演出された55日間
さて、前項と若干重複することになりますが、『モーロ事件』の背景としては、次のような要素がある、と一般的に推定されています。
●冷戦下の欧州における共産主義勢力を封じ込める目的で展開された、NATO主導のグラディオ/ステイ・ビハインド。
●グラディオ下、極右政治勢力主導で、イタリアにおいて「安定化のための不安定化」のための「オーソドックスではない戦争」として、69年の『フォンターナ広場爆破事件』を皮切りに展開された『La strategia della tensione (緊張作戦)』。一般にこの作戦において実行されたテロは『Strage di Statoー国家の虐殺』と呼ばれます。
●レナート・クルチョ、アルベルト・フランチェスキーニ、マラ・カゴールとともに『赤い旅団』の前身、『CPMーil Collettivo Politico Metropolitano』の創立メンバーであったコラード・シミオーニ、ドゥーチョ・ベニオ、ヴァンニ・ムリナリスが、クルチョたちと断絶したのち、パリに渡って設立した語学学校『ヒペリオン』。この『ヒペリオン』は、国際テロリスト(ドイツ赤軍、赤い旅団、パレスティーナ人民戦線及びパレスティーナ解放機構、バスク祖国と自由、アイルランド共和軍など)のロビーとして機能しながら、CIA、モサド、KGBとの関係をも維持する、重要な諜報センターだったと見られています。
●政府、各省庁、軍部、検察、司法機関、及びSISMI(軍部諜報機関)、SISDE(内務省諜報機関)、主要メディア、大企業、金融界の幹部たちで構成され、ジュリオ・アンドレオッティ、フランチェスコ・コッシーガと通じ、イタリアにおいて『二重国家』を築いたと表現される『秘密結社ロッジャP2』が、『モーロ事件』の背景に色濃く存在していたと考えられます。『ロッジャP2』は、ヴァチカンを含める国内外のシークレット・サービス、マフィアと強い絆を結び、クーデター未遂事件、『ボローニャ駅爆破事件』をはじめとする大規模テロ事件、暗殺事件の影に必ず名前が浮かび上がる非合法組織です。
現在では、『赤い旅団』と以上の要素の関係性が捜査され、たとえば『モーロ事件』時の『赤い旅団』の執行幹部マリオ・モレッティ、最初に逮捕されたコマンド、ヴァレリオ・モルッチ、さらに『モーロ事件』後に『旅団』幹部となり、マフィア的とも言える残虐な事件を連続して起こした、フィレンツェ大学、シエナ大学で教鞭を執る犯罪学教授ジョヴァンニ・センツァーニなどが、『旅団』に潜入していたスパイだった、と考えるジャーナリスト、研究者、政治家たちが多く存在します。
なお、その供述に確実なエビデンスがないにも関わらず、事件のオフィシャルな真相として歴史に刻まれることになった、ヴァレリオ・モルッチの自白に基づく「メモリアル・モルッチ」は、『キリスト教民主党』の機関紙『ポポロ』の副編集長レミリオ・カベドンが、獄中のモルッチをサポートして作成されたものです。また、そのドキュメントを作成する際には、カベドン以外にSISDE(内務省諜報)のシークレット・サービス、時の内務大臣フランチェスコ・コッシーガと強い繋がりを持ち、刑務所内の情報を集めていた、いわばスパイの役割を担う修道女が同席していました。
さらにモルッチは、当時のパートナーであったアドリアーナ・ファランダと共に、『旅団』以前に彼らが所属していた極左グループ『ポテーレ・オペライオ』幹部の仲介で厄介になった、KGBのスパイである教授の娘の自宅で、「自首」とも思える経緯で逮捕されています。その時のふたりは『赤い旅団』のコマンドらと決裂し、モレッティは「命を狙われている」と怯えていたそうで、逮捕時には、『赤い旅団』のローマ支部メンバーの本名を書いたリストが、モルッチのズボンのポケットから見つかりました。そもそも『旅団』のようなクランデスティーノー非合法組織は基本、仲間どうしで本名を呼び合うことはないため、モレッティは、故意にリストを携帯していたということでしょう。
この「メモリアル・モルッチ」に関しては、事件後から現在まで3回構成された『政府議会モーロ事件調査委員会』の調査でも、のちに明らかになった事実関係とモルッチの告白の随所に齟齬があり、司法で裁かれ、記録に残されたオフィシャルな事実ではありながら、信憑性に欠ける部分が多く散見される事実が示唆されています。
さらに、『モーロ事件』のコマンドのひとりで、現在もニカラグアに逃亡中のアレッシオ・カシミーリは、他のメンバーとは出自がかなり異質で、父親がヴァチカンの機関紙である『オッセルヴァトーレ・ロマーノ』主幹であると同時に、ピオ12世、ヨハネ23世、パオロ6世と代々の教皇の広報局長という役職を持つヴァチカンの高官で、自身もヴァチカンの市民権を持つ人物でした。学生時代から極左グループを転々とし、72年頃から強盗や殺人事件などの凶悪犯罪に巻き込まれていますが、どういうわけか一度も逮捕されたことはありません。
一説によれば、カシミーリのパリからニカラグアへの83年頃の逃亡は、SISMI(軍部諜報局)の司令官であり、『P2』メンバーのジュゼッペ・サントヴィートによりオーガナイズされたと言われ(ジェーロ・グラッシ)、93年にはSISDE(内務省諜報局)の諜報員が、カシミーリを訪ねていたことが、第3回『政府議会モーロ事件調査委員会』で明らかになっています。逃亡の経緯を含み、このカシミーリという人物は、イタリアのシークレット・サービスと何らかの関わりを持っていた、という疑惑がつきまとっていますが、本人からは何ひとつ語られることがないため、詳細は謎のままとなっています。
このように、『赤い旅団』の幹部レベルに、事件の背景となる非合法組織と通じるスパイが存在した、という仮説は、怪しげでエンターテインメントな陰謀ストーリーのようですが、『政府議会モーロ事件調査委員会』のメンバーをはじめ、事件を長く追いかけるハイキャリアの検察官、司法官、政治家、ジャーナリストたちが、40年を超える時の中、可能な限りの証拠、証言を得たのち、たどり着いた仮説です。
しかしどんなに明らかな証拠を突きつけられても、『旅団』のコマンドたちは「『赤い旅団』の裏には『赤い旅団』しか存在しない」、と現在に至るまで、その自白を翻すことはありません。
とはいえ『モーロ事件』以降の『旅団』幹部でありながら、同時に『Ministero di Grazia e Giustiziaー法務省』のアドバイザーを務めていた(!)経緯のある犯罪学教授であったセンツァーニはともかく(二重スパイの疑惑もある人物です)、『旅団』メンバーそれぞれのインタビューを読んだり、供述を聞いていると、モレッティもモルッチも、そもそも本人たちには、確固としたスパイの自覚がなかったのかもしれない、と思えてくるのも事実です。
むしろ逮捕されたあと、「刑期を短くする」など、その他もろもろの条件と引き換えに、当局と何らかの合意を結んだために真実を語らない、と考えるのが理に叶っているように思えます。実際、『旅団』を創立したメンバーは、殺人事件を1度も起こしていないにも関わらず、『モーロ事件』という、歴史を変えた重大事件を起こしたコマンドたちよりも、はるかに長い期間、刑務所に拘留されているのです。
いずれにしても、万が一「革命」が成功した場合の、具体的な国家構想案がまったくないまま、暴力に満ちた『鉛の時代』のバイオレンス・カルトを漂流するうち、一気に学生たちの人気を集め、いわば「にわかレーニン気取り」とでも呼べるまでに膨れ上がった、『旅団』コマンドたちの自己承認欲求が巧みに利用され、結果的にスパイの役割を負ってしまったのではないか、とも考えられます。少なくとも彼らには、スパイとして動いている自覚はなく、それが何を意味するか具体的なビジョンも戦略もないままに、本気で「革命」を起こそうとしていたのではないか、と思うのです。
また、『モーロ事件』以降の『旅団』は、初期の幹部たちが聖なる存在として「革命」の核に置いた、工場労働者、農業従事者の現実からは大きく乖離し、いったい誰のための「革命」なのか判然としないまま、やみくもな暴力だけが先行した、という印象です。さらには、「革命」には何世代もの長い時間がかかる、と考えていた初期の幹部たちとは異なり、『旅団』の新しい幹部たちは、性急に「破壊」へと突き進んでいきました。
ともあれ、身の上を完全に隠し、非合法活動をする『旅団』のようなアンダーグラウンドなグループには、彼らの古い仲間である『ヒペリオン』のメンバーはもちろん、各国のシークレット・サービス、同様の非合法活動をする組織(たとえば『ロッジャP2』やマフィアなどの犯罪グループ)が、武器の売買、資金の支援、機密情報の交換など、おいしい話を餌に、次から次にコンタクトをとってきたのではないか、と推察します。
実際、78年当時は『ロッジャP2』の存在すら明らかになっておらず(『P2』の存在が明らかになったのは81年ですから)、誰が味方で誰が敵なのか、混沌とした状況だったうえ、68年に吹き荒れた「革命」の風を知っている、年長の『旅団』幹部はともかく、誰もが正体を隠して動く、何がリアリティなのか判然とはしない非合法ジャングルの中、「武装革命」の神話に憑依され、状況が読めないままに思いつめ、疾走する若者たちを誘導することは、意外に簡単だったのかもしれません。
たとえば『旅団』創立メンバーのアルベルト・フランチェスキーニによると、「われわれは君たちにとても興味がある。ぜひとも支援したい」とモサドからコンタクトがあり、「モサド!?」と仰天して、丁重に断ったというエピソードもありました。
『モーロ事件』の全体を俯瞰すると、きわめて残虐なファーニ通りの惨劇を皮切りに国中を揺さぶった誘拐事件を、しかしどちらの方向へ進めていくべきか、『旅団』としてはまったく見通しが立っていなかった、という印象を受けます。
むしろ人質として『旅団』の管理下にあるはずのモーロが、交換条件を明確にし、そのために必要な段取りを、『キリスト教民主党』の同僚たちに何度も手紙を送って提案する、という具合でした。モーロという人物は、政治的に未熟な『赤い旅団』とはスケールを異にする海千山千、言ってみれば真正の政治家です。つまりモーロが『旅団』に代わって、『人民刑務所』の中から絶え間なく、外の世界に向けて政治を試みた、ということです。
その頃のアルド・モーロは、中東世界において原油市場を独占していたアングロ・アメリカンから、イタリア独自のルートを確保したエンリコ・マッテイ(1962年に暗殺)の意志を継ぎ、そのルートを維持したうえに、『ロード・モーロ』と呼ばれるパレスティーナ(PLOーパレスティーナ解放機構、PFLPーパレスティーナ人民解放戦線)との密約(イタリア国内の武器の輸送を許可する条件として、イタリア国内ではテロを起こさないという約束)を交わしていました。そのため、英国をはじめとする、西側諸国から強烈に憎悪されていたことは、前項に書いた通りです。
たとえばジャーナリストのジョヴァンニ・ファッサネッラや、『旅団』創立メンバーであるアルベルト・フランチェスキーニは、西側諸国を真に苛立たせたのは、『イタリア共産党』政府参画のデザインという思想的な裏切り、というよりむしろ、いわば属国のつもりで接していた敗戦国のイタリアが、アングロ・アメリカンによるモノポリーの「原油」利権、つまり縄張りを、さらっと無視して突き抜けようとしたからだ、と考えています。
一方、民主主義の政体に『イタリア共産党』が取り込まれる危険を察したソ連は、ドミノ倒しにドグマが崩壊するのを恐れ、「歴史的妥協」に大きな危惧を抱いていたそうです。
このような状況下、自らのテロ行為を、「多国籍企業による米国モデルの帝国資本主義を打倒することこそ、弱者を救済する正義」だと信じ、欲動に突き動かされ、常軌を逸して暴れる『赤い旅団』のコマンドたちは、自分たちの周囲に張り詰める、あまりに大きなパワーバランスを読む、インターナショナルな視点を持ち合わせていなかったのだと思います。
しかしながら、以上のような『冷戦』下における複雑な国際要因を背景に、「壮大なメロドラマ」とレオナルド・シャーシャが形容した55日間を、より残虐で悲劇的に演出したのは、CIAでもKGBでもモサドでもなかったのです。モーロ自身とその権力、影響力、そして理想を完全に白紙にするため、徹底的に『旅団』との交渉を拒絶し、『旅団』とモーロを追い詰めたのは他ならない、時のイタリア政府でした。
理由はさまざまありましょうが、最も顕著に確認できるのは「権力欲だ」、と事件を調査し続ける多くの人々は指摘します。英米の同盟国に気に入られ、『ロッジャP2』の傍で、多国籍企業とも、マフィアとも縦横無尽に通じる当時の首相ジュリオ・アンドレオッティ、そしてモーロ誘拐事件を解決するために形成したタスクフォース(Comitato politico-tecnico-operativo)の指揮を執った、内務大臣フランチェスコ・コッシーガは、たとえ葛藤に苦しんだとしても、国内「権力」独占の野望に満ちた人物だったのでしょう。
1963~68年、1974~76年と、長期の中道左派政権を率いたモーロは、事件当時、次期大統領の最有力候補と見なされていましたから、『キリスト教民主党』内の右派勢力とともに、やがて大統領の座に登りつめることを夢見たアンドレオッティ、そしてコッシーガにとって、次期大統領の呼び声の中、パワーバランスを無視して、際限なく市民の意向を政治に反映させようとするモーロは、邪魔以外の何ものでもなかったということです。
そこに『秘密結社ロッジャP2』の頂点に立ち、『二重国家』の影の支配者として、『鉛の時代』におけるあらゆる謀略オペレーションに関わったリーチォ・ジェッリ、さらに米国から招かれたアンチテロリズムのエキスパート、スティーブ・ピチェーニックが全面的に参入。モーロが誘拐された55日間が、よりショッキングで、よりスペクタクルな社会心理劇として演出された、というわけです。
彼らの目的は、モーロとともに、『イタリア共産党』と手を結ぶ『完結した民主主義』の理想、その賛同者(たとえば1980年にマフィアに殺害された、セルジォ・マッタレッラ現大統領の年長の兄弟、当時シチリア州知事だったピエールサンティ・マッタレッラなど)を、ことごとく消し去ることだったと考えられますが、結果的には、むしろ時間が経つほどに、事件の重要性が浮き彫りとなり、イタリアの人々が決して忘れることができない「歴史の空白」として、刻印されることになりました。
『冷戦』下、「安定のための不安定化」「オーソドックスではない戦争」という、グラディオにおけるイタリアの『La strategia della tensioneー緊張作戦』がイタリアを席巻した時代、グラディオがアンドレオッティ、コッシーガ、『P2』を利用すると同時に、アンドレオッティ、コッシーガ、『P2』もまた、自らの権力欲、支配欲のためにグラディオを最大限に利用したということになります。もちろん、その権力のトポスに、有象無象の既得権益が渦巻いていたことは、言うには及ばないでしょう。
何より言語道断なのは、『キリスト教民主党』というカトリックの倫理観を基盤に持つ政党でありながら、ライバルとはいえ、昨日まで共に国家を運営してきた人物の生命と尊厳を踏みにじるとは、市民のみならず、神への裏切りとも言えるのではないでしょうか。
戦後、「死刑」が廃止されたイタリアで、『赤い旅団』人民裁判においてモーロの「死刑」が宣告されたのちも、政府、そして『キリスト教民主党』は、解放に向けて働きかけるどころか、「ファーニ通りで生命を奪われた、5人の英雄たちの名誉のために」「テロリストとは交渉できない」と、のらりくらり交渉を拒絶し続けました。
※2008年に公開されたパオロ・ソレンティーノ監督の『IL Divoー魔王と呼ばれた男』のワンシーン。アンドレオッティは、確かに独特の哲学を持っていたようです。
▶︎矛盾