『鉛の時代』:その後のイタリアを変えた55日間、時代の深層に刻み込まれたアルド・モーロとその理想 Part1.

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エキスパートの参入

さて、『赤い旅団』のコマンドたちが、「事件を起こす動機」となったと主張し、事件の後半になって、モーロとの交換を具体的に提案した、レナート・クルチョ、アルベルト・フランチェスキーニら創立メンバーを含む12人の裁判は、3月20日、事件の4日後からはじまりました。

この時、「このような非常時に、犯人を刺激する裁判を開くべきではない」との声が各界から湧き上がったそうですが、裁判は延期にも、中断にもならず、予定通りに進行することになります。

その裁判の最中に、『旅団』創立メンバーであり、初期のリーダーであったレナート・クルチョが、「モーロはわれわれの手中にある!これから『キリスト教民主党』とイタリアの政治階級に審判が下されるのだ」と発言し、その場を騒然とさせた、というエピソードがあります。

しかしどうやらそれは、事前に作成した獄中の『旅団』メンバーによる声明を読み上げるための戦略的なアピールだったようで、刑務所内部にいた創立メンバーの実情はといえば、モレッティをはじめとするコマンドたちからは、事件計画も、報告も何ひとつ情報入っておらず、事件が起こった際は仰天するのみならず、1977年にドイツ赤軍Rafが起こした「実業家ハンス・マルティン・シュライヤー誘拐殺人事件」と、自分たちが同じ顛末を迎えるのではないか、と気が気ではなかったと言います。

『旅団』創立メンバーの脳裏を過った、この「ハンス・マルティン・シュライヤー事件」では、当時投獄されていたRafのメンバーと、人質となったシュライヤーとの交換を西ドイツ政府から拒絶され、その報復としてRaf、及びパレスティーナ人民解放戦線(PFLP)が組んでルフトハンザ機ハイジャック事件を起こしています。しかし土壇場で特殊部隊に突入され、犯人たちは全員射殺。結局失敗に終わることになりました。

この事件を受け、投獄されていたRafのメンバーたちは次々に自殺することになり、しかし『旅団』創立メンバーは、Rafのメンバーたちのその死を「自殺に見せかけた刑務所内での殺害」と見ており、事件の経緯によっては、自分たちにも同じ境遇が待ち受けているのではないか、とかなり心配したそうです。のちに「『赤い旅団』はモーロを処刑したが、イタリア国家はわれわれを殺さなかった」、と『旅団』を脱退し、捜査協力者となったフランチェスキーニが、沈痛な面持ちで語っていました。

一方その間、アンドレオッティ政権は、テロリストとの交渉を「断固として拒否」したまま、事件当日の夕刻に、それを宣言したきり沈黙を保ち、18日に届いた『赤い旅団』の犯行声明モーロの写真に関しても、何の反応も見せていません。

また、事件が起きた日以降、あらゆるすべてのジャーナリストたちは、政府にアクセスできなくなったそうで、『赤い旅団』に激しく抗議する大規模デモ集会やストライキがイタリア各地で繰り広げられる中、メディア全体が疑心暗鬼に陥り、過剰に不安を掻きたてる報道が連発されたようにも見受けられます。

こうして日を追ううちに、社会全体が緊張と恐怖の袋小路へと追い詰められていきますが、今思うなら、やがてシェークスピア的ともいえる悲劇へ発展していくこの55日間が、イタリアにおけるリアリティ・ショーの原点と言えるのかもしれません。

というのも、事件が起こった瞬間から、人々は次々に情報を求め、ラ・レプッブリカ紙によると、各主要新聞売り上げは急激に伸び、たとえば70000部から100000部に売り上げを伸ばしたラ・レプッブリカ紙は、その後の10年間、イタリアで最も読まれる新聞となったのだそうです(ちなみに現在、最も読まれている新聞はコリエレ・デッラ・セーラ紙)。

3月23日には、内務省でコッシーガ内務大臣の指揮のもと、カラビニエリ、警察、Guardia di finanza(イタリアの警察権力の1機関で通常は経済分野の犯罪を担当)幹部、及び各種イタリア諜報機関幹部(SISDEー軍部、SISMIー内務省、CESISー1978~2007まで続いた情報に関する諜報機関、UCIGOSー警察の特殊オペレーションを担う機関で現在は消滅)が集うタスクフォース(comitato tecnico-politico-operativo)会議が開かれ、このとき新たに、SISMI、SISDE、CESIS、SIOS(軍部の諜報機関)幹部で、「情報委員会」(Comitato informazione)が形成されています。

そして、このタスクフォースのメンバーすべてが、件の『秘密結社ロッジャP2』のリストに名を連ねていることが、1981年に暴かれることになったわけです。

余談ですが、イタリアでは現在も、首相官邸、内務省、軍部に多様な諜報機関が存在し、もちろんそれぞれが秘密裏に行動しているわけですから、具体的にどのような目的で、何をしているのか把握するのは不可能です。しかもイタリアの諜報機関は、時代によって編成が変更され、名前が変わるため、有り様が複雑すぎてまったく理解できません。イタリアに住むようになって「へえ、シークレット・サービスって映画の話かと思っていたのに、こんなに身近に存在するんだ」と、改めて感嘆した次第です。

なお、おそらくこの「情報委員会」が形成された際に、コッシーガ内務大臣の要請を受けてイタリアを訪れた、ヘンリー・キッシンジャーの当時の右腕であった国際テロリズムエキスパートスティーブ・ピチェーニックが、タスクフォースに加わったと考えられます。

のちにベストセラー作家となったピチェーニックは、長きに渡って『モーロ事件』に関して沈黙を貫いていましたが、ほぼ30年後に実現した、エンマニュエル・アマーラのインタビューでは「事件当時のイタリアは、デモストライキが行われない日がないという混乱状態にあり、そのうえ『P2』と強い絆を持つ右翼、ファシストたちが常にクーデターの機会を伺っているという状況で、諜報も軍部も警察も機能不全に陥り(コッシーガが、ピチェーニックにそんな不満を述べたそうです)、もはや手の打ちようがないほどのカオスだった」、と饒舌に当時を描写しています。

アルド・モーロ事件の間、『キリスト教民主党』、『イタリア共産党』の支持者が共に集まり、数多くのデモが繰り広げられました。ふたつの党は常にいがみ合っていたため、それぞれの党の白い旗と赤い旗が同時に舞うデモはこの時がはじめてだったそうです。immaginidelnovecento.fondazionegramsci.orgより。

ピチェーニックによると、イタリアに到着した当初は、とにかく「モーロを救うこと」を目的に、何のストラテジーもなく、「毎日コッシーガと会って状況の詳細を分析しながら計画を練った」そうですが、インタビューを読んだ個人的な感想を言えば、参考になる部分が多くあっても、どうも腑に落ちない点が、いくつかあるのも事実です。

またピチェーニックが、『赤い旅団』が周到に準備された、驚くほど完璧な武装集団だと、ことさらに強調していることを、多少不自然にも感じます。「特殊訓練(?)された『旅団』コマンドが、プロフェッショナルなテクニックを駆使して、難なく警護官5人を殺害し、いとも簡単にモーロを連れ去ったファーニ通りの事件」を「それは彼らの偉大な勝利であると同時に、敗北のはじまりでもあった」、つまり「モーロを誘拐せずに、現場で殺害していたならば、『旅団』の完璧な勝利に終わったはずだ」と、この国際テロリズムのエキスパートは言うのです。

しかし論理的に考えれば、『旅団』の目的は、国家に「戦争」をしかけ、自分たちの存在を、政府対等な武装政治勢力である「政党」として認知させることでしたから、交渉切り札となる「人質」の存在がなければ、まったく意味をなしません。さらに言えば、『歴史的妥協』反対する勢力が、モーロという人物とその理想を、より壊滅的に、より暴力的に粉砕するためには、誰もが2度とその理想に近づけなくなるほど強烈な、想像を絶する悲劇のシナリオが必要だったに違いなく、その衝撃を創出するためには、55日間という長い月日が必要だった、とも考えます。

さらにピチェーニックは、「完璧な武装集団である『赤い旅団』は、密かに国家機構内部スパイを潜入させており(センツァーニのこと?)、米国から到着して24時間以内に、彼らはすでにわたしがイタリアに来ていることを知って攻撃ターゲットリストに加えた、という情報が入った。だからわたしは常にベレッタ(イタリア製のピストル)を携帯し、誰もいない広場で試し撃ちをしたこともあった。また、滞在先のエクセルシオール・ホテル(ローマの最高級ホテル)では寝る時も、常に銃口に向けていたのだ」など、優れたストーリーテラーらしく、ちょっぴり芝居がかった発言もしています。

ところが「武器とは相性が悪かった」創立メンバーだけではなく、『モーロ事件』のコマンドが主張している「ファーニ通りで使用した、パルチザンから受け継いだ古いミトラ(軽機関銃)は、いざという時に詰まって困った」とか、「山で何回か銃を打ったことがあるが、人を撃ったのははじめてだった」などという発言を知っていると、この国際テロのエキスパートが語るストーリーは多少大袈裟で、過剰に感じるのも事実です。

ヴァチカンからは常に重要な情報が流れてきた」ともピチェーニックは語っていますが、この時期のヴァチカンはといえば、CIAのスパイ、あるいはCIAと密な関係があったことが、ほぼ明らかなIOR(ヴァチカン宗教事業協会)の総裁、ポール・マルチンクス大司教の影響が大きいと思われます。なおマルチンクスは、『ロッジャP2』が中核となり、ヴァチカン銀行のマネーロンダリングを一手に引き受けていた『アンブロジアーノ銀行』が破綻したのち、暗殺されたその頭取『ロベルト・カルヴィ事件(1982年)の一連の流れに、深く関わる人物です。

なおピチェーニックも、彼をイタリアに招いたフランチェスコ・コッシーガ内務大臣も、「モーロを救うこと」こそが、タスクフォースの作戦の当初の目標だったと主張していますが(多少怪しくとも)、やがて時間が経つとともにその方針を180度変え、各方面から湧き上がった「モーロ解放」に向けてのさまざまなアプローチを、妨害していくことになりました(後述)。

ちなみに事件の間、悲しみのどん底に突き落とされたモーロのご家族を訪問し、「モーロ解放」に向け、全力を尽くした『キリスト教民主党』の政治家は、モーロとともに党の実力者であったアミントーレ・ファンファーニだけだったそうで、事件が起こった後、モーロの代理として、政党リーダー役を担ったベニーニョ・ザッカニーニをはじめ、『キリスト教民主党』の政治家たちが、ご家族の元を訪れ、その痛みを共有することはありませんでした。

事件後メディアを引き連れて、モーロの墓を訪れて泣き崩れてみせたフランチェスコ・コッシーガは、といえば、ピチェーニックによると、事件の間はいたって冷静で、悲しみや心配で取り乱した様子を、たったの1度も見せたことはないそうです。

さて、タスクフォースに「情報委員会」が形成された23日同日には、『イタリア共産党』が会議を開き、アンドレオッティ内閣が決定した「テロリストとの交渉を断固として拒絶」の支持公式に決定する、という出来事が起こっています。

これは『イタリア共産党』が、「武装共産党」を名乗るテロリスト『赤い旅団』と、どのような形であってもまったく関係ないことをアピールする保身でしたが、3月28日の『イル・マニフェスト』紙で、ロッサーナ・ロッサンダは「1950年代を生きた共産主義者であれば、彼らの闘いモデルパルチザンレジスタンスであることが明確に理解できるはずだ。彼らの存在は、家族のアルバムをめくるようなものだ」と、激しく攻撃。慌てた『イタリア共産党』も徹底的に反論し、大きな議論となりました。

そもそも『イタリア共産党』幹部だったロッサーナ・ロッサンダは、党内に新たに台頭した、穏健路線のブルジョア的方針に反発し、ルイジ・ピントール、ヴァレンティーノ・パルラートらと共に離党。『マニフェスト紙』を創立しました。舌鋒鋭いジャーナリストとして、2020年に亡くなるまで、多くの著作を残しています。

いずれにしても、『イタリア共産党』は、事件が終わるまで、『キリスト教民主党』の傍で「テロリストとの交渉の拒絶方針貫きますが、ユーロコミュニズムに路線変更したのち、選挙で大躍進を果たし、『歴史的妥協』までたどりついた『共産党』にとっては、もはや凶悪なテロリスト集団、と世界に認識される『赤い旅団』との関係を疑われたり、その脅しに乗ることは受け入れられなかったのでしょう。

しかしながら、このときの頑なな決定は、のちに大きな禍根を残し、その代償として『イタリア共産党』は、2度と政権に肉薄するほどの機会を得ることはできず(1984年の欧州議会選挙で『キリスト教民主党』の支持率32.96%を、33.33%と僅かに抜いたことがありましたが)、その後も30%±の支持率を保ちながら、1991年に解散するまで、万年野党として過酷な時期を過ごすことになりました。

時代の嵐に飲み込まれた当時の党首エンリコ・ベルリンゲルは、事件から6年後の1984年、パドヴァの政治集会の途中で心臓発作に見舞われ、帰らぬ人となってしまいますが、ベルリンゲルにとって、この時期の重圧は、よほどのものだったのだろうと推察します。

ところで『モーロ事件』の55日の間、ジョルジョ・ナポリターノ(のちのイタリア大統領 /2006~2015年)が、『イタリア共産党』のメンバーとして、はじめて米国を訪問した、という興味深いエピソードがあります。その時代、共産主義者は米国に入ることができませんでしたから、異例の訪問でもあり、ナポリターノは時期が時期だけに中止しようと思ったそうですが、ベルリンゲルのたっての希望での渡米だったそうです。その訪問は、おそらく米国側に『イタリア共産党』の立ち位置への理解を促す話し合いのためだったのではないか、と思われます。

一方、『モーロ事件』以降、80年代後半のイタリアの政治を席巻することになったのは、「モーロ解放に向けた交渉」を早くから表明し、最後の最後まで、あらゆるルートを駆使して交渉に動き、頭角を現した『イタリア社会党』の若き党首ベッティーノ・クラクシーでした(後述)。

またこの時、70年代、地道に署名を集め、「離婚法」、「中絶法」を『国民投票』に持ち込み、いずれも成立させることに成功した、マルコ・パンネッラ率いる『Partito Radicaleー急進党』も、『赤い旅団』との交渉に応じることを、執拗に政府に要請しています。

なお、レオナルド・シャーシャは、この『急進党』の議員として、第1回目の『政府議会モーロ事件調査委員会』の委員となり、捜査に加わっています。また『赤い旅団』の思想に影響を与えたとして、後に起訴された「ポテーレ・オペライオ」「アウトノミア・オペライア」のメンターであったアントニオ・ネグリもまた、1983年から1987年まで『急進党』の議員として、パンネッラから保護されたことは有名な話です。

いずれにしても、イタリアの70年代を語るとき、『急進党』のマルコ・パンネッラが社会に及ぼした影響を語らないわけにはいきません。晩年も人権問題にコミットし続け、現代の「権利」を巡る基本的な姿勢に、大きな遺産を残しました。

左からマルコ・パンネッラ、ロッサーナ・ロッサンダ、トニ・ネグリ、ジェスラウ・ノヴァック(チェコの政治家)micciacorta.itより。

▶︎市民に秘密はない

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