ローマ、パニスペルナ通り90番地から『マンハッタン計画』へ、そしてエットレ・マヨラーナのこと

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『人種法』と消えたマヨラーナ

マヨラーナが失踪した1938年は、パニスペルナ通りのインスティチュートの周辺で、あらゆるすべてのことが起こった『分裂』の1年だった、と言えるでしょう。

この年の7月には、『人種法』宣言(法制化は1939年)され、『ローマ大学原子核物理学インスティチュート』ではにわかに緊張が高まっていました。

ユダヤ系イタリア人であるエミリオ・セグレ、フランコ・ラゼッティ、そしてエンリコ・フェルミ夫人であるラウラ・カッポーネは亡命の準備をはじめ、セグレは一足先に米国へ、フェルミ一家は12月、コペンハーゲンで開かれたノーベル賞受賞式の後イタリアへは戻らず、米国のコロンビア大学へと移動している。この動きの背景として、連合国は優秀な研究者たちをスカウトするために、頻繁な接触があったと考えられています。

また、ノーベル賞授賞式の際、フェルミがサルート・ロマーノ(地面に大して135度の角度で上げるナチファシストの敬礼)を行わなかったことは、語り草となりました(フェルミはファシスト党に入党していたので)。

フェルミが亡命したのち、『教皇』を失ったパニスペルナ通りのインスティチュートは解体状態となり、1939年にはラゼッティもカナダに亡命。創設時からのメンバーでイタリアに残ったのはエドアルド・アマルディのみとなりました。ちなみにエットレ・マヨラーナの『伝記』を誰よりも早く書いたのは、このアマルディで、のちに反核運動に身を投じてもいます。

いずれにしても、この『人種法』こそが、その後の日本、そして世界の運命を変える導因となったことは、火を見るより明らかです。

 

 

同じく1938年、大学での講義を終えたエットレ・マヨラーナが、ナポリの宿として使っていたボローニャ・ホテルを立ち去ったのは、3月25日の夜のことでした。ホテルを出た彼は、学長1通の手紙を送り、パレルモへ向かう船に乗ります。

「親愛なるカレッリ、もはや避けることができないと決心しました。その決心にはほんの少しのエゴイズムもありませんが、わたしの突然の失踪が、あなたや学生たちに迷惑をかけることは了解しています。ですから、すべて信頼してくださったにも関わらず、この数ヶ月の間、わたしに注いでくださった誠実な友情と共感を失望に変えてしまうことを許してください。あなたの大学で知り合い、評価した人々、特にSciuti(学生)にわたしの記憶を留めて欲しいと願います。この大切な思い出すべてを、少なくとも今晩11時まで、そして多分その後も、胸に秘めておきたいと思います」

ボローニャホテルの机の上には家族への手紙も残されていました。

「わたしにはたったひとつの願いがあります。喪服を着ないでください。もしどうしても着たいというのならしかたありませんが、いくらかの喪の気持ちを示すだけで、3日以上は着続けないでください。もしできることなら、心の中でわたしのことを思い出して。許してください」

ところが26日になって、ナポリ大学学長であるカレッリは、「動揺しないで、次の手紙を待ってください。マヨラーナ」という電報と同時に、(おそらくマヨラーナ自身が)パレルモから投函した、もう1通の手紙を受け取ります。

「親愛なるカレッリ、電報と同時に手紙が着いているといいのですが。海がわたしを拒絶したので、明日、多分、この手紙を書いている便箋とともにボローニャホテルに戻ります。しかし、教職は辞任するつもりです。どうかわたしのことをイプセン風の少女(『人形の家』のノラ?)のように捉えないでください。なぜならまったく違うケースなのですから。詳細に至るまで、あなたに従います」

 

 

この3通の手紙を残したまま、しかしマヨラーナの消息は、現在に至るまでまったく分からなくなってしまうのです。

「マヨラーナ、失踪」の報告は、すぐさまローマの家族や友人たちに行き渡りました。パニスペルナ通りのフェルミの元に知らせが届いた際には、「彼の明晰さをもってすれば、一度消えよう、あるいは自分の亡骸を消してしまおうと決心したのなら、マヨラーナはそれをやってのけるだろう」と言った、と伝えられています。

もちろん当時の警察は、海への投身自殺を含め、マヨラーナをくまなく探しますが、復路であるパレルモーナポリの乗船リストにはマヨラーナの名前が残っているため、どうやら本人は確かにナポリに帰ってきたようだし(替え玉を使わない限り)、ナポリ市内で4月のはじめに見かけた、という情報(マヨラーナが通っていた病院の看護師が目撃)もありながら、その後の行方は一向につかめなかった

当局は早々に『精神的に追いつめられての自殺』と断定して捜査を打ち切ろうとしましたが、どうにも腑に落ちないのは、マヨラーナがパスポートを携帯し、3ヶ月分の大学のサラリーを銀行から引き出して行方をくらましたことでした。そして、このパスポートとまとまった金銭を持って失踪したことが、のちのち、いくつもの「その後のマヨラーナ説」を生むことになったのです。

友人マヨラーナの突然の失踪に衝撃を受けた国家教育大臣の息子、ジョバンニ・ジェンティーレJr.は「マヨラーナ教授はこの数年間、イタリアの科学の最強エネルギーとなった人物のひとりであり、彼を救うためにはまだ時間がある」と、当局に向けてさらなる捜査を要請。また、マヨラーナ家はシチリアの名家でもあり、おそらく当時のファシズム政権の有力者とも強い繋がりがあったであろうこと、さらにはカトリック教会経由でも、息子の捜査に働きかけたに違いない、と指摘されています。

しかもファシズム全盛のこの時代、当局は秘密警察を使って、通常やりとりされる手紙まで開封され、徹底的に市民を監視していたと考えられるため、『原子核物理学』という、いわば国策に関わっていたマヨラーナが、国外のエージェントを含んで、まったくのノーマークであったとも考えにくい。しかしマヨラーナは何ひとつ、手がかりを残していないのです。忽然と消えた。

こうしていったんは『自殺』と断定されながらも、友人や家族の強い要望で、再び捜査が再開されることになりました。

さらに、その年の7月、フェルミはムッソリーニに直接手紙を送り(マヨラーナの母親も手紙を送っています)、「稀代の科学者」マヨラーナのさらなる捜査を要請し、ムッソリーニ自らがマヨラーナの徹底的な捜査を命じた、とされています。しかしのちの研究で、このときフェルミが書いたという手紙のサインは、フェルミ本人のものではないことが明らかになりました。

その失踪の裏に、マヨラーナという天才物理学者の獲得を狙う、大戦前夜の「国際的な諜報の動き」があった、と論じる人物もいますが、あまり信憑性があるとは思えず、また、何の証拠も証言もないため、ここでは触れないことにしておきます。

▶︎その後のマヨラーナ

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