高校に入学すると同時に、僕らは本格的な政治活動をはじめることになった。それがCollettivo(集団的)な利益を求めて社会活動をはじめたきっかけだね。つまり14歳で、当時の学生運動に参加したというわけなんだ。僕が高校生になった頃は『鉛の時代』の真っ最中の75年、それから2年経って、あの「77年」を迎えるわけだが、77年は、イタリアの学生運動にとっては非常に大きな意味を持つ年だから。その1年を経て、78年(アルド・モーロ誘拐殺害事件)、社会が大きな変換を迎えることにもなった。
あのころ、僕らの政治活動の中心となったのは「保障問題」でね、生活が保障されているか、保障されていないかで、世間は真っ二つに分かれていた。確実な仕事を持っている人、仕事を探しているのに見つからない人々、特に若者たちにとって、それは大問題だった。いわゆる「労働者」という次元での運動が、社会に大きく影響しはじめたころだよ。イタリアで「労働基準法」ができたのも、そのころだな。
一方、社会的な見地から見ると、そのころの社会運動はある種「表面的」というか、現実の社会問題を解決できないような上部だけを繕った運動が繰り広げられてもいたんだ。少なくとも、深刻な社会問題をなんとか解決したいと真剣に考えていた僕たちにはそう見えた。つまり、その表面的、と思える「労働者」たちの政治社会運動は『冷戦』のメカニズムに、しっかりと組み込まれてしまっていた、ということでね。
知っての通り、そのころのイタリアは『冷戦』のメカニズムに最も取り込まれた国だったから。そのメカニズムのなかでは、本質的、つまり実践的な社会活動というのはできない。そうだろう? 僕らはまだ少年だったけれど、そのことにすっかり気づいていたよ。僕らは現実的には西側のシステムにいて、東側のシステムとはまったく違う状況にあるのに、東側のそれを実現するなんて、無理だ。
あのころの『イタリア共産党』は非常にラディカルなStatus quo(現状維持)を死守しようとしていたし、『民主主義』のコンセプトを守りながら『力』、『権力』を得ようとしていた。しかし僕ら学生たちは、民主主義という方法で、西側と東側のバランスをうまくとることは、多分、かなり難しいじゃないかということを危惧していたんだ。そこで僕らはさらにラディカルな方向、当時それは「極左思想」と呼ばれていたが、その流れのなかで、活動をはじめることになった。もちろん、今となっては僕自身、右とか左なんていう思想対立は無意味だと思っているけれどね。問題はそんなところにはない。われわれの社会はそんな表面的な二項対立では解決できない、根本的な問題を抱えている。
「極左」というと、武装もしていたのですか?
いやいや(笑)。ラディカルな「極左」と言っても、僕らの活動は他のグループとは全然違うもので、当時、なんでもかんでも「極左」と一括りにされてはいたが、実のところ、それぞれのグループには距離があったんだ。僕らは武装もしなかったし、Clandestino(クランデスティーノ:自分の正体を明かさず、偽の身分証明書で政治活動をすること)な活動もしなかった。アヴァンギャルド(武装しての)な活動という方向性ではなく、「社会活動」という定義で葛藤に向かったのだからね。貧困をなくし、集合的利益を確保し、富が分配される社会を目指して動いていた。
その「アヴァンギャルドに、ではなく、社会の公共性、集団的利益を追求する」というコンセプトは、ある意味、80年代にイタリアに訪れた危機を救うことになったかもしれない、と僕は思っているんだよ。80年代、イタリアでは文化の平板化がいよいよ加速しはじめたからね。
今でもあちこちでオーガナイズされるチェントロ・ソチャーレ(政治社会文化占拠)というムーブメントは、僕らが提示したコンセプトから生まれている。そしてその動きは社会に重要な意義を持っていたんだ。ある意味、当時は敵対していたPCI『イタリア共産党』的な思想も、遺産として受け継いでいるかもしれない。つまり、チェントロ・ソチャーレというのは、自分たちのテリトリーに戻って、文化をAuto produzioneー自分たちで生み出していく、というコンセプトだからね。それはいわゆるマス消費主義、民放テレビ文化に対抗したスタイルでもあった。あの時代、マスメディアの影響がより強力になり、一般大衆を混乱させるような価値観が流布しはじめ、その傾向を嫌悪する若者たちが大勢いたんだ。
チェントロ・ソチャーレというスペースにおいては、実験的な自主文化というものを構築するのが目標でね。僕らが僕らのための音楽を作り、僕らのアートを生み出す。そしてその自主文化スペースで生まれた音楽が、イタリアのポップミュージックに大きな影響を及ぼしたりもしている。イタリアに生まれた一番最初のポップ・ミュージックはチェントロ・ソチャーレから生まれているんだよ。振り返って過去を眺めると、チェントロ・ソチャーレではある種の文化の有り様が守られたともいえるんだ。経済発展モデルが大きく変容を遂げた時代にも、チェントロ・ソチャーレはローカリズム、独自の文化を貫いていたんだから。
そうそう、僕らが中心となったムーブメントで成功を収めた数少ない政治活動のひとつに、Anti Nucleare ー反原発運動があるんだけれど、これは70年代から継続されていたものでね。僕らは「原発」について、常に社会と葛藤してきたんだが、80年代の終わりにイタリアでは「原発ゼロ」が劇的に決定され、僕らの反原発運動は勝利を収めることになった。最初のころの僕らの運動はとても弱々しく、小さい規模のものだっし、70年代、80年代初頭は、「左派」と呼ばれる人々も原発に賛成していたんだからね。労働組合も、労働者が「原発施設」で働くという、新たな職場の機会を得るという理由で賛成、「原発」こそ発展的だと捉えるメンタリティだった。僕らの存在は邪魔でしかたなかったと思うよ。
ところが89年、その傾向が大逆転。イタリアは原発建設を停止することに決定(2012年の国民投票でも反対多数で「原発ゼロ」を再決定)。これは幸運なことだよ。この原発問題はやがて、環境問題を話し合うきっかけにもなったしね。労働組合は仕事の確保という定義で原発を推進していたが、われわれは「原発」は、あらゆるすべての「死」、終末に通じると考えていた。何より「原発産業」は「軍需産業」と強力なつながりを持っているのだから。イタリアは、『ベレッタ』、『フィンメッカニカ』など、世界有数の武器産出、輸出国でもあり、原発との連動なんて危険きわまりないだろう?
90年代、『ベルリンの壁』が崩壊したのちのこと。当時の『イタリア共産党』の党首ベルティノッティと、われわれ「極左」と呼ばれていたソーシャルグループとの間で話し合いが行われ、互いに歩み寄ることができたんだ。それはある意味、『イタリア共産党』が自らのあり方に気づいた歴史的なことだったとも思うよ。壁の崩壊とともに伝統的な『イタリア共産党』は解散、新たなRifondazione comunista(『共産党再建党』)として出発を迎えたときだ。そのときから僕らはもう敵対するグループではなくなったし、原発の問題を解決したのち、 Anti guerraー反戦争で共闘することで合意。大きな平和主義運動を生み出そうという考えで一致した。
その後は、戦争に反対するために、各地でデモ集会をオーガナイズしたよ。第1、第2イラク戦争からシアトル、ジェノバのG8での抗議まで一貫して、僕らは「戦争」に反対。特にジェノバでのG8デモは、僕らにとって非常に大切な抗議だった。9・11の2ヶ月後のことだったからね。テロリズムの問題、そして原油問題、これらは世界にとって深刻な問題だ。もちろん、2008年以降に訪れた経済危機による、ローマ市民の生活の著しい悪化をも僕らはとても心配している。僕らの闘いは、これからもまだまだ継続していくよ。
ローマ市は、現在の市民の住宅問題の窮状を解決できるほどの不動産を所有していますか?
もちろん持っているよ。しかしローマ市そのものが、自らの公共財産の社会的な利用価値を認識していないというのが実情なんだ。現在のローマ市のメンタリティは、所有している公共財産を、長年の予算管理のずさんで危機に陥った市の財政を解決するための手段としか考えていないし、市民の窮状には見て見ぬふりを決め込んでいる。
彼らは現在放棄されたままの不動産、また現在使用中の不動産、いずれも効率的に利用できていないように思える。たとえばスキャンダラスな「affitto zero(家賃ゼロ)」という一件があったが、それが全てを物語ってもいると言ってもいい。すなわち過去、ローマ市がある民間機関を信頼し、ローマ市所有の不動産管理をまかせていたところ、その民間機関は、ローマ市から預かった不動産を、あろうことか国の『上院議会』に貸して、そこから賃貸料を取っていたことが発覚した。ローマ市は無償でその不動産を民間機関に任せていたわけだから、国はローマ市に損をさせたうえに、さらに上院議会に賃貸料を払わせる、と二重の損失を負っている、ということになるよね。まったく信じがたい予算の無駄、ひどい話だろう?
僕らは現在、僕らのこの「占拠」が合法だと認められるように、法的な闘いをも開始したところなんだ。廃墟となっている市所有の不動産を、社会問題の解決のために使用することを法的に認めてもらうために、ローマ市相談役たちによる投票も予定している。しかしローマ市が今のところ僕らに答えているのは、来年のGiubileo (聖年)に向けた準備のために、国が予算を捻出できないため、ローマ市は所有財産を民間企業に売却を考えている、との「ほのめかし」だ。市は「聖年」開催のために不動産を担保にして500億ユーロの現金を得たいと思っているらしい。
もちろん、その500億ユーロは救済を必要としている市民のためにはまったく使われないわけでね。ローマの公共財産はローマ市のものではないんだよ。みんな知っていることだが、それはローマ市民すべてのものなんだ。またローマ市は、現在の財政危機状況を脱するために公共の不動産を売却して350億ユーロを得ることを決定したが、それは借金そのものを返済するためではなく、借金の「利子」の返済のためだというんだから。
市の借金はこれからも、ただただ増え続け、市民の税金で建設され、維持されてきた公共財産は不動産のマーケットに乗せられ、雲のようにかき消えてしまう。ローマには明らかに解決しなければならない社会問題が山積みだというのに、「市場原理」に沿った不動産の処分で、長い時間をかけて市民たちが築いたものが、雲散霧消となるなんて、おかしくないかい? 本来なら公共財産は、家を失って困窮している市民や、仕事のない若者たちに、新しい仕事を構築するために使われるべきじゃないのかい?
『占拠』した、この建造物ではどのようなことが行われているのですか。その理想は?
この建造物の占拠に踏み切ったのは2013年、10月12日のこと。住む場所の確保の権利、移民の人々が異国で問題なく生活できる権利、労働の権利、それらの当然の権利の保護を連動して訴えていこうというのが、僕らの当初からの目的だった。と同時に『占拠』というリアリティを生きながら、公共財産の定義というものを改めて熟慮しようと思ったんだ。現在直面している問題を、例えば住む家がないから「占拠してスペースを独占する」というような安直な目先の理由ではなく、ローマ市民が直面している現実、あらゆる社会問題の根本的な解決を目指す。それが僕らの目標でもある。
この建造物の2階から7階までは「占拠者」の住居として、約130世帯が住宅として使用していてね。そして、今僕らがいる1階が、居住者のための社会奉仕、ソーシャルサービスのためのスペース。彼らがどのような問題を抱えているかを丁寧に聞いて、解決の方向性を考える場でもある。例えば仕事を探している人のための窓口もあるし、移民の人々たちのためには、滞在許可に関する裁判を助ける弁護士の窓口も用意している。また、ちいさい子供たちの教育のために学校も作ったんだ。9月にはこのスペースの中にスポーツジムを開く予定でね。それはもちろん住民の健康維持のためのものだけれど、外部の人々の参加も可能にしようと考えている。したがってこの1階のスペースは、公共財産の社会的利用のための実験的なスペース。
一方、地下のコングレスホールがある階は文化活動のスペースとして、外部の人々のためにも解放している。さらに地下2階が、経済的な利潤を目的としない生産スペース。たとえば木工工房では、リサイクルの木材、つまり廃材を使って、この建物内で使う椅子や机、その他必要な設備をすべて僕らの手で制作している。そう、チェントロ・ソチャーレのビールバーで売っているビールも、すべてオーガニックな素材を使って、僕らが発酵させて作ったものだよ。
さらにその生産スペースは仕事を得るためにスキルを必要とする若者たちに、昔ながらの伝統的なテクニックを教える教育の場ともなっている。この地下スペースは1600平米あるんだけれど、文化、仕事、健康というテーマで、都市生活をよりよく変える、という目的を持つ外部のグループに解放しても、充分な広さがあるからね。君も、よくこのスペースで外部の人々がミーティングするのを見ただろう?
たとえば別の場所を「占拠」しながら強制退去となったグループにも、この地下を提供し、停止してしまった彼らの文化活動を継続できるような配慮もしているし、音楽、それから本のプレゼンテーション、また政治活動や文化的なミーティングも、自由に行われているんだ。もちろん移民の人々にも場を提供しているから、毎週セネガル人コミュニティ、またソマリア人コミュニティの会合も開かれている。
さらに政党に属する人々のミーティングの場にもなるしね。最近では教区司祭が僕らに協力を要請もしてきたんだよ。その教区司祭は、貧困に苦しむ人々のために食料を配給しているのだけれど、800リットルのミルクを配給する場として利用させてほしいと言ってきてね。もちろん、僕らは喜んでその要請を引き受けるつもりだ。
今、僕らはこの「占拠」に関して、ふたつのストラテジーを構想しているところなんだ。ひとつはこの巨大なスペースを必要としている、できるだけたくさんの人々に提供すること。もうひとつは社会問題を純粋に解決するための集合的スペースとして、この場を守り、闘っていくこと。
誰もが経済利潤と政治闘争に夢中になっていて、緊急に解決すべき社会問題には目をつぶって見ないようにしている。本来ならローマ市が取り組まなければならないことを、僕らがやろうとしているというわけだが、よい未来をつくるためには、誰かがそれをしなくちゃいけないだろう? ならば僕たちが、全力で未来に取り組んでいけば、なんとかなるんじゃないかと思っているんだ。
追記:秋も深まる10月18日、SpinTimeLabsのアクティヴィストのひとり、「ターザン」の愛称を持つアンドレアさんがフランチェスコ教皇に手紙を書いたところ、教皇は彼らの『占拠』を温かく勇気づける返事をくれたそうです。Gardian紙が記事にしています。すごい! *カステル・ガンドルフォの建造物は、彼らのグループが同じオーガナイズで占拠しているもうひとつのスペースです。
追記:やがてSpinTimeLabsは、ヴァチカンがスペースを支持したことで、ローマの話題を攫うことになりました。2022年には、人気コメディアンであり、映画監督、女優であるサビーナ・グッザンティがドキュメンタリー映画を制作して、大きな話題となりました(2023年追記)。