与え続けているからかもしれない、という感触をも覚えます。

セルジォ・サヴォリの『共和国の夜』、さらにフェルトリネッリ出版の公式ホームページによると、フェルトリネッリは1970年の時点で47歳。広大な森林を所有し、代々材木商を営んできたという由来を持つフェルトリネッリ家は、イタリア屈指の富豪であり、ジャンジャコモの父親はクレディト・イタリアーノ、さらにエディソンという、イタリアの当時の金融と電力、ガス会社を代表する大企業の総帥でもあった。ジャンジャコモ本人はパルチザンとしてファシスト政権へのレジスタンス運動に参加。初期は『イタリア社会党』に所属していましたが、1947年に『イタリア共産党』へ移党しています。

1950年には、民主主義、労働者の抗議活動の歴史を研究するインスティチュートを創立。やがて、そのインスティテュートが国際的な研究センターとして権威ある存在へと発展し、フェルトリネッリの名を不動のものにしました。

いずれにしても、移党した『イタリア共産党』とフェルトリネッリの関係は、はじめからあまり良好とは言えないもので、当時の共産党の知識人たちは、フェルトリネッリに反逆的な過激主義という烙印を押し、仲裁役のできない、金満家の党員として常に批判にさらされてもいたそうです。「彼はおおらかで気前はいいが、何事にも極端に熱中しやすく、創造力に満ち溢れてはいても、野心そのものが混乱しているような人物だった」と評価されてもいます。しかし時代が必要とする書籍を掘り起こす天才的な勘を持った人物であったことは確かであり、イタリア出版界に大きな功績を残してもいる。また、大富豪の出版社であり、インテリの革命家、という稀有なキャラクターは、まるで小説のようでロマンに満ち、「イタリアにこんな人物が存在していたとは」と感嘆すらします。

イタリア共産党との不協和音は、出版社を創立し、やがてイタリア中に書店チェーンを開いた頃から決定的になっていきました。のちに世界的ベストセラーとなったボリス・パステルナークの『ドクトル・ジバゴの版権を単独獲得し、世界に先駆けていち早く刊行。その際はモスクワから大きく批判され、そのころまだソ連と強い絆を持っていた『イタリア共産党』幹部からも、手厳しく批判されたうえに不買運動まで起こされています。結局フェルトリネッリは1958年に『イタリア共産党』を離党。『ドクトル・ジバコ』刊行の翌年、ボリス・パステルナークはノーベル文学賞を受賞しましたが、モスクワの圧力で受賞を辞退する顛末となりました。

出版社としてのフェルトリネッリは当時、『ドクトル・ジバゴ』のみならず、トマーゾ・ディ・ランペドゥーサの『山猫』など、後世に残る優れた書籍の版権を得て、続々と刊行し、1958年には、ジャンジャコモ亡き後、その跡を引き継ぎ、フェルトリネッリ出版を大書店に育てた生涯のパートナー、ジャーナリスト及びカメラマンでもあるインゲ・ショエンタール(インゲ・フェルトリネッリ)に出会っています。いずれにしてもフェルトリネッリ出版は、彼の慧眼と人柄で、日を追ううちにミラノの文化のセンターに変貌し、世界に名を轟かす作家、思想家たちのサロンともなりました。

『イタリア共産党』を離れた後のフェルトリネッリは、疲れを知らない旅人として、「理想的な革命モデル」を求め、中東、中国、東ヨーロッパ、キューバをはじめとするラテンアメリカ、と世界中をリサーチ、革命世界の要人と交流した。1964年から67年の間には、欧州の武装革命グループたちが魅了されたフィデル・カストロ、チェ・ゲバラとも知古を得ています。

その後は、南米の革命戦士たちのテクニックをまとめた『Tupamaro(トゥパマロ)』を刊行。カストロの信頼を得て、カストロ本人、チェ・ゲバラ関連の書籍の版権を一任され、ゲバラの『ボリビア日記』『戦士、チェ・ゲバラ」などゲバラ関連の書籍、カトリック僧戦士『Camilo Torres (カミーロ・トレス)』などを次々に出版。その頃フェルトリネッリが出版した書籍もやはりベストセラーになり、1968年には自ら『ギリシャ後のイタリア、クーデターの危機』などを執筆出版し、当時の極左グループの『武装マニュアル』ともなっています。のち発覚した『赤い旅団』のすべてのアジトには、フェルトリネッリの出版物が少なくとも一冊は置いてあったそうです。

そういうわけで、「フェルトリネッリは出版社ではなく、むしろ革命の扇動者でしかなく、フェルトリネッリの裕福な生活は本質的な『革命』とはなじまない!」と『イタリア共産党』からは激しく糾弾され続けましたが、フェルトリネッリは、「批判という武器から、武器という批判へと変遷したのだ」とマルクスの言葉を引用し、答えています。

※1968年にルキーノ・ヴィスコンティに映画化された、トマーゾ・ディ・ランペドゥーサの『山猫』Gattopardo。

さて、そのジャコモ・フェルトリネッリと『赤い旅団』との交流は、ジョバンニ・ファサネッラによるアルベルト・フランチェスキーニのインタビュー、『Che cosa sono le BR (『赤い旅団』とはなんだったのか)』にも詳細が書かれています。

その頃、存在していた複数の極左グループは、『Lotta Continua(継続する闘い)』、『Potere Operaio(労働者の力)』、『Il Manifesto(マニフェスト)』と、いずれのグループもフェルトリネッリから支援、資金援助を受けていたそうです。また、フェルトリネッリが率いるGAPは、『赤い旅団』のレナート・クルチョ、フランチェスキーニと、共同で武装闘争を進めることに合意1971年4月からは、『新しいレジスタンス』という雑誌を発行しはじめ、執筆、編集ともにフェストリネッリが行なっていました。

フランチェスキーニによると、フェルトリネッリが構成したGAPという武装ブループは、他の極左グループと比べると、かなり異質で、構成員がどのようにリクルートされたかは、フランチェスキーニにも良く分からなかったと言います。ほとんどの構成メンバーは確固としたイデオロギーを持っていないように見え、唯一明確な人物は、元『ガリバルディ旅団』のジョバンニ・バッティスタ・ラザーニャだけでした。このラザーニャという人物は、パルチザンとして活躍した有名な人物で、当時のテレビ番組でインタビューされている映像が、いくつか残っています。

いずれにしても『赤い旅団』は、他の極左グループとは競合せず、連帯することを重要視、『労働者の力』、『継続する闘争』と共にアクションを起こすこともあり、アントニオ・ネグリとも76年ぐらいまでは連絡を取り合っていた。したがってGAPとの連帯も『赤い旅団』にとっては、まったく不自然な動きではありませんでした。フェルトリネッリは来たるべく『革命』の時に、ともに核となる存在として、『赤い旅団』と密な連帯を求めてきたのです。

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