『鉛の時代』:その後のイタリアを変えた55日間、時代の深層に刻み込まれたアルド・モーロとその理想 Part1.

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ヴァチカン

ところで、シャーシャが着目した、内務大臣に出す手紙の内容としてはまったく脈絡がなく、突飛な表現のように思える、この「Santa Sedeーヴァチカン」という線は、あながち遠い推理ではありませんでした。

前項にも書いたように、ファーニ通りからモーロが連れ去られたのは、現場から100mほどしか離れていない、マッシミ通りヴァチカン所有(前述したCIAのスパイと言われる、ポール・マルチンクスが総裁をしていたIORー宗教事業協会)の建物という説が有力となっています。

また、犯行で使われた『旅団』の車3台は、いったんその建物内の駐車場に隠され、日を変えて1台づつ、マッシミ通りから数メートルしか離れていないリチニオ・カルヴォ通りに乗り捨てられた、と考えれば理にかないます。

しかしながら、オフィシャルな『旅団』逃亡の道程は、ファーニ通りからストレーザ通り、ベッリ通り、マッシミ通りからマドンナ・デル・チェナーコロ広場まで行き、そこでモーロと共に大型車に乗り換えて、さらにスーパーマーケットの駐車場でも車を乗り換え、『人民刑務所』があるモンタルチーノ通りにたどり着いたことになっています。しかしこの移動時間の最中、ローマではすでに道路の封鎖がはじまっており、一眼で誰か分かる人質と共に車を乗り換えながら、簡単に移動できる条件ではなかったはずです。

また、2017年に公表された『政府議会モーロ事件調査委員会』のレポートによると、マッシミ通りのこのIOR所有のこの建物の管理者は、ルイジ・メンニーニ神父だったことが判明しています。そして、その息子である、アントネッロ・メンニーニ神父こそが、モーロの監禁中、家族との連絡役として、あるいはモーロの告解を行うために、「人民刑務所」を複数回訪れた経緯のある唯一の人物とされている人物なのです。

もちろんアントネッロ・メンニーニ神父は、事件が起こってから現在にいたるまでの43年間、モーロの「人民刑務所」の訪問について何ひとつ語っていませんし、事件後に海外派遣となったため、第3回『政府議会事件調査委員会』の聞き取りをも辞退しています。

しかし90年に発見された手紙を読むと、モーロがメンニーニ神父に実際に会わなければ書かないであろう内容が散見され、さらにはひょっとすると、監禁の間、モーロはエレオノーラ夫人をはじめ、ご家族に会ったのかもしれない、という文言に行きあたることになります。もちろん、その多くは投函されなかったにしても、メンニーニ神父宛の手紙も数多く残されていました。

アルド・モーロとエレオノーラ・キャヴァレッリ・モーロ夫人。夫人は通常、エレオノーラ・キャヴァレッリと表記されます。

なお、マッシミ通りのこの建物には、米国のカトリック教会の使節でもあった、高位の聖職者や枢機卿が住んでおり、件のポール・マルチンクスIOR総裁もたびたび通っていたそうです。

その他この建造物には、元極左運動家であったドイツ人ジャーナリストで、『アウトノミア・オペライア」のリーダーのひとり、物性物理学教授のフランコ・ピペルノ当時のパートナーだったブリジット・クラーツや、軍部諜報SISMIで活動していたジェニオ・レナート・ダーシャ大佐などが住み、さらにはトルコに滞在するNATOの要員や米国人のアシスタントのためのエージェンシーの住所ともなっていました。

『政府議会モーロ事件調査委員会』のレポートには、建物の住人である婦人の次のような証言が記されています。

「事件が起こったずっとあと、大佐が夫に『この建物には、『モーロ事件』と関係のある『赤い旅団』メンバーの拠点があり、ファーニ通りの殺戮後の数日間、半地下駐車場とその拠点で動きがあった』と言ったことがあります。つまり誰かがガレージを使った形跡があるということですが、残念ながら信頼できる筋から直接聞いたわけではないので、推測でしかありません。どの階に『旅団』の拠点があったかは、はっきりとは言えないけれど、1階に住むドイツ人のブリジットのことを話していたそうです」

また、その建物のすぐそばにはリビアの諜報と密に繋がり、イタリアの諜報局SID(1977年に解散)の協力者でもある金融商が住んでおり、この金融商は非常に高い確率で、『赤い旅団』関連の情報を各諜報機関に流していたコードネーム「ダミアーノ」と呼ばれる人物とも知り合いだった、と見られるそうです。ということは、イタリアの各諜報機関は、『赤い旅団』の動きをすべて知っていただけでなく、むしろ『旅団』の犯行に協力した可能性もありうる、ということでしょうか。

後日談としては、『モーロ事件』のあと、コマンドのひとりであったプロスペロー・ガリナーリが、このIOR所有の建物内に寄宿していた時期があったことが明らかになっており、ヴァチカンが所有し、軍部関係者が住む建物に、『旅団』のコマンドが悠々と厄介になるというのも、ミステリアスな話です。

ともあれ、モーロがコッシーガに宛てた手紙に、テロリストとの話し合いに応じなければ、「この誘拐は、個人だけではなく、国そのものに計り知れない損害を及ぼすことになる」、と明確に書いたことで、『キリスト教民主党』の同僚たちも、各主要メディアも、「テロリストとの交渉なんて」と、ざわめくことになりました。

翌日の3月30日には、『キリスト教民主党』幹部である、アンドレオッティ、コッシーガ、ルモール、タヴィアーニ、ザッカニーニ、ファンファーニが緊急に集まって会議を開いていますが、そこで、モーロが望む交渉を決定すると思いきや、改めて「断固として拒否」の方針をオフィシャルに決定。4月1日にその決定を公に表明し、この時点では交渉の開始に楽観的であり、その間に見つけ出して欲しい、と願うモーロの希望を踏みにじっています。これは『キリスト教民主党』の幹部たちが、この日明確に、つい2週間前までリーダーとして党を率いてきたモーロの言う事には耳を貸さない、交渉はありえない、と意思表示したということです。

このとき、モーロと非常に近しい関係にあり、その不在の間に『キリスト教民主党』の書記長代理を務めたベニーニョ・ザッカニーニは、「何が起ころうとも『イタリア共産党』と『キリスト教民主党』は、テロリストとの交渉を断固として拒絶するが、それは調整が利くバランスの取れた拒絶だ」、といくらかやんわりと「拒絶」を表現。これは「身代金であれば交換に応じる可能性もある」ということでしょうが、この案は、のちにパオロ・エミリオ・タヴィアーニ強く拒絶されました。

ちなみにタヴィアーニは、アルド・モーロ政権、マリアーノ・ルモール政権、アミントーレ・ファンファーニ政権で内務大臣を務めた「グラディオの父」のひとりとしてマークされる人物です(後述)。

当然のことですが、エレオノーラ・キャヴァレッリ・モーロ夫人は、『キリスト教民主党』の「交渉拒絶」の決定に強く反発し、ここから『キリスト教民主党』とモーロの家族の間に、激しい対立が生まれます。夫人はのち、「ザッカニーニは、モーロの味方をすることはなかった」「ザッカニーニは、一度もモーロを救出したいと言ったことはなかった」という発言もしています(ラ・レプッブリカ紙)。

なお、エレオノーラ夫人はとても利発で気丈な女性で、父親が誘拐されて悲嘆に暮れ、正気を失う子供たちを励まし続けたそうです。またザッカニーニは、モーロの秘書官ニコラ・ラーナからも「泣いてばかりいたが、結局何もしなかった」と強く非難されました。

1978年の4月1日のラ・レプッブリカ紙の一面は、コッシーガ宛以外に、モーロから秘書官宛に書いた手紙が存在するという記事のすぐ下に、『キリスト教民主党』の幹部会議の結果として「過酷な24時間の後、幹部たちはfermezza(交渉の拒絶)を選んだ」との記事が掲載されています。右側には、「ヴァチカンは確実な交渉の用意がある」との記事。

『キリスト教民主党』『イタリア共産党』のあまりに杓子定規な意思表示のせいで「ファーニ通りで犠牲になった5人の警護官たちの名誉のためにも、『テロリストとの交渉』を拒絶することは当然だ」との空気が国じゅうに渦巻くなか、3月31日ヴァチカンが発行する新聞『オッセルヴァトーレ・ロマーノ』は、「ヴァチカンは、事件に関するあらゆるすべてに協力を惜しまない」ことを表明。4月1日には、身代金を払う準備があることを発表しています。

ところが、社会全体がこのような『拒絶』という負の緊張で締め付けられるなか、あろうことか、『旅団』コマンドたちは、車、あるいは市内の交通機関で自由動き回り、マリオ・モレッティは何度もフィレンツェローマを往復しています。たとえばブルーノ・セゲッティは、警察に呼ばれて尋問されたこともありましたが、「問題なし」とされ、その日のうちに帰宅が許されたそうです。

つまりシャーシャが言うように、ローマに繰り出した4300人の警察、軍部の捜査部隊は、派手な「マーチ」の演出であり、事件を恐怖で彩る舞台装置でしかなかったわけで、モーロの警察への期待は、やはり幻想だった、ということになります。

またこの期間、モレッティが『旅団』の会議と称して、フィレンツェに頻繁に通っていたのは、おそらくジョヴァンニ・センツァーニに会うためだったのではないか、と考えられています。この、フィレンツェとシエナの大学で教鞭を執る「犯罪学」の教授であり、国家機関のアドバイザーとして働きながら、同時に『赤い旅団』で幹部を務めるという、異様な経歴を持つ人物は、『モーロ事件』の背後で、「人民刑務所」における尋問のテキストを含め、要所要所でモレッティにアドバイスをしていたのではないか、と推測されています。

たとえばコリエレ・デッラ・セーラ紙のジャーナリスト、アントニオ・フェラーリ、そして第3回『政府議会モーロ事件調査委員会』の副委員長ジェーロ・グラッシなどは、センツァーニが、件の語学学校『ヒペリオン』に通っていたことが明らかなことから、『旅団』に潜入したスパイであったと見ているのです(前述したように、二重スパイの可能性もあり、各諜報機関に情報を流していたと同時に、諜報機関の情報を『旅団』に流していたのかもしれません)。

いずれにしても、センツァーニという人物は猟奇的な犯罪志向を持っており、のちにアンチテロリストチームのダッラ・キエザ大佐のオペレーションで、内部の情報を当局に流すスパイへと転向した『旅団』メンバー、パトリッツイオ・ペーチェへの報復と称して、『旅団』には関係のないパトリッツィオの弟、ロベルト・ペーチェを誘拐。『モーロ事件』同様に55日間監禁したのち、11発の弾丸で殺害する、という陰惨な事件(それをVHSで撮影)を起こし、1982年に逮捕されました(1999年に昼間は職場に出かけられるセミリベルタ、2010年に釈放)。

この報復には、極左武装グループの政治犯罪とはかけ離れた、まるでマフィアのような脈絡のない残酷さがあり、アルベルト・フランチェスキーニは、「センツァーニは、われわれ(『旅団』創立メンバー)にとってはまったく部外者であり、どこから来た人物か分からなかった」と発言しています。

センツァーニは現在、夫人を病気で亡くしたそうで、その愛する人の「死」に直面したことで自分の犯した罪の深さに気づき、悔恨の念にかられていると言いますが、正直なところ、「いまさらそんなことを言われても」という気持ちにもなります。

さて、Part1.Part2とも一気に公開します。

Part 2、ボローニャの降霊会はこちらから

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