ローマ、パニスペルナ通り90番地から『マンハッタン計画』へ、そしてエットレ・マヨラーナのこと

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ハイデンベルグとの出会い

この時代、欧州における原子核物理学者たちの交流は非常に盛んで、フェルミや他の同僚たちが奨学金を得て海外へ研究に出かけたように、エットレ・マヨラーナもまたフェルミの推薦を得て、『量子力学』の創設者のひとりであるヴェルナー・ハイゼンベルグが所属するリプシア研究所があるドイツ、そしてニールス・ボーアが所属するコペンハーゲン研究所があるデンマークへ留学しています。1933年、1月のことです。

自分が屑籠に捨てた方程式を、そののち論文として発表したハイゼンベルグに、そもそも親愛の念を感じていたらしいマヨラーナは、実際に会ったハイゼンベルグに、さらなる好意を抱きます。

「墓場と憂鬱の間にある」リプシアの研究所に温かく迎え入れられたマヨラーナは、「ハイゼンベルグとは最高の関係を築いています」と母親に手紙を書き、父親には「僕が書いた原子核の構造に関する論文を、『わたしの説を改善するヒントを含んでいる』と、ハイゼンベルグが気に入ってくれました」と嬉しそうに書き送っている。

また、ドイツを離れる数日前には「ハイゼンベルグとまだ話さなければならないことがあるため、あと2、3日はリプシアに残ることにします。彼は僕のお喋りが大好きで、辛抱強くドイツ語を教えてくれるんです」と父親に手紙を出しています。シャーシャは、ローマでは言葉数が少なく、内向的と評価されるマヨラーナが書いた、この「お喋り」という表現に注目しました。

1933年といえば、ドイツ中をナチズムの嵐が飲み込み、ヒットラー全権を掌握した年。ニュルンベルク法前夜、ユダヤ系の人々の排斥が顕著になりはじめた頃です。

そんなドイツで、マヨラーナがハイゼンベルグといったいどのような「お喋り」をしたのか、シャーシャは「もちろん原子核物理学が中心だったであろうが、文学や経済問題、海戦のこと、チェスの話(マヨラーナは幼少時代から負け知らずのチャンピオンだったので)だったかもしれない」と推測しています。

ドイツの後にコペンハーゲンに赴いたマヨラーナは、のちに『マンハッタン計画』に加わるニールス・ボーアのことを、年のせいか「もうろく」しているようだ、と父親への手紙に書いており、ボーアという人物にはまったく興味を抱けなかったようです。

 

父親と姉妹たち。マヨラーナと非常に仲がいいお父さんだったそうですが、彼がイタリアに戻って間もなく亡くなっています。

 

ピアノの名手でもあったハイゼンベルグという科学者は、フェルミやボーアとは明らかに違い、自身の内に「広大で悲劇的な思考文脈」を抱く(ありふれた言葉を使うなら、とシャーシャは前置きして)『哲学者』でもあり、マヨラーナは、その深淵な人柄に強く魅了されたのではないか。そのころのマヨラーナはショーペンハウエルの著作を愛読していました。

なお、ドイツの当時の状況に関して、マヨラーナはリプシアで体験したナチスの侵攻を「そもそも社会民主主義者であった市民は、その革命無理なく受け入れ」と観察。さらに今まで公共機関でも、民間機関でも、多くの要職についていた「ユダヤ系の人々への迫害は大多数の人々を陽気にし」、「今までベルリンの検察官の50%を占めていたユダヤ系の人々の3分の1が排斥されたこと」「また共産主義者も同様に社会から排斥されつつあること」を、情感のこもらない淡々とした描写で、母親に書き送っています。

また、マヨラーナの奇妙さを物語るエピソードとしては、「6500万(当時のドイツの人口)の市民が、明らかに自分たちの民族を構成しようとしている60万人(ユダヤ系の人々の人口)に指図されるのは理解できない」、とパニスペルナ通りの同僚で、ユダヤ系イタリア人であるエミリオ・セグレに手紙を出して激怒させたことでしょうか。

ところがその2週間後に、ジョバンニ・ジェンティーレ Jr. (ファシズム思想の構築に貢献した哲学者ジェンティーレの息子ですから)に宛てた手紙には、「『民族』という論理を使って人々を団結させるばかばかしさ」を綴っています(Wikipedia : イタリア語版)。

つまりマヨラーナは、ふたりの同僚に、まったく両極端と思える内容の手紙を送っているわけです。

この時マヨラーナが見せた両極端の視点は、しかし「ジャッジすることなく、矛盾を矛盾としてありのままに語る」科学的視点だ、と言えばそう言えるのかもしれませんし、深読みするならローマのインスティチュートの同僚たちへの何らかのメッセージがあったのかもしれません。それとも彼が得意とする節度のない、きつい冗談なのかもしれない。

いずれにしても リプシアで半年を過ごしたマヨラーナは、強くドイツに魅了されますが、後世の何人かの人々が考えるように、ナチスが構築しつつある『第3帝国』に心惹かれたわけではなく、ローマとはまったく異なる「無駄のない、プロフェッショナルなドイツのシステムと、ハイゼンベルグという人物のせいだろう」というのが、ほとんどのマヨラーナ研究者たちの見解です。

まったくの余談ですが、非合理性こそが日常のローマで暮らしていると、マヨラーナがドイツに抱いたであろうその感覚は、少し理解できるようにも思えます。

▶︎4年間の隠遁生活

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