クラシックな共産主義者『赤い旅団』と、100リラ硬貨でデザインされた、いびつな形の五芒星
「CIAのスパイかもしれない」と件のコラード・シミオーニと決別し、CPM( Colletivo politico metropolitano) を解散してレナート・クルチョ、マラ・カゴール、アルベルト・フランチェスキーニ、さらにはシット・シーメンス(大手通信会社)、ピレッリの工場労働者たちが共闘で、『プロレタリアートによる専制』を実現する革命戦士集団として、『赤い旅団』を創立したのは1970年のことでした。
いったん『赤い旅団』の前身となったCPMから姿を消し、71年あたりに『赤い旅団』に舞い戻ってきたマリオ・モレッティ(78年の『アルド・モーロ事件』の主犯)をインタビューした『Una Storia Italiana イタリアのひとつの物語(1994)』を編集したのは、創刊時のマニフェスト紙の主幹、ロッサーナ・ロッサンダという、現在も健在(2020年没:2023年追記)のカリスマ的な女性ジャーナリストですが、彼女は『赤い旅団』、さらに当時のイタリアの極左運動について興味深い分析を残しています。
「『赤い旅団』が、たとえばドイツ赤軍RAF、南米の革命グループやパレスティナ解放機構PLOと明らかに違うのは、それが60年代前半から続く、工場労働者たちの大きな抗議運動の波のうねりと同時に生まれた極左グループであるということであり、『赤い旅団』は、ドイツやその他の国では見られなかった『労働者』というエレメントを持つグループだった」とロッサンダは語っています。そういえば、確かにイタリアでは、いまでもOperaio(オペライオ)ー工場労働者は社会の『聖域』であり、工場で事故が起こるようなことがあれば、大問題に発展する。また、2018年、今年の選挙の『5つ星運動』の大躍進は、彼らを初期から支えてきたネットユーザーや若きインテリだけではなく、Operaio(オペライオ)ー現代では、工場だけでなく、あらゆる職種の人々ですがー労働者層の票を多く獲得したことが、大勝へ結びつきました。
現在も主要紙の左派の一角をなす新聞、イル・マニフェスト紙(Il Manifesto)は、そもそも『イタリア共産党』の煮え切らない姿勢を激しく批判した、ヴァレンティーノ・パルラート、ロッサーナ・ロッサンダらが共産党を脱退したのち、1969年に創立した極左グループが刊行する新聞を起源としています。思想的には『赤い旅団』ともほとんど距離のない極左に位置し、したがってロッサンダは『赤い旅団』をイタリアの左翼政治のひとつの歴史だと捉え、工場労働者の抗議運動の、いわば『希望』のなかで生まれた、『イタリア共産党』の協調ストラテジーとは一線を画すムーブメントであった、という評価をしているのです。
またロッサンダは、68年あたりに形成された学生ープロレタリアートという共闘に由来を持つ『赤い旅団』を「クラシック」な「労働者」を核とした「共産主義者」たち、つまり真性の共産主義とも定義しています。当時のイタリアのマルクスーレーニン主義者たちは、工場を闘いの場として偏愛し、外部で起きるアヴァンギャルドなコンセプトには反対し、政党や労働組合の一部として機能するよりは、自由気ままで自発的な闘いを自ら管理、自己完結するアウトノミーな活動を選んでいたのです。
さらに、アルベルト・フランチェスキーニもまた、『赤い旅団』は、何もない『無』から国際諜報たちが作り上げた集団などではなく、イタリアの長い左翼政治の歴史に根を持つ、ひとつの果実であるとも断言しています。時代の背後で国内外のシークレット・サービスが暗躍し、結果、『赤い旅団』が謀略に巻き込まれたことより何より、「最大の問題はイタリアの左翼政治の軟弱さと、『イタリア共産党』が犯した過ちだ。CIAだけに罪をなすりつけるのは簡単なことだ。KGBにべったりだった『イタリア共産党』もまた、好き放題に『赤い旅団』を利用した。問題はイタリアの左翼政治そのものだった」、と糾弾しています。
実際、イタリア共産党は『赤い旅団』のメンバーすら知らなかった『赤い旅団』そのものの特殊な動きを、実は全て把握していた、とも言われているのです。いずれにしても『赤い旅団』と思想的に共鳴するロッサンダは、イタリアの極左運動に関して、グラディオは過大評価されすぎている、労働者の権力への闘い、レジスタンスは起こるべくして起こったのだ、と考えているようです。
※ エットレ・スコラ監督、マルチェッロ・マストロヤンニも労働集会に出かける1971年 『Dramma della gelosia (ジャラシーの悲劇)』より。
レナート・クルチョ、アルベルト・フランチェスキーニ、マラ・カゴールたちが『赤い旅団』を正式に創立したのは、イタリアが、それから10年以上に渡って続く『鉛の時代』に突入した年で、各地では大規模抗議集会が開かれ、数々の衝突が起こり、次々に爆弾が炸裂していた時代です。レッジョ・カラブリアでは、軍部が出動するほどの労働者たちの大規模な抗議活動で死亡者も出る騒乱となり、イタリア中から多くの労働者たちが、続々と加勢に集まったという出来事もありました。
また、ジョイア・タウロでは、列車が 爆破され、6人が死亡、70人が重軽傷を追う大事故となっています(犯人は極右テログループとされる)。さらにはレッジョ・カラブリアの騒乱の際の軍部の挑発行為の証拠書類を輸送していたアナーキスト6人が、原因不明の事故で亡くなるなど、毎日のように大事件が起こり社会の緊張が高まるなか、青年たちが「決起するのは今しかない」と、興奮状態に陥ったことは容易に想像できます。
青年たちはグループを結成すると、ファシスト政権への激しいレジスタンスでイタリア共和国建国に貢献した、尊敬する『ガリバルディ旅団』からその名を借り、自分たちの武装革命グループに『赤い旅団』と命名。「革命家は、あれこれ無駄なことを考えてはいけない。必要な物をリュックサックひとつにまとめて動くのがパーフェクトな革命家」というチェ・ゲバラの信条をそのまま模倣して、生活必需品をリュックひとつにまとめて素早く行動する、という生活をはじめました。
その後、『赤い旅団』の存在をシンボライズすることになった、いびつな形の五芒星は、ヴェトコンやティパモラス(ウルグアイ)の『レジスタンス』のシンボルをメタフォライズして、100リラ硬貨を使って、クルチョとフランチェスキーニがデザインしています。何度やり直してもいびつになってしまうので、正確な五芒星をデザインすることを途中で諦めて「これでいいだろう」と、不規則な形のままシンボルマークにすることに決めたのだそうですが、青年ふたりが気楽な気持ちでデザインしたその五芒星が、のちに人々を恐怖と絶望の淵に陥れることになるわけです。
また、本格的なClandestino(クランデスティーノ:正体、居場所を隠して秘密裏に行動)として活動するため、犯罪組織から偽の身分証明書を調達して、シット・シーメンス、ミラノのピレッリや、トリノのランチアやフィアットの工場に多くの仲間を持つというシステムを作り上げます。この頃の『赤い旅団』には100人近いメンバーがいて、さらに、そのメンバーそれぞれが10人から15人のグループを持っていたため、1000人から1500人ほどの『旅団』共鳴者がいたと言われ、資金集めは、パルチザン以来の伝統に従って「強盗」で稼ぎ、アクションに必要な爆薬、ペンキ、シンナー、ニトロなどは、全て街の薬局で揃えていたのだそうです。
そんな風に、どことなく素人っぽくはじまった『赤い旅団』が、はじめて起こした行動は、ピレッリの工場で8つのダイナマイトを爆発させ、8台のトラックを一度に放火するというものでした。そしてこの、当時としては仲間内の度肝を抜く派手なアクションに、他の極左グループやメディアが一気に注目し、武装グループ『赤い旅団』初のプロパガンダとしては大成功しています。
「その頃、自分たちよりも、カリスマ的なリーダーを持つ、もっと暴力的な極左グループがいたが、彼らはコミュニケーションが下手だった。僕らの名前が一気に有名になったのは、マーケティングがうまかったからだ」と、フランチェスキーニは語っています。実際、その放火事件の成功をきっかけに『赤い旅団』は一躍、革命シーンへと躍り出ることになるのです。
その後の長い間、アクションとともに発表されるいびつな五芒星をロゴにした声明文のビラ、さらに、この時期クランデスティーノ(身元を隠して行動)の武装革命グループは『赤い旅団』だけでもあり、そのミステリアスな存在感もインパクトとなりました。
※1970年、アルベルト・モラヴィア原作の『孤独な青年』をベルナルド・ベルトルッチ監督が撮った The Conformist (暗殺の森)。いつの間にかファシストへと順応してゆく青年を描いた初期の傑作。
▶︎ジャンジャコモ・フェルトリネッリとの親密な交流