キッキアレッリと「ペコレッリ事件」
前述したように、その殺害ののち、ダル・ベッロや妻ゾッソロの証言や残された証拠品から次第に明らかになったのは、『アルド・モーロ誘拐殺害事件』における『赤い旅団』の7番目の声明の偽造犯が、美術界ではその名が知れた贋作の魔術師、トニ・キッキアレッリだったことです。
しかしどのような経緯でキッキアレッリが「モーロ事件」に関わり、その国家の謀略である(と言われる)重大事件の詳細を、どの程度知っていたかは、今となっては判然とはしません。しかしその後のキッキアレッリの動きをたどるうち、この時代のイタリアを覆った国家レベル(あるいは国際レベル)の謀略に、かなり深く関わっていた、あるいはそれを熟知していた可能性が浮上してきます。
そもそも7番目の偽装声明の目的は、モーロという国家を代表する重要人物が誘拐された衝撃で、恐怖と悲しみに打ちのめされたイタリア市民が、「モーロの死」にどれほどの反応を示すかを試す、あるいはやがて訪れるであろう実際のモーロの死に心理的な準備をさせるためだったとされます。
そしてこの、市民を愚弄する、常軌を逸したマーケティング、とも解釈できるアイデアは、当時の「モーロ事件」タスク・フォースに米国から招かれた、CIAアンチテロリスト犯罪心理エキスパート、スティーブ・ピチェーニックが「自ら発案した」、とのちにフランスで出版されたエマニュエル・アマーラによるインタビュー書籍「Abbiamo ucciso Aldo Moro(われわれがモーロを殺した)/2008」で語りました。
とすれば、映画「Il falsario(ビッグ・フェイク)」で描かれるサルトという男は、「モーロ事件」の最中に構成されたタスクフォースからの使者、ということであり、長年の友人であったルチアーノ・ダル・ベッロも「キッキアレッリはフィウミチーノ(空港)に頻繁に出かけて、誰かと密会していた」とのちに証言しています。しかし、諜報機関への情報提供者だったダル・ベッロが信用に足る人物なのかどうかははっきりせず、その「誰か」とは、実はダル・ベッロがキッキアレッリに紹介した人物だった可能性すらあります。
さらにキッキアレッリの死後、浮上したのが、1979年3月20日に起こった「ペコレッリ殺害事件」に、キッキアレッリが何らかの関わりを持っていたのでは?という疑いと、それを裏付ける証言です。
以前の項にも書きましたが、ミーノ・ペコレッリは自ら創刊した雑誌「OP(Osservatore Politico)」の主幹であり、短期ではあっても『ロッジャP2』のメンバーでもあったジャーナリストです。最終的に『P2』からは脱会していますが、ペコレッリは軍部、政治家に広範な情報網を持っており、ロッキード事件をはじめとする国家の不正や秘密を次々に暴き、当時「OP」は、発売と同時にエディコラ(新聞スタンド)から姿を消すほどの人気でした。また、アルド・モーロが誘拐されていた55日の間にも、犯人である『赤い旅団』の幹部であったマリオ・モレッティの戦闘ネームなど、誰も知り得ない情報が「OP」に掲載されたこともあります。
そのペコレッリは、『旅団』が潜伏していたミラノのネヴォーゾ通りのアパートで、カルロ・アルベルト・ダッラ・キエーザ大佐(1980年、シチリアでマフィアにより殺害)が手に入れた「メモリアル・モーロ」(一部、あるいは完全版)を共有し、「OP」でその内容を白日の下に晒そうとしていた、とされます。そして、まさにその記事を掲載しようとしていた時、ペコレッリは自らの出版社がある建物の前に駐車した車の中で、バイクに乗ったふたり組の男たちに銃殺されたのです。
それから1ヶ月も経たない4月11日のことです。タクシーに乗り込んだふたりの米国人が、座席に置き去りにされた鞄を見つけ、カラビニエリに届ける、という出来事がありました。
カラビニエリがその鞄を調べると、中には⚫︎IBM製12ポイントのタイプライター回転ヘッド(モーロ事件で、『赤い旅団』が声明文を作る際に使用した回転ヘッドと同じタイプ)、⚫︎フラッシュキューブ2個(獄中のモーロを撮影するために使用されたものと同じタイプ)、⚫︎パロマブランドのティッシュペーパーの箱(カエターニ通りでモーロの亡骸が発見された車のトランク内で、傷口から溢れる血を塞ぐために使用されたものと同じメーカーで、逮捕された『赤い旅団』のメンバーには認識がなかった)、⚫︎ドゥケッサ湖周辺の高速道路地図
さらには⚫︎シリアルナンバーベレッタ製9mmピストル、7.65mm弾11発および大口径弾1発(モーロは11発の銃弾により殺害され、そのうち9発は7.65mm 弾、2発は大口径弾2発)、⚫︎偽造運転免許証、⚫︎9本の鍵の束(モーロが誘拐されたファーニ通りの虐殺で発令された逮捕状も9件)、⚫︎モーロが服用していた白い錠剤3粒、⚫︎モーロが吸っていた煙草ムラッティ、とミネルヴァのマッチが入っていたのです。
さらに不可解だったのは、その鞄の中にはミーノ・ペコレッリ殺害計画、検察官アキーレ・ガルッチ襲撃計画、弁護士ジゥゼッペ・プリスコ拉致計画、下院議長ピエトロ・イングラオの護衛殲滅計画に関する4枚の書類が入っていたことでした。しかもすでに殺害されたミーノ・ペコレッリ殺害計画については、そのジャーナリストの日常の動向の、驚くほどの詳細が書かれていました。それだけではなく、鞄の中には『赤い旅団』の政治討論草案、ビラなども見つかっています。
この「紛失された鞄」は、「ペコレッリ殺害事件」が「モーロ事件」に関連があり、いずれも『赤い旅団』が関わっていたことを暗に示唆する内容でしたが、それが『赤い旅団』による「忘れ物」でないことは、その後の捜査により明らかになりました。また中に入っていたビラや政治討論の草案なども、本物ではなく偽造されたものであることが見抜かれています。
ではいったい誰が、『赤い旅団』がペコレッリを暗殺したように見せかけようとしたか、ということです。鞄の中で見つかった書類は、その精密さを鑑みて、おそらく「モーロ事件」の声明を偽造した人物により偽造されたに違いない、と推測されますが、その鞄を誰がタクシーの中に置いたのか、運転手の証言から明らかになることはありませんでした。

70年代のローマのタクシーは黄色だったようです。FacebookのMemorie di Romaのページに上がっていた、タクシープールの写真の細部を加工して引用。このページでは、古き良き時代のローマの写真が多く紹介されています。
のち、ローマ地方裁判所の予備審問官が、この「忘れ物」は、「ペコレッリ殺害事件」を明確に分析できる、真の受信者である「未知の人物」だけが「察知し解読できる」暗号化されたメッセージだと断言しています。そしてその後の捜査によると、書類の偽造のみならず、この鞄を故意に紛失したように見せかけたのは(おそらくその日のタクシーの乗客の誰かに頼むなどして)キッキアッリだと言うのです。
ならばキッキアレッリは、その「未知の人物」に、何をメッセージしたかったのか。それともペコレッリを殺害したのは『赤い旅団』だ、と偽装したい何者かの指示に、単純に従っただけなのか。
ペコレッリの秘書であり、恋人でもあったフランチェスカ・マンジャヴァッカは、ペコレッリが殺害される前の数日間、自分を尾行していた人物について、こう発言しました。
「髪は長く、口髭が濃く、黒い目をしていた。地中海系の顔立ちで、肌は浅黒かった」そう語ったマンジャヴァッカは指名手配者リストのアルバムを見せられると、「自分を尾行していたのは、確かにこのアントニオ・ジュゼッペ・キッキアレッリという男だ」と即答しています。もちろん、キッキアレッリが何のためにペコレッリの秘書を尾行していたかは明らかにはなっていませんが、殺害そのものには関わってなかったとしても、ペコレッリ殺害事件に何らかの形で関わっていた、と考えるのが自然です。あるいはキッキアレッリが、敏腕ジャーナリストであったペコレッリの情報提供者だった可能性もあります。
というのも、1978年クリスマス号の「OP」で、美術贋作の特集、「デ・キリコの贋作カタログー誰が作り、誰が所有しているか」というタイトルの記事が掲載されたことがあり、その取材中、ペコレッリがキッキアレッリという贋作者を知る機会を得たかもしれないからです。
また、ペコレッリの妹の証言によると、殺害されたその日、ペコレッリは「アントニオという人物と会う約束になっている」とも語っていたそうです。さらに妻であるキアラ・ゾッソロは、「彼は、知るべきではなかった何かを発見し、その殺人が、疑いの余地のない、非常に高い地位にあり、偽りの良識を装った者たちにより依頼されたものであることを突き止めていた」と証言したことがペルージャ地方裁判所の判決文に記されています(Spazio7)。

「OP」1978年12月26日号の、「デ・キリコの贋作カタログー誰が作って、誰が所有しているか」の記事の一部。giovannipetta.euより引用。このサイトは出版された「OP」すべてがPDFで保存されている貴重なサイトです。
ということは、それぞれの事件の真相を知っていたキッキアレッリは「モーロ事件」、「ペコレッリ事件」を企てた者たちに「自分はすべてを知っている」とアピールした、とも考えられる、ということでしょうか。犯罪仲間のひとりは、件の7番目の声明偽造に関して、「国中を騒然とさせたにも関わらず、報酬が少なすぎる」とキッキアレッリが愚痴っていた、とも証言しています。
なお、複雑な背景、人間関係があると目される「ペコレッリ暗殺事件」の、検察の捜査を簡単にまとめるなら、ペコレッリからその不正を攻撃され続け、「モーロ事件」の真相を含め国家機密を暴露されることを恐れた時の首相、『キリスト教民主党』ジュリオ・アンドレオッティが、シチリアの「コーザ・ノストラ」のサルヴォの従兄弟たちに相談したのち、その時代、最も影響力があったボス、ステファノ・ボンターテに話が伝わり、ガエターノ・パダラメンティ、ピッポ・カロを通じて「バンダ・デッラ・マリアーナ」のダニーロ・アブルッチャッティに殺害が依頼された、とされます。
実行犯となったのは「バンダ」のメンバーでありながら極右グループNARにも属していたマッシモ・カルミナーティ、さらに「コーザ・ノストラ」からはミケランジェロ・ラ・バルベーラ(インゼリッロ・ファミリー)であることが、その後明らかになり、なんと、事件の20年後に裁判に発展しました。
しかしながら、1999年からはじまった「ペコレッリ暗殺事件」の裁判では、アンドレオッティ、クラウディオ・ヴィタローネ(元検察官で、政府の要職を歴任した『キリスト教民主党』上院議員)、「コーザ・ノストラ」のピッポ・カロ、ガエターノ・バダラメンティ、ミケランジェロ・ラ・バルベーラ、「バンダ・デッラ・マリアーナ」のマッシモ・カルミナーティら、事件に関わったとされる全員が一審では無罪。二審でアンドレオッティおよびパダラメンティに懲役24年の有罪判決が下ったにも関わらず、2002年、最高裁(破毀院)によって二審の判決が破毀され、全員無罪となりました。さらに、事件の背景としては『P2』のグランドマスター、リーチォ・ジェッリの名が囁かれ続けています。
いずれにしても、こうしてトニ・キッキアレッリは、『鉛の時代』のローマに張り巡らされた危険な謀略の海を泳ぎながら、同時に見事な贋作作品をも描き続けていたということです。
キッキアレッリが謀略の構造、その目的を知っていたか、それとも自覚がないまま、諜報機関のただの駒として動いていたかは謎のままですが、キッキアレッリは、依頼人が誰であるか、何を目的としていたかをある程度認識していたはずであり、自ら偽造した声明文の内容や「バンダ・デッラ・マリアーナ」との繋がりから、その謀略の構造をも、それなりに(あるいは詳細にわたり)認識していた、と考えるのが妥当ではありましょう。
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