アートと人が躍動し、増殖する”マイエウティカ” ローマ市営美術館:MACRO ASILO

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次から次に政治混乱のニュースが流れ、負のエネルギーがあまりに強烈で思考が停止しそうなとき、ふらり、とこの美術館を訪れると、なんとなく安定した気持ちになります。気持ちの次元が変わるというか、スペースに漂う挑発的でありながら、どこか緩やかなエネルギーに救われるというか、生産的な『現実』が、わたしが生きる世界に同時にあるのだ、と改めて思い出させてくれるのがMACRO ASILO。ローマの宝石とも言われる繊細な佇まいの市営美術館MACROが懐深い実験プロジェクト、MACRO ASILOとなりオープンして4ヶ月。有名アーティストによる絵画やオブジェなど、いわゆる通常の、有料での『展覧会』は一切開催されていないのに、いつ行っても必ず、斬新なドキュメンタリーフィルムやパフォーマンス、アート作品や考え方、そしてアーティストたちとの出会いがあり、しかも『無料』という気前よさです。

ローマ中心街のほど近く、Via Nizza (ヴィア・ニッツァ)138番地のローマ市営美術館MACROが、MACRO ASILOとしてオープンしたのは2018年の10月1日。今後2019年12月31日まで15ヶ月間続く、現代アートのアーティストたちとローマの街、そして市民を繋ぐことにより、真の意味での『公共』スペースを取り戻そうという、実験的なプロジェクトです。

コンテンポラリー・アートというと、鑑賞者も身構えて、どこか緊張しながら作品と対峙、理解できないままに通り過ぎてしまいがちですが、たとえばアーティストたちが4つ用意されたガラス張りのアトリエに滞在、作品を創作する過程を、観客が実際に見ることができるこの美術館では、アーティストも観客も自然体のまま、作品の背景にある観念的な次元にまで触れることができる。というのも、もし理解が困難であれば、作品を創っているアーティストたちに直接質問することができるし、アーティストたちも時間が空いていれば、コンセプトからその表現に至るまでの詳細、作品のキーワードを快く話してくれるからです。つまり観客は、鑑賞しながら作品の緻密な、あるいはダイナミックな創造過程を同時に追体験でき、逆にアーティストたちも、ひとりで作業するときとは違って、観客たちのエネルギー、そして会話から影響を受け作品が膨らみ、変化することがあるかもしれません。

 

4つのアトリエに次々に作品が創作されていく。日本人アーティストElly Nagaokaも参加。

 

MACRO ASILOのコンセプトのひとつに、Museo ospitale (手厚くもてなす美術館)というのがありますが、実際、スペースそのものに、アーティスト、観客、その場を訪れるすべての人々の自由を許容する、おおらかな包容力がある。そういえば、要所に配備された美術館員の若者たちも、極めてリラックスした様子で、(高額の)作品に近づくとブザーが鳴り響き、飛んできた美術館員に注意される、といった通常の美術館の張り詰めた緊張感はどこにもありません。

この美術館で開催される、大勢の観客が続々と集まる、著名作家による本のリーディングや有名アーティストのパフォーマンス、あるいは重鎮や気鋭作家のカンファレンスやフォーラム、ラボラトリーに気軽に参加できるのは、もちろん大きな魅力ですが、ウィークデーの時間が開いた昼下がり、洗練されたモダンな建築の美術館の、人が疎らな館内のあちこちを目的なく見物するのは、あらゆる俗世の面倒な出来事から解放され異次元へと迷いこむ、ちょっとした冒険です。そしてそんな時に「お!」と思う作品、あるいはパフォーマンスに出会うことがある。なにしろ月曜日の定休日以外、開館から閉館(火曜〜日曜 10:00~20:00 土曜のみ 10:00~22:00)まで、常に複数のプログラムが同時進行しているので、いつ訪れても手持ち無沙汰になる、ということはなく、場合によっては、どちらのプログラムに参加しよう、と迷う感じでしょうか。▷印刷されたプログラムは美術館でいつでも手に入りますが、このサイトからも今までのプログラムとともに、すべてダウンロードできます。

何回か美術館を訪れ、「何故ここは、こんなに居心地がいいのだろう」と考えるうち、「このスペースにはフロンティア、つまりどこにも人を遮るものがないうえ、どの部屋に行く扉も開かれているから」だという結論に達した。もちろん建造物ですから物理的な壁は存在しますが、広い館内にいくつもあるアトリエやラボラトリー、シネマルームなどを、自由気ままに移動できるうえ、ラボラトリーで作品を観ているうちに、前触れなく、音楽とダンスのインプロビゼーションがはじまったりもします。それも「こんなダンスが無料で観れるとは」という、練り上げられたテクニックを持つアーティストたちのパフォーマンスで、そのまま立ち止まってダンスを観たあとは、いつも賑やかな美術館のカフェでコーヒーを一杯、さらに館内を歩き回るという具合です。

「創造を核に、アーティスト同士、訪問者、あるいは訪問者同士が出会い、そこから何かが生まれる可能性があると思うよ。表現が多様で、柔軟なスペースだね。かつてはこんな場所が街のあちこちにあったけれど、今はすっかりなくなったから、いまや貴重なスペースだ」と、美術館でたまたま話した人物は言っていましたが、なるほど、このスペースに漂う包容力は、その『可能性』に秘密があるのかもしれない。また昼間に行くと、小学生や中学生のグループが、多く見学に訪れており、たまたま3人ほどの小学校低学年生が、1週間この美術館に滞在するアーティストの、実験的な現代電子音楽のインプロビゼーションを面白そうに覗き混んでいたのを見かけたので、「この美術館、好き?」と聞くと、3人とも力強く頷いて「好き!」と答え、「なぜ?」と尋ねると「楽しいから」と明快に答えてくれました。先入観のない子供たちのほうが、大人たちよりも遊びの延長で美術館を楽しんでいるのかもしれません。

 

※MACRO ASILOがオープンしてから60日間を編集したビデオクリップ。館内のそれぞれのスペースで行われたカンファレンスや講義、ラボラトリー、パフォーマンスの数はすでにかなりの数に上っています。常に何らかの動きがあるので、目が離せません。

MACRO ASILOとは、どんなプロジェクトなのか。

Asiloーアジーロ、というイタリア語は、いろいろな意味を含む言葉です。例えば『アジーロ・ポリティコ』といえば、政治亡命という意味であり、子供たちの保育園のことも『アジーロ』と呼ぶし、そもそも『避難場所』、『保護区』という意を含んでいる。ではMACRO ASILOは、何から避難するのか、そして何を保護するのか。それはかつてインタビューさせていただいた、現在のMACRO ASILOのディレクター、ジョルジョ・デ・フィニスの話にヒントを見出します。

アートや文化が、アート市場における投機の対象ともなる現代、MACRO ASILOはアートを核としながら、巷を揺るがすハイパーキャピタリズムに巻き込まれることなく、ローマの市民(もちろん市民でなくとも)が自由気ままに映画、カンファレンス、文学を含む文化、アートと接しながら、人と出会い、新たな可能性を利害なく発展させることができるスペースであり、シェルターでもある。そもそも市民の公共スペースである市営美術館で、いつでも『無料』で現代アートや文化イベントを体験できるのが、まず重要なポイントです。

ジョルジョ・デ・フィニスは、ローマの郊外、Via Prenestina(ヴィア・プレネスティーナ) 913番地にある、長い時間置き去りとなり、荒れ果てるままとなっていたサラミ工場の廃墟を『人が暮らす現代美術館 Metropoliz/MAAM』として再生させる、という奇想天外なアイデアを発案し、実現した人物。過酷を極める経済危機で大きな打撃を受け、住居に窮するほどの困窮に陥ったイタリア人、そして移民の人々が団結し、サラミ工場の廃墟を占拠しはじめたのが、その美術館のはじまりでした。デ・フィニスは、アート作品をバリケードとして、その占拠グループ( Metropoliz)の人々の人権住居の権利を保護することを、ドキュメンタリー・フィルムの制作を通じて提案。その挑発的なアイディアに、現代美術の巨匠からストリート・アーティストまで、国内外のアーティストたちが賛同して次々に工場跡を訪れ、500点を超える作品を無償で残していった。

膨大な作品群を背景に、占拠者である人々は、荒れ果てたサラミ工場の廃墟を住宅として整備、人種も宗教も習慣も超えて誰もが調和しながら生活する、一種のユートピアを構築。世界にも類を見ない『人が暮らす現代美術館』MAAM (Museo dell’Altro e dell’Altrove di Metropolizは、たちまちに大きな話題となり、多くの人が訪れ、メディアでも盛んに報道されました。しかしながら『占拠』はもちろん違法ですから、当局との緊張は一触即発ですが、なにしろアーティストたちの善意で残されたアート作品の市場価格が莫大な金額となり、その作品を損なうことを恐れて、今のところ当局は力づくでの強制退去ができずにいます。とてつもない補償金を要求するサラミ工場跡の現在の所有者と、MAAMを保護するローマ市との間で、果てしない裁判が続いてはいても、ローマ市も「ない袖は振れない」といったところでしょうか。

このように、ハイパーキャピタリズムから弾かれ、困窮に陥った人々をアート市場、つまりハイパーキャピタリズムが図らずも保護するという、緻密に練られた「ウロボロスの蛇」のような皮肉なメカニズムで調和を保つ、知的でパンクな現代美術館MAAMは、ちなみに「トリップアドバイザー」でも高評価されるローマの名勝ともなっています。

 

※プレスティーナ通りをローマ郊外に向かって、東へ、東へ、と進むうちに、やがてこのグラフィティが見えてきて、ようやくMAAMにたどり着いた、と感じる、いまやシンボル的なグラフィティ。

 

その、スペースそのものが好戦的な巨大「コンセプト・アート」とも言えるMAAMを発案した人物が、フランス人女性建築家、オディル・デックによる流麗で精密なデザインで建築され、すでにアイデンティティを確立したローマ市営美術館MACROのプロジェクトをディレクションすると、いったいどのようなスペースになるのか、正直にいうなら、当初はまったく想像できなかった。

オープニングの前に主要メディアが報道したMACRO ASILOの内容は、2018年の9月31日から15ヶ月に間続く「実験的なプロジェクト」であり、通常の「展覧会」は一切開催されず、「アーティストたちが制作の過程でローマという街と出会う」、「すべての人々が居心地よく、自由に通えて、滞在できる」、「生産的で多様な」、「有機的な生きた美術館」、「公共の本来の次元を取り戻し、美術館を、現実に『公共』に解放する」「本来の美術館とはまったく違う」というキーワードでした。通常の美術館とは体裁が異なるため、はじめは多少戸惑いましたが、実際に何回か通ううちに、それらのキーワードの意味を実感するようにもなった。前述したように、特に目的を持たずに訪問した際、美術館に流れるシャープで刺激的、しかし温度がある空気に、開放的な気持ちになります。

「ジョルジョ・デ・フィニスのアイディアで、常に開かれ、街と市民が参加できるというロジックの認識とディシップリンのもと、人々が出会い協力し、居心地のいい相互関係が生まれる、真に生きた有機組織体として美術館全館をトランスフォームする。そのために入場はすべての人々に無料となっている。街と現代美術との間に、新しく、そして広がりながら関係を築くことに集中したイノベーションを、美術館機構は目指す。実験という意味合いにおいて、人と人をつなぐデバイスとなりえるアートを通じ、公共機構として街の現代美術館を見直し、理解、センス、知識を形にした、まさに『今』の作品の持つ市民的な機能を精査していく。MACRO ASILOは、現代と未来の極としての。まず最初の要石だ」

MACRO ASILO のホームページには、MACROを含む他の市営美術館や文化芸術関連の企画に携わるローマ市、そして文化機構PALAEXPO によりそう宣言されています。

MACRO ASILOの具体的なプロジェクトとしては、15ヶ月の間にイタリア国内外の250人のアーティストがスペース内のアトリエに滞在し作品を創作、400のビデオアートが、エントランスのマキシプロジェクターで流され、滞在するアーティストのために50の部屋が用意されています。また、180回の著名人物による講演、講義、1000回の『現代』という言葉に関する授業、討論会、週末には60のコンサート、さらに900人のアーティストによるプレゼンテーションが予定されているそうで、なるほど、これだけたくさんのプログラムが予定されているのなら、いつ行っても必ずなんらかの出会いがあるはずです。そのほか、本のプレゼンテーションやパフォーマンス、演劇、フォーラムなど数多くのプログラムが予定されています。

 

※8000人の人々が訪れたオープニング。

 

MACRO ASILOのオープニングには、8000人の人々が訪れたそうです。その日の午後、わたしもエントランスに長く続く列に並んで美術館に入りましたが、ちょっとしたお祭りでした。このプロジェクトは15ヶ月間、80万ユーロですべてが賄われるそうで、プロジェクトに参加するアーティスト、哲学者、美術評論家、学者、音楽家はすべて無償で協力、残された何らかの作品をアーカイブしていくのだそうです。つまりこの美術館は「贈与」によって成立しています。

ローマ市の文化機構であるPALAEXPOのディレクターは、「私はデ・フィニスのMACRO ASILOを信頼している。街にはエネルギーを集約する場所が不可欠なんだ。さもなくば、エネルギーが散り散りになってしまうと常に考えていた。もはや公共予算は民間の資本とは闘えるレベルにはない、その公共予算を投じたラディカルなプロジェクトだからこそ、今後は非常に注意深く観察されるだろう」と述べていますが、オープンから4ヶ月が経ち、多くの人々が訪れたMACRO ASILOは次第に成熟、アーティストと市民のための新しい発見と出会いの場、エネルギーの磁場へと、確実に発展しています。

▶︎ MACRO ASILOに参加したい、作品を創作したい、講義したい、とお考えになる日本人アーティスト、現代音楽家、デジタルアーティスト、学者、哲学者の方々がいらっしゃれば、ぜひコンタクトを。インターナショナルなコンタクトは歓迎だそうです。

世界とアート、そしてMACRO ASILO / ディレクター・インタビュー

さてそういうわけで、何回か通ううち、MACRO ASILOという他に類を見ないプロジェクトの背景をもっと知りたいと考えはじめました。そこでディレクターである、ジョルジョ・デ・フィニスにお話を聞かせていただきたい、とリクエストをしたところ、スーパーに忙しい毎日を過ごしてらっしゃるにも関わらず、快諾してくださった。実際にお話を伺いながら、要所要所で「なるほど、そういうことか」とあれこれ考えさせられた次第です。

今の世界をどう定義しますか? そしてアート・文化の世界における役割とは?

「ありふれたことを言うなら、グローバリズムが僕らに約束した、国境なく人や物が行き来する平和で自由な世界は、結局のところ、地球全体に新たな闘争や紛争を引き起こしているよね。金満家はさらに裕福になり、困窮者はさらに貧困に陥る。しかもいつの間にか強大な境界やバリア、壁がどんどん生まれようとしている。そしてその『』というのはつまり、貧困が裕福な世界に入ってこないようにするためでもある。いわば、民間大企業と金融システムの勝利とも言えるかもしれないね。グローバリズムにおいては、国家機構そのものが、それほど重要な役割を果たす、とは見なされていない。さらに国と国の連合、たとえば欧州連合も、実際のところは多国籍の民間大企業の経済システム、金融システムを円滑に循環させるために必要とされている、ぐらいの感じだ」

「僕たちが今日生きる世界というのは、究極的に酷い状況で、しかも極端にエゴイスティックな世界。統計によると、地球上の20億人という途方もない数の人々が、スクラップにされようとしているんだよ。つまり世界に見捨てられているんだ。彼らは世界を循環する資本主義システムからーたとえそれがミクロのレベルであってもーほんの少しも恩恵を受けることが叶わず、経済循環の外に置かれ、たとえば地中海での遭難やADS、飢餓、さらに地域で起こっている過激な紛争に巻き込まれて死にゆく運命にある。そして絶え間ない軍事弾圧、紛争で混乱した地域では、その地域の権力者から利権を得ようと多国籍企業が入り込み、資源と労働力を安価で買い叩いている。というのも、完成された強大な国家を相手にするよりは、混乱したちいさい国々から搾取するほうがずっと簡単だからだ」

「欧州は、といえば、第二次世界大戦、そしてナチズムの恐怖ののちの1989年までは、国連も機能し、戦争の経験を乗り越えて、より強い者たちの弱者に対する優位性、覇権というものを、完全に放棄したかのようだった。ところが現在、その欧州のプロジェクトは完全に崩壊してしまったように、僕には思えるんだ。確かに欧州連合は、裕福で強大な国々という意味では存在しているが、フランス革命、もっと遡ればルネサンス期のヒューマニズムに端を発する人権、民主主義の保護者である、というスタンスは消失しつつある。欧州もまた、ごく少数の経済権力者の手中にあり、それがさまざまな問題を引き起こしてもいる。国家における政治の世界に、ネガティブな感情で人々を煽り立てるポピュリズムが台頭してきたことは偶然ではないと思うよ。僕らはひとりひとり、世界においては何者でもなく、世界には何の意味もないことを知っているから、いつも欲求不満で、ひどく苦しく、危険な状態だ。フラストというものは怒りを生み、恨みを生み、ネガティブな感情を増幅させる」

「では、そんな世界でアート、そして文化はどのような役割を果たす可能性があるか、というと、一言で言えば、Antidotoー解毒剤だと言えると思う。もちろん、そのアートというのはいわゆるアート市場で投機の対象となり、8000万ドルなどという、馬鹿げた値がつくようなものではないよ。そもそもアートというのは人間の生存のためには『不必要』なもので、生存における経済循環には属していない。いわば宗教儀式であるとか、祭礼であるとか、人間のサバイバル本能とは別の次元に属するものだ。僕が『不必要』というのは、それに『価値』を見出さない、ということではなく、経済報酬、つまり少しの労力で多くの報酬を得る、と経済学者たちにデザインされた合理性に根ざしたものではない、という意味だ」

「この経済合理性、というのは、いわば狩猟に行くことと同じで、なるべくエネルギーを費やさずに多くの獲物を得ようとすることだよね。そしてそれは人間特有の性質ではなく、生き抜くために、日々の糧となる獲物を得なければならない動物たちもまた、人間と同じように持つ性質だ。しかしその動物たちが、アートや文化というものを生産することはないからね。したがってアートは『ポトラッチ』、つまり祭りの儀式の贈り物、という世界に属す、人間特有の、生存本能に由来する経済生産を超えた次元にあるAntidoto-解毒剤というわけだ」

「グローバリズムが行き渡った今の時代、世界中の個性というものが均一化、平均化されてしまっていて、ファーストフードをはじめ、僕らの日常の風景を形成するものが、世界中で同じでもある。その均一化した世界で、アーティストたちは、それぞれに普通でない方法を使い、『特異』なちいさい世界を形成していっている。かつては地域によって多くの違いがあり、多くの部族がいて、それぞれが自分たちの世界を持ち、神話を持ち、儀式や習慣を持ち、それがアートであり、文化でもあったが、生物学的差異が消失しようとしている現在、継続的に新しい差異、多様な世界を生み出しているのはアーティストたちだよ。そしてその「違い」「多様性」が新しい世界のヴィジョンとも言えると僕は思う。僕らは、このたったひとつの世界に生きていて、その流れを変えることは、もはやまったく不可能だが、アーティストたちは、その世界にありながら、多様に増殖する新しいヴィジョンを見せてくれる存在なんだ」

現代・同時性ーコンテンポラネオという言葉の定義とは?

「コンテンポラネオという言葉を定義するのは非常に難しい。多くの学者のさまざまな定義があるけれど、ジョルジョ・アガンベンが特に面白い定義をしていて、コンテンポラネオというのは『Presente-現在』ではなく、どこに向かっているかわからない薄暗い状態だ、と言うんだ。つまりコンテンポラネオというのは『今日性ーAttualità』ではなく、ちょっと先の未来のヴィジョンでもあり、ここからは世界の形が見えてはいるが、それは霧がかかった状態というか、いまだ『夜』の中にいる、というか。コンテンポラネオを考えることは、哲学者にとっても、学者にとっても、またアーティストにとっても大切なことだよ」

「そもそもアーティストたちというのは、繊細な感受性を持っていて、その敏感なアンテナで、常にちょっと先の未来を見通しているところがあり、そしてもし、そのアンテナで得た感覚に何らかの引っかかりがあれば、その部分を修正しようとする。したがってアーティストたちなら、未来を修正することができるかもしれない。さっき言ったようにアートが『解毒剤』として機能するならば、アーティストたちはその場に存在しながら、ヴィジョンに少し修正を加え、それを物語り、僕らが住む世界を部分的にでも、よくしていくことができるんじゃないか、と僕は思っている。そしてそれを望んでいるわけだ」

 

MACRO ASILO のディレクター、ジョルジョ・デ・フィニス。写真は以前MAAMで撮影させていただいたもの

MACRO ASILOが『現代と未来の極』となる、という意味

「『現代と未来の極』という定義は、ローマの副市長、そして文化評議員のルカ・ベルガモが選んだものでね。ローマ市は現在、MACROを含めて現代美術・文化のための5つの公共スペースを持っていて、そのスペースを再考するプロジェクトを行なっているところなんだ。MACRO ASILOが、まず最初の実験的で、自由な遊びがあるプロジェクトだったから「極」と定義されたんだけどね。ルカ・ベルガモはアートと文化が街を成長させるという信念を持っていて、MACRO ASILOはそのアイデアでプロジェクトされたスペースであり、文化的であるとともに、政治的でもあると言える。つまり『文化』を政治に使うことで、街を成長させ、暮らしよくしようとしているわけだから。スペースを成長させることにより、ローマという街を、政治の問題に対しても批判的な認識を持てるキャパシティを持つ街にしたいというのが、彼の政治的なヴィジョンだ。

「そもそも僕が考えたMACRO ASILOプロジェクトの原点は、MACROというスペースを、アートと街が出会う、いわば巨大なシナプシスにしたいということだった。ローマのこのスペースで、興味深いことに出会える、いや、ローマだけではなく、アート作品の創作過程、作品そのものを通じて、さらに広く、世界全体を俯瞰するというか。というのも、ここには多くの哲学者、そしてさまざまな、斬新な学説を持つ学者たちをも招くからね。このスペースにはバリアがないんだ。僕らが政治的、文化的、国家的なバリアを好まないように、MACROはバリアを好まない。流動的な世界ではいろんなことができるし、このスペースに境界がないように、考えの間にも境界があってはだめだからね。というか、世界には、そもそもバリアは存在しないものだ」

「MACROを訪れることは、全ての人々が、マイエウティカに招待されているということ(*マイエウティカというのは、プラトンの『テアイテトス』に記されたソクラテスの言葉で、自分は真実を生み出したり、教えたりすることはできないが、産科医のように、他人が自分自身の中にそれを見つけ出し、魂から引き出すための助けをする、という意)。MACROにはいろいろな文化の基本概念や、アイデアはあるけれど、答えはない。つまりこのスペースを出るときには、誰もがスッキリしないまま、多くの疑問と質問を抱えている、という状態を目指したんだ」

「疑問というのは、答えよりもずっと重要だからね。答えももちろん重要だけれど、まず疑問を抱くことが重要だ。僕らはこのスペースで、『すべての人に従順な羊であることを要求する』現在生きている世界に対しての批判精神を刺激したいと思っているんだ。このスペースでは毎月200ものプログラムがあり、その中から好きなものを選んでもいいし、嫌いなものを選んでもいいし、それはそれぞれの自由。こんな美術館のあり方は、とてもオリジナルだと思うよ」

「テレビで毎日繰り返し凶悪なニュースが流され、外界には危険がいっぱいだから、外出しないほうがいいと思わされ、人々は家で孤立、外の世界とクロスしようとはしない傾向にある。さらに政治ときたら、それがあまりに酷いものだから、これじゃ議論する余地がない、無駄だ、と諦めて政治からも人々は離れていってしまう。しかしそれはとても危険なことだよ。そこで僕らはもう一度、皆で頭を働かせながら、心を込めて議論することができるスペースを取り戻そうと思ったんだ。そして公共スペースとは、そもそもそのような役割を持つべきではないのか。アーティストたちは多くの人々が集まる、この美術館で作品を創り、『ほら、わたしが観ているのは、こんな世界だよ』と別の世界を観ることができる、いわば『眼鏡』を提供してくれるんだ」

「MACRO ASILOは新しいプロジェクトだったから、最初は多くの人々が集中する必要があったと思う。無料なので経済的負担はないけれど、わざわざ出かけなければならないし、映画館に行くように楽しむ、あるいは気晴らしで美術館に行こう、というわけにもいかない。というのもここに来ると考えないといけないし、考えることは疲れることでもあるからね。また、他の美術館のように、展覧会の水曜か木曜、18時あたりからはじまるオープニングに一回行けば良いというわけでもない。しかしこの4ヶ月の間に、MACROは安定して機能するようになったと思うよ。まず、人と人が出会い、関係性を提供するこのスペースに来れば、多くのアーティストや知識人がいて、彼らとFace to Faceで話すことができる。そこで人々の間に共感が生まれたり、あるいは違いを知ることになったり、もちろんその関係性を、僕らが予知することはできないが、深い次元で意見を交わせる場所があることはいいことだと思っている。僕らが人間である以上、SNS上でのシグナルのようなコミュケーションより、現実のコミュケーションの方がいいに違いないよ」

ここに来る子供たちに学んでほしいこと

「彼らに感じてほしいのは、『複雑性』ということかな。僕らは表面的にはシンプルな世界で暮らしていて、というのも、僕らにはそれほどたくさんの経済オプション、文化的なオプションがあるわけではないから、行く場所も決まりきっている。米国型西洋文化、というか、みんながたいてい同じような暮らしをして、それがスタンダード化されているしね。しかし現実的にはこの10年間、世界は大変動していて、昔は緩やかな進歩だったテクノロジーが、ここにきて、ほぼ垂直な線を描いて進歩しているという状況だ。人間の文化から考えるなら、大昔は神から物理学まですべてを網羅した『賢者』が存在していたが、すべてを知ることが、もはや不可能な現代ではそんな賢者は存在しない」

「したがって何も知らない僕らは、複雑な世界を泳いでいかなければならない。だからこそ、その場ではまったく理解できないにしても、たとえば黒板に複雑な数式が並ぶ『物理学』の講義を聞くことは意味があることだと思うんだ。少なくとも、もはや僕らはニュートンやアインシュタインの時代にはいないことは理解できるからね。『こんなに知らないことがあったなんて』と人はフラストレーションを感じた時に、何らかの行動を起こす。さらに勉強してみようとか、もっと調べてみようとか、そのような動きは生まれた方がいい。ジグムント・バウマンが言うように、すべてのものが動く、崩壊の危険性もあるこの流動的な世界では、与えられた情報を鵜呑みにしない批判精神が、まず必要だと思うからね」

「いずれにしてもこのMACRO ASILOというプロジェクトを、巨大な布地として想像したいと思っている。僕らひとりひとり、美術館を訪れるすべての人が主人公で、色のついた糸であるならば、美術館をめぐる足跡が横糸になる。ここに戻り、そしてまたここに戻る。たとえば君の色が赤だとするなら、君が動くたびに布地が少しづつ織り上がる。それが15ヶ月続けば、とても豊かな布地が織り上がるんじゃないかな」

MACRO ASILO GUIDE (マクロ・アジーロ・体験ガイド)

MACRO ASILOのそれぞれに役割のあるスペースにはフロンティアがなく、自由自在に動き回ることができる。また、イベントが行われていないスペースでは、読書をしたり、勉強したり、友人となごやかに談笑する人々も多い。

 

では、実際、美術館スペースがどのようになっているのか、というと、美術館には、エントランスであるVia Nizzaと裏口であるVia Reggio Emilia と入り口がふたつあり、また、建物そのものが複雑な造りなので、最初はどの方向に行くべきか迷うかもしれません。しかも壁だと思っていたところに扉があったりして、入ってもいいのかな? と中を覗き込むと、大勢の人が討論、あるいは講義が開かれていたりする。結論から言うと、どの入り口から入っても、館内すべてのスペースに通じていて、例えばイベントの準備中であるなどの注意書きがない限り、どの扉からどの部屋へ移動しても問題はありません。たとえば議論している人々に、何の議論をしているのかを小声で尋ねると、椅子を勧められたりもする。そのスペースで少し議論を覗かせていただいたところで、他の部屋へ移動すると、アーティストたちが作品を前に討論している、という具合です。エントランスのマキシプロジェクターでは、毎日日替わりでビデオアートがループで放映され、椅子に座って鑑賞することもできます。また、エントランスは日によって、パフォーマンスやコンサート、インスタレーションの会場ともなる多目的スペース。土曜には多彩な音楽のライブが開かれ、毎週大変な熱気です。

 

ALEX BRAGAとコラボレーションしたのは、SNSでよく見かける、ちょっと不気味なCGを創る、Instagramで61万人のフォロワーを持つEXREAWEG 。1週間の実験的インプロビゼーションがBlack Roomで行われたあと、締めくくられた土曜のライブは大変な人気で、人、人、人をかき分けて観る/聴く、という具合だった。

Sala della quadreria (収集絵画の大広間)

エントランスから入ってすぐの大広間には、MACROが美術館としてそもそも持っていた、今まで大切に収納されたままになっていたコレクションを、巨大な壁面に一堂に常設。市民の公共財産でもある美術館のコレクションを、訪れる人々がいつでも観ることができるようになっています。この項のタイトル写真に使ったのは、その大広間の写真。コレクションを注意深く観ているうちに、このサイトで以前インタビューさせていただいたサルヴァトーレ・プルヴィレンティの絵も見つけました。その絵画群の前には巨匠ミケランジェロ・ピストレッティがこの広間のために創作した、鏡をはめ込んだ『テーブルの中のテーブル』が置かれ、イベントが行われる際は、その幾重にも円が重なったテーブルの周りをぐるりと椅子が囲んでいることもある。このサロンでフォーラムや会議、ミーティングなども開催されるそうです。そういえば、オートクチュールのショーが開催されたこともありました。

 

タイトルの写真はこの大広間の写真ですが、そこに置かれているミケランジェロ・ピストレットの作品、『テーブルの中のテーブル』には一堂に並ぶコレクションが映り込み多元的。

 

Ambiente アンビエント#1~#2

アンビエントと名付けられた広いスペースでは、招かれたアーティストが1ヶ月をかけて、そのスペースで作品を創作しながら、同時に作品のコンセプトに関するカンファレンスやパフォーマンスをほぼ毎日繰り広げます。わたしが何回か参加したのは、パオラ・ロモリ・ヴェントゥーリの「Rovesciare(ひっくり返す)」という哲学的でもあるプロジェクトでしたが、これは戦後、イタリアに物資が乏しかった時代、「着古した男性のスーツを解き裏返して、痛んでいない裏側の生地を使って女性の洋服として縫い直した」というエピソードを基に、表地から裏地、男性から女性、と現実をひっくり返していくというプロジェクトでした。世界地図のフロンティアをも、生地を縫い込みながら「ひっくり返し」、「裸の王様」の寓話を「ひっくり返す」ことで再生。「ひっくり返す」ことは、そもそもクリエイティブで、新しい視点で物事を再生させる、ダイナミックなアクションだ、というコンセプトでラボが構成されています。

スペースでは、プロのテーラーである女性が時間をかけて、男性の軍服を解き、パターンを変えて女性のスーツに仕立てる中、ファッション批評家の講義やミーティング、ジャズのインプロヴィゼーション、ワークショップなど数々のイベントが開かれ、子供たちも参加しました。

 

行くたびに新しいRovesciare(ひっくり返す)に出会う、ロモリ・ヴァントゥーリのアンビエント#2。

 

Atelier アトリエ #1~#4

MACRO ASILOで、最もエネルギッシュで、ダイナミックな動きがあるスペースが、まったく同じ広さ、同じ造りになった4つのガラス張りのアトリエ。ここでは毎週4組のアーティストが、火曜から日曜までの6日間、実際に作品を創作するライブに立ち会うことができます。もちろん、アーティストにもよりますが、たいていはアトリエの中に招き入れてくれ、作品の創作プロセスやコンセプトの詳細を話してくれる。創作というのは集中を要する仕事なので、観客がいるとやりにくいのではないのか、とも考えましたが、意外と外界の干渉に邪魔されることなく、アーティストたちは淡々と作業に集中し、手が開いた時に、やはり淡々と話してくれるという感じです。

また、アーティストと実際に会って、言葉を交わしながら作品を鑑賞することで、観ている作品の別の側面も浮き上がり、理解が深まると同時に違う疑問も湧いてくる。単純に作品を観るだけで、その世界観が広がることもありますが、その背景を知ることでアーティストにも作品にも親しみが湧き、アートそのものがもっと身近に感じられるかもしれません。いずれにしても、創作の現場というのは道具が散らばったり、布が丸めてあったりと、とにかく面白い。前々から実際の作品を観てみたいと思ったアーティストと話すこともでき、創作期間が1週間と、比較的循環が早いアトリエを何度も訪ねるうちに、多くの作品とアーティストとの出会いから、「これは面白い!」と感動する瞬間があります。

 

※1月のアトリエを、わたしもいくつか訪ねましたが、MAAMにも作品があるヴェロニカ・モンタニーノの作品の細部の緻密さと、遠くから見たときと近くで見たときの印象が大きく異なるのに興奮しました。また、本物の兎の毛皮(イタリアでは兎を食肉にするので、そのあとに残った耳や尻尾)と植物をアレンジするキアラ・レッカの作品は、自然に隠れたじわっとした恐ろしさを垣間見たような奇妙な感覚で、それが体感として強く印象に残っています。

Auditorium (ホール)

この美術館の中で、最も目立つデザインの真っ赤なホールでは、映画の放映やカンファレンス、会議、あるいはアーティストたちのAutoritratto( 自画像)と名付けられたプレゼンテーションが開催されています。席は区切りがなくゆったりしていますが、人気のあるプログラムだと早めに行かないと立ち見になるか、中にも入れない、という状況にもなる。2月のプログラムでは、Reaction Romaが主催した刑務所での受刑者が、写真とともに想いを語る、サイコドラマのようなドキュメンタリーを観ましたが、その時も満員でズラッと立ち見が並ぶという盛況でした。このホールの天井の上は周りに座る場所がある真っ赤な広場になっていて、普段は子供たちが走り回って遊んでいるのに遭遇したりします。

 

Auditoriumの内部はエナメルのように輝く赤で統一され、会場に熱気が溢れるとともに、エネルギーが倍増される。

Foyer(美術館広場)

天井がガラス張りのシャープなデザインの広場では、インスタレーションやダンス、パフォーマンスのプログラムが行われます。広場でプログラムがない天気のいい日は、人々が行き交い、椅子に座って談笑したり、本を読んだり、となごやかな風景。この広場があるせいで、美術館全体が明るく開放的で、風通しのよい印象です。さらに階段を上がっていくと、広々としたテラスがあり、ガラス張りの天井から館内が一望できます。

 

美術館広場のガラスのインスタレーションは、その場で制作され壮観な風景となった。

Area Incontri(ミーティングスペース

ここでは毎朝、ヨガ、太極拳、気功などのレッスンが行われますが、アーティストも観客も誰でも参加でき、ここから美術館の1日がはじまる、というスペースです。

そのほか、Laboratorio(ラボ:学生や観客のためのワークショップスペース)、Sala Lettura( 朗読ルーム:新刊のプレゼンテーションや本の朗読が開催されるスペース)、Progect room(1週間から2週間、パフォーマンスなどがプロジェクトされる部屋)、Stanza delle Parole(言葉の部屋:『現代』という言葉の定義に捧げられたスペースでは、セミナー、討論会が開かれる)Sala Rome (ローマの部屋:ローマの地図が巨大なテーブルとなったスペースでは、ローマの街に関する討論が開催される。ローマのさまざまな側面が討論されるため、通常はRomaと単数で表現されますが、ここではRomeと複数となっています)、Media Room(Webラジオセットが置かれている)など、多種多様なスペースでMACRO ASILOは構成されている。また、隅々まで充実したアートブックショップでは、MACRO ASILOのノートや鉛筆などのグッズ、MAAM関連の本など、ここでしか手に入らない本も置かれています。もちろん、かなりお洒落なカフェやレストランも完備。

ローマにいらっしゃる際は、ぜひ覗いていただきたい、他に類を見ないコンセプトを持つ、『公共』スペースです。

 


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