『鉛の時代』:その後のイタリアを変えた55日間、時代の深層に刻み込まれたアルド・モーロとその理想 Part1.

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市民に秘密はない

ファーニ通りの事件が起こってからは、映画館、トラットリアにも、まったく人が入らなくなり、劇場もバールも通常より早い時間に閉められたため、誰もが暗く、長い夜を送ったそうです。しかし、そのような緊急の状態でありながら、上院、下院議会はモーロが誘拐されていた55日の間に、たった1回(!)しか開かれていません。

ローマの街中に警察、軍隊が溢れかえり、各道路が封鎖され、くまなく取り調べが行われたために、盗難やスリなどの犯罪はぐんと減っていますが、政治活動グループと見られることを恐れた若者たちは、グループで出かけることもなく、週末も家に閉じこもり、イタリア全国が完全に閉じた状態になったそうです。さらに工場労働者や農民の人々は、彼らの階級闘争の最前線だったはずの『赤い旅団』に心底失望し、極左運動からは距離を取りはじめています(ラ・レプッブリカ紙)。

そんな3月29日、『赤い旅団』の3番目の声明とともに、フランチェスコ・コッシーガ内務大臣に宛ててモーロ自身が書いた最初の手紙が届くことになりました。

そのとき『旅団』が、「すべてを極秘にする『キリスト教民主党』のやり口で、モーロはわれわれに手紙の内容を秘密にするよう懇願したが、市民に隠し事があってはならない。そしてこれが、われわれのやり方だ」と宣言したため、あらゆるメディアが、そのモーロの手紙を一斉に公開しています。またこの時、モーロはコッシーガだけでなく、モーロが最も信頼していた秘書官ニコラ・ラーナエレオノーラ(モーロ)夫人、と3通の手紙を書いていますが、こちらの手紙は非公開のままでした(現在はすべて読むことができます)。

なおモーロは、囚われの身となった「人民刑務所」で97通の手紙を書き、そのうち22通のみが宛先に届けられています。その、投函されなかった手紙90通(ひとつの手紙に、いくつかのヴァージョンがあり、さらにカードに書かれたメッセージもカウントして)は、事件から12年を経た1990年オリジナル、あるいはコピー、または『旅団』メンバーにタイピングされ、『赤い旅団』のミラノ拠点であったモンテ・ネヴォーゾ通りのアパートの壁の中から、アパートの修復をしていた作業員の手で見つかることになります。

またその際、モレッティの尋問に答える形で、自身のプロフィールを含んで、モーロが国家機密を暴いた421ページ(そのうち229ページコピー)の書類「メモリアル・モーロ」も見つかっていますが、このようにモーロは、囚われている55日間に、ありえない!と思えるほどの膨大なボリュームの手紙、そしてメモリアルを書き続けていたのです。

実は1978年10月、『旅団』ミラノ拠点捜査の際、やはりモンテ・ネヴォーゾ通りのアパートで、グラディオ下のイタリアにおける『緊張作戦』の背景や、そのオペレーションに関わる政治家の名、カラビニエリの大佐が1964年に企てたクーデター未遂『ピアノ・ソーロ』、1974年、モーロが乗るはずになっていた汽車『イタルクス爆破事件』、さらにアンドレオッティをはじめとする、さまざまな政治家を辛辣評価した論考を含む「メモリアル・モーロ」の43ページのみ(『旅団』メンバーにタイピングされた)が見つかったことがありました。

この時点では、見つかった「メモリアル・モーロ」の存在は極秘にされましたが、その内容を見たとされる『P2』メンバーで軍事雑誌『OP』の主筆ミーノ・ぺコレッリ、同じく『P2』メンバーで、『旅団』創立メンバーを囮捜査で逮捕したアンチテロリストチームの総帥カルロ・アルベルト・ダッラ・キエーザ大佐、また、時代の寵児と言われた『P2』メンバーの銀行家、ミケーレ・シンドーナを捜査していた弁護士ジョルジョ・アンブロゾーリなど、9人の関係者が、数年の間に次々とマフィア暗殺されています。

冷戦下の1978年の時点で公表されたなら、国際的なスキャンダルとなったであろうセンセーショナルな内容を含む、この「メモリアル・モーロ」は、『ベルリンの壁』が崩壊し、アンドレオッティが『グラディオ』の存在を公表したのちの1990年に、ほぼ完全な形で「偶然」に見つかったわけですが、「市民に隠し事があってはならない」と正義漢ぶる『赤い旅団』が、78年の時点で、なぜすぐに公表しなかったのかは、まったくの謎です。それを即刻公表していたならば、『赤い旅団』は大勝利を収めるどころか、それこそ「革命」が成功していたかもしれません。

90年に発見された際、ラ・レプッブリカ紙、レスプレッソ誌に掲載された「メモリアル・モーロ」を読んだ、『旅団』創立メンバーのフランチェスキーニは、「モレッティがこれを公表しなかったなんて、馬鹿じゃないのかと思った」と呆れ、それまで「モーロは公表しなければならないような重要なことは何も喋らなかった」と言っていたモレッティは一転、「内容の意味が分からなかった」と繰り返すことになりました。

なお、『人民裁判』と称する尋問は、録音テープ(VHSの可能性もあります)も存在するとされますが、コマンドのひとりであるプロスペロー・ガリナーリが、オリジナルの「メモリアル・モーロ」とともにすべて焼き捨てた、と供述しており、その後は録音テープが探されることはありませんでした。しかし、手紙や「メモリアル」のコピー、タイピングしたレプリカを残しながらも、なぜ大部分のオリジナルを『旅団』が焼き捨てたのか、供述が曖昧でもあり、実際のところは(おそらく55日の間に)、その一部は他の誰かの手に渡っていたのかもしれません。

また、ファーニ通りから『旅団』コマンドが持ち去ったモーロの4つの鞄のうち、ふたつの鞄(ひとつは機密書類、もうひとつはモーロが服用していた薬類)も見つかることはなかったうえ、現場検証の時には確かに存在した、車に残された機密書類が入った鞄も、カラビニエリが持ち去ったとされ、その後完全に消失しています。

コマンドのひとり、アドリアーナ・ファランダは「われわれは、イタリアが米国の多国籍企業に支配された帝国主義の国であることを、モーロが告白することを期待したが、モーロはわれわれの想像を超える複雑な状況について語り、簡単に解読できるような内容ではなかった。仲間たちは馬鹿にされたように感じて、イライラしていたようだ。モーロはわれわれの質問には答えないことがあり、それは時間を稼ぐために、わざとぐずぐずしていていたのかもしれない。われわれは、自分たちが考える論理が間違っていることを認めたくなかった。しかし時間が経つうちに、モーロは政治家たち権力を巡る、数々の謀略の卑しさをわれわれに暴露しはじめることになった」と語っています。

いずれにしても、モーロが「人民刑務所」で書いた手紙、そして「メモリアル・モーロ」は、囚われの身であった55日間という短い間に書かれたとは思えない、尋常ではないボリュームの上、時間が経過するにしたがって鬼気迫る内容となるため、気力、体力が充実した時でなければ、読み込むことが困難であり、実を言うと、いまだすべてを読み切ってはいません。ミゲール・ゴトールによる「メモリアル・モーロ」の分析である「Il memoriale della Repubblica(共和国の回顧録)」は高い評価を受ける書籍なので、先でしっかり読もうと考えているところです。

アルド・モーロからコッシーガ大臣宛に書かれた最初の手紙のオリジナルの一部。mediterraneocronaca.itより。

さて、レオナルド・シャーシャは、モーロが書いた手紙に綴られた言葉にクリプト化されたコードを読み解いていく、というスタイルで、『モーロ事件』を分析、俯瞰しますが、何ひとつ情報がなかった43年前に推理されたとは思えない、現在「これが真実ではないか」と推定される仮説に迫る内容であるため、現代においても「シャーシャの作品のように、もう一度モーロの手紙を分析する必要がある」と、事件追求の基本中の基本として捉えられています。

まずシャーシャは、モーロから送られた最初の手紙が、なぜ内務大臣宛であったかを問い、それはモーロが、自分が囚われの身となっている『人民刑務所』を、警察、軍部が探し出す希望を、いまだ捨てていなかったからだ、と分析しました。そしてその手紙に、ついでのようにさりげなく書かれた「ヴァチカン(Santa Sede)のすぐ傍との予想は、多分有益だ」という一文が、どの方向性で捜査を進めていけばよいかを暗示している、とも考えています。

「(まだローマにいる)という確信は、おそらく人民刑務所の監視が遮ることができない物音、車が走る音、教会の鐘の音、人々のさざめきに勇気づけられたからだろう。そしてこれらの要素をひとまとめにし、ひとつの問いが生まれた。警察が『人民刑務所』を見つけられないなんて、いったいどういうことなんだ。答えはこうだ。『人民刑務所』は、疑問を挟む余地なく、警察が近づけない場所で、(捜査が)免除される場所だ。(それは)ヴァチカン市国か、それとも大使館か」

こう綴ったシャーシャは、もちろんモーロが実際にヴァチカンか、外国の大使館に幽閉されている、と考えたわけではなく、この時のモーロは、警察には人質を探し出す能力があり、同僚たち真剣にモーロを探している、との幻想を抱いており、ローマ市中をくまなく捜査することを期待して、治外法権の場所にも着目するよう、警察ヒントを与えたのだろうと言うのです。

モーロがこの時、内務大臣に送った「内密」の手紙は、『キリスト教民主党』のリーダーとして、「最悪の状態を避けるために、大統領とともに熟慮すべき」とコッシーガに催促し、「この誘拐は、個人だけではなく、国そのものに計り知れない損害を及ぼすことになる。議論の余地のない喫緊の状況のなか、無実の者たちを救うように誘導すべきで、適法性という抽象的な原則の名の下に、無実の者たちを犠牲にすることは許容されない」「これは冷静な判断が必要なゲリラ戦であり、感情を抑え、政治の現実を考察すべきだ」と、比較的重い、しかし明晰な論調で、注意深い交渉をコッシーガに要請しました。

シャーシャはこの時のモーロは、おそらく「脅迫に服従して交換に応じることは、最後の手段だ。まず長い時間をかけて、ゆっくり交渉し、その間にわたしを見つけ出して欲しい」と言いたかったのだろう、と分析しています。

▶︎ヴァチカン

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