『鉛の時代』:「 国家の偽造犯」となった天才贋作者トニ・キッキアレッリとは何者なのか

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実在したトニ・キッキアレッリとは何者だったのか

では一般的に語られ、現在も調査が続く、実在したトニ・キッキアレッリとはどんな人物だったのか。

ゴージャスな別荘に住み、高級車を乗り回す豪勢な生活に明け暮れる、衝動的おしゃべり強い承認欲求を持つ男だった、と言われるにも関わらず、何から何までに包まれた、あらゆる行動に裏付けのない曖昧な人物です。したがってそのキッキアレッリもまた、多くの人々の想像が想像を生み、時間とともに創作された人物像かもしれない、との疑いを抱くことも確かで、これから続ける物語はあくまでも仮説であり、そのいくつかの仮説には、整合性がないことを先にお伝えしておきたい、と思います。

ではいったん、1984年9月27日未明まで時間を巻き戻します。

午前3時、生後10ヶ月の息子とともに帰宅したカップルを、突然11発銃弾が襲いました。赤ん坊は無傷でしたが、男性は死亡し、女性は片目を失明しながら奇跡的に助かっています。「その夜、車の中で聴いていたアントネッロ・ヴェンディッティの『テストの前の夜』が終わったとき、後部座席に乗せた赤ん坊だった自分を抱き上げようと扉を開けた瞬間、何発もの銃弾が撃ち込まれた」と、現在43歳になる、その悪夢を生き延びた息子は、「そう母親から聞いた」と語っています(Rai1 報道番組Cose Nostre)。そしてそれが、トニ・キッキアレッリの最期でした。

ちなみに、息子の母親は映画「Il falsario(ビッグ・フェイク)」で語られたギャラリー経営者、ドナータ(キアラ・ゾッソロがモデル)ではなく、当時キッキアレッリが夢中になった15歳以上年下クリスティーナ・コラーリという女性です。ふたりはコラーリが10代の時に知り合い、キッキアレッリはコラーリの妊娠を知るや否やゾッソロと別居して、ローマの郊外にコラーリと同棲しはじめています。

キッキアレッリとコラーリ。国営放送Rai1の報道番組「Cose Nostre」より。

アントニオ・ジュゼッペ・キッキアレッリという、この36歳の男の殺害事件が起こった翌日の新聞は、ローカルマフィア間の抗争、あるいは麻薬売買を巡る揉め事の犠牲者、として報じました。

もちろんこの時はまだ、殺害された男が「アルド・モーロ誘拐・殺害事件」における『赤い旅団』の7番目の声明の偽造犯であり、「ブリンクス・セキュアマーク強盗事件」の主犯、さらには政治・軍事雑誌「OP」の創立者であるジャーナリスト、「ミーノ・ペコリーノ暗殺事件」に何らかの役割を担った男であることを知る者は誰もいなかったのです。

事態が急変したのは、「ブリンクス・セキュアマーク強盗事件」で、犯人たちが使用した調達した麻薬中毒者の若者、ガエターノ・ミチェリが弁護士を伴って当局に現れてからでした。男が当局を訪れたのは、ブリンクスが加入していたロンドンの保険会社ロイズが、当時約束していた、強奪された金品の回収のために必要な情報提供者への25億リラを要求するためでしたが、この若者が強盗事件の詳細を当局に提供しなければ、キッキアレッリという人物の強盗事件関与は、永遠に注目されなかった可能性もあります。

当初、強盗事件を知っていると言いながら詳細を語らないミチェリは拘留され、ローマ、レビッビアの刑務所に収監されます。が、その収監中、キッキアレッリが殺害され、それを知ったミチェリは「いずれ自分も殺される」との恐怖に駆られ、強盗の主犯がキッキアレッリであること、そして共犯者すべての情報を白状することになりました。ただ、この時ミチェリが名を明かした共犯者たちは、ローマの人間ではなく(つまり「バンダ・デッラ・マリアーナ」ではなく)、北部訛りの言葉を話す男たちだったそうです。

キッキアレッリが殺害された後、家宅捜査を行なった捜査員たちは、シリアルナンバーが削り取られた38口径のリボルバー2丁、写真のフィルムの容器の中に、白い粉が入った小袋を見つけました。さらに丸一日かけてこじ開けられた頑丈な金庫の中からは、現金宝石貴重品のみならず、ブリンクス・セキュアマーク強盗事件を報じる国営放送Rai1の「TG1スペシャル」を録画したビデオテープ、何枚かの書類メモが入っているのを確認しています。

まず当局を困惑させたのは、その金庫の中に入っていた数枚ポラロイド写真でした。それはなんと、『赤い旅団』の人民刑務所で撮影された、まだ生きていた頃のアルド・モーロで、それらのポラロイド写真には公開されていないものも含まれていた、と言われますが、それが事実であるなら大変な出来事です。ということは、キッキアレッリは『赤い旅団』と何らかの関係を持つ人物だったのか、との憶測が飛び交いました。

「本日1978年4月18日、30年間にわたり酷い抑圧の論理で支配してきた『キリスト教民主党』の独裁時代が終焉を迎える。

この日付けに合わせて、『キリスト教民主党』総裁アルド・モーロの処刑を発表する。その『自殺』のため遺体の正確な位置が明らかになり、回収が可能となる。アルド・モーロの遺体は、アブルッツォ州とラツィオ州の境界に位置するカルトーレ、標高約1800メートルにあるドゥケッサ湖の泥底に沈んでいる・・・・(後略)」

アルド・モーロが誘拐されている間、『赤い旅団』の当時の幹部マリオ・モレッティが潜伏していたグラドリ通りの隠れ家が偶然(?)に見つかった1978年4月18日同日、送られてきた『旅団』からの、この第7番目の声明を、当局ははじめ、偽造されたものであるとは認識しませんでした。4月になっても厚い積雪が残り、氷に閉ざされたドゥケッサ湖では国を上げての大がかりな捜索が行われ、テレビで全国的中継されています。

その時代を生きた人々の記憶に生々しく残る、この氷の湖の空虚な大規模捜索を演出した声明を偽造したのが、キッキアレッリであることもまた、本人が84年に殺害されてはじめて明らかになったことです。

2019年、4月5日に撮影されたドゥケッサ湖の写真です。この記事の文脈には関係ないのですが、1978年当時は、分厚い氷に覆われていた湖は、今やほとんど氷のない湖と化しています。これも地球温暖化の影響なのでしょう。写真はFacebook,Meteo Lazioのページから引用させていただきました。

さて、キッキアレッリという人物は、そのドゥケッサ湖からさほど離れていないアブルッツォ州ラクイラ県ロシオーロというのどかな集落で生まれています。アルピーノと呼ばれる山岳兵の父を持ち、ごく普通つつましく暮らす家族に囲まれて成長しました。ただ幼い頃に母親、そしてふたりの兄弟を病気で亡くし、小学校、中学校と、キッキアレッリにとっては母の存在のような姉とともにラクイラの寄宿学校に通っていたそうです。学校での成績があまりよくなかったキッキアレッリは、デッサン絵画才能だけは飛び抜けて優れていたと言います。

中学を卒業したのちは一度も就職することはなく、そのかわり父親が所属するアルピーニ(山岳部隊)で兵役を経験しており、このとき武器に対する異常なほどの興味を抱いたと言われます。また、キッキアレッリにはそれを模写するために近くの中世の教会から2点盗んだ、という噂もありました。

1970年代になると、キッキアレッリはローマへと移り住むことになるわけですが、前述したようにその頃のローマはといえば、火炎瓶が飛び交い、車が燃やされ、街が火の海になる学生たちの反政府デモ、労働者たちのストライキや暴力的なサボタージュ、大学占拠、極右テロリスト、極左テロリストの銃撃戦に加え、新興のローカル・マフィア「バンダ・デッラ・マリアーナ」による犯罪が日常化していた時期です。

と同時にローマには、戦後の経済成長時代から脈々と継続する、きらびやかで退廃的なドルチェ・ヴィータも広がっており、羊が群れをなす山間の集落から突然訪れた青年が、みるみるうちに羨望と野心を膨らませるには、またとない刺激的な環境だったと想像します。キッキアレッリを昔から知っている人物によると、どこか狂気に満ちた、政治どころか短絡的な贅沢以外には興味のない男だったそうです。

ローマに移り住むとキッキアレッリは、当時の偉大な画家たちにインスピレーションを与えた、未来的で超現実的な雰囲気を醸すEUR地区にあったバール「Fungo(きのこ)」に通うようになり、そこでジョルジョ・デ・キリコジャコモ・バッラなどの作品を見事に模写をしてみせて、名画贋作者として頭角を現していきます。

しかし名画の模写では天才的な才能を発揮したとしても、何の後ろ盾もなく、定職も持たないこの頃のキッキアレッリには、ローマでの生活は厳しかったようです。それでもバイクを買ったり、女性と遊びに行く金を得るために、その場しのぎのひったくり詐欺盗品の売買で小銭を稼ぎ、武器不法所持などの軽犯罪も含めて何度か逮捕され、刑務所娑婆を行ったり来たりという生活を送っていました(参考:エマニュエーラ・オルランディのブログ)。

またこの頃キッキアレッリは、「バンダ・デッラ・マリアーナ」」の周辺にいた犯罪者、ルチアーノ・ダル・ベッロという男と知り合っており、その関係はキッキアレッリが死亡するまで続いています。ダル・ベッロは強盗、詐欺、武器不法所持、過失致死の前科を持つ小悪党であると同時に、SISMI軍諜報局)、カラビニエリへの情報提供者(スパイ)でもあり、『鉛の時代』の未解決重大事件の機密調書(現在は公開)の随所にその名が現れる男です。

そしてこのダル・ベッロという男がのち、「キッキアレッリこそが『赤い旅団』の7番目の声明の偽造犯だ」と断言することになりますが、そもそも承認欲求が強いキッキアレッリは、犯罪仲間、あるいは妻には、「自分が件の声明の偽造者だ」と自慢げ吹聴していたようですから、ダル・ベッロだけが真実を知っていたわけでもなさそうです。

のちに「バンダ・デッラ・マリアーナ」のボスのひとりとなるダニーロ・アブルッチャッティとは1976年、互いに収監中であった頃に親密になり、その時からキッキアレッリは「バンダ・デッラ・マリアーナ」」のレギュラーではなくとも、その周辺での麻薬取引、資金洗浄、売春、強盗というアンダーグラウンドな世界に足を踏み入れることになります。

と同時に「バンダ」と協力関係にあった「コーザ・ノストラ」(当時ローマを牛耳っていたのはピッポ・カロ)、さらにはその周辺にいた極右テログループにも接近していきました(パオロ・アルメッリ)。なお、初期のキッキアレッリは極左グループ(アウトノミーア・オペライア)に共感した時期があった、とも言われますが、その真偽は不明です。

やがて妻となるギャラリー経営者キアラ・ゾッソロと知り合ったのは意外と遅く77年頃のことです。その後ふたりは協力し、キッキアッレッリは類稀れな才能を持つ名画の贋作者として、ゾッソロがその作品の数々を闇市場に流し、荒稼ぎをするようになりました。特にジョルジョ・デ・キリコの作品の複製は精巧緻密で、当時の美術界では贋作の魔術師とまで言われたそうです。さらにローマの900年代の画家、マリオ・シローニ、フィリッポ・デ・ピシスらの作品の贋作にもキッキアレッリは挑戦し、そのオリジナルと見分けがつかない贋作群は、正規市場に流れることもありました。

というのもキッキアレッリは、単に優れた贋作者であるだけでなく、写真や印刷技術にも造詣が深く、化学薬品を使って数十年が経過したようなオリジナル作品の風合い再現すると同時に、作品が創られた当時の額縁を入手するなど、細部にわたる惜しみないこだわりで仕上げていたからです。しかもその工程を驚くほどのスピードで進め、オリジナルと寸部も違わないそれら贋作群は、アンフェタミンの助けも借りて数日のうちに仕上げられたと言われます。

そこで、その贋作を実際に見てみたい、と思いかなり調べたのですが、残念ながら、キッキアレッリの当時の贋作はほとんど観ることができず、初期の作品のみがネットに上がっているだけです。というのも贋作を市場に流していたキアラ・ゾッソロは、キッキアレッリの死後、1985年に逮捕され、所有していた贋作はすべて当局に押収されてしまったようで、しかしひょっとすると、その贋作を、贋作だと気付かないまま、いまだに所有する個人が存在するかもしれません。

いずれにしても、キッキアレッリは贋作者であってもまったく恥じることなく、自らをローマ1番稼ぐアーティストだと、やはり常に強気だったようです。実際キッキアレッリが模写した贋作は飛ぶように売れ、1978年にはゾッソロと結婚。EUR地区に豪勢な別荘を借りると、夜毎大勢の友人たちを招いてパーティに明け暮れ、高級車を乗り回していました。

しかしその、キッキアレッリの類稀れな模倣の才能が、時代を創出する謀略を図る国家機関の一部の者たちにダル・ベッロやアブルッチャーティを通じて利用され(あるいは反対にキッキアレッリが利用しようとした面もあるかもしれません)、『鉛の時代』の重大事件に関わっていくことになるわけです。

▶︎キッキアレッリと「ペコレッリ事件」

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