『鉛の時代』:その後のイタリアを変えた55日間、時代の深層に刻み込まれたアルド・モーロとその理想 Part1.

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矛盾

そもそも『赤い旅団』は、工場労働者、農民など、低賃金で過酷な労働を強いられ、搾取され続ける社会的弱者の窮状を知り、義憤に駆られた若者たちが「共に闘おう」と結成したグループです。確かに彼らの理想は、西側にあっては、もはや時代のコンテクストにはそぐわない「武装革命」「プロレタリアートによる専制政治」ではありましたが、自分たちこそがイタリア共和国を建国したパルチザンの魂を受け継いでいる、と自負もしていました。

たとえば、そもそもエミリア・ロマーニャの『イタリア共産党』の青年部に所属し、祖父が『イタリア共産党』結党メンバーのひとりでもあるアルベルト・フランチェスキーニは、野山を駆け巡ってファシストを駆逐した、レジスタンスの伝説的英雄ジャンバッティスタ・ラザーニャから、その闘いで使用したピストルを手渡されたとき、「レジスタンスを受け取った」と語っています。

とはいえ、武装グループであるはずの『旅団』の創立メンバーは、武器との相性はなはだ悪く、「ピストルを打つと自分の足に当たって危なかった」とも付け加えている。

したがって、あまりにプロフェッショナルな銃撃によるファーニ通りの殺戮が起こった朝、すでに刑務所に入っていた、レナート・クルチョをはじめとする創立メンバーたちは、「まさか。何かの間違いだろう。『赤い旅団』ではなく、別のグループに違いない」、と考えたそうです。

そしてこのように、武器とは相性が悪い『旅団』創立メンバーが、「別のグループの犯行」と考えるほど、完璧オペレーションののちに誘拐されたモーロは、モンタルチーニ通りのアンナ・ラウラ・ブラゲッティ名義のアパートの書棚の裏に作られた、ベッドがようやくひとつ入る、2m×90cmの「人民刑務所」に、55日もの間、監禁されていたことになっています(82年にオフィシャルに発表)。しかし現代では、おそらくモーロはローマ市内、あるいはローマ近郊の何箇所かの拠点を移動したであろう、というのが、大方の見方です。

というのも5月9日、カエターニ通りで発見されたモーロの遺体は、うっすらと日焼けしており、司法解剖の結果、骨や筋肉の状態も、2ヶ月近く日の当たらない狭い部屋に閉じ込められていたとは思えない、健康な状態だったからです。また、肺にはモーロが煙草を吸っていた形跡が認められ、窓のないモンタルチーニ通りの狭苦しい部屋であれば、1本煙草を吸っただけで息苦しくなるはずですから、換気が可能な場所で、監禁生活を送っていただろうことが推測されます。

なお、「人民裁判」と称するモーロと『旅団』の対話において、尋問者とされるマリオ・モレッティは、「モーロを世界で最も大切な人物のように扱った」とロッサーナ・ロッサンダのインタビューで語っており、政府がモーロの要請をことごとく拒否した経緯には「気の毒だった」と同情し、モーロに対しては、憎しみよりもむしろ好意、あるいは尊敬の念を抱いているかのような印象さえ受けるほどです。

さらには、他のメンバーとの会議が長引き、尋問ができなかったある日、見張りのプロスペロー・ガリナーリに「今日は彼はやってこないのかい?」と、モーロがモレッティのことを尋ねた、というエピソードを、嬉しそうに、どこか自慢げにも語っています。

つまり、オフィシャルな「モーロ殺害犯」とされるモレッティの、インタビューにおけるモーロを評価する発言はきわめて自然であるため、おそらくその言葉に嘘はないのではないか、と思うと同時に、このような感性を持つ人物に、はたしてモーロを殺害することが可能であったのか、との疑問が湧いてくるのです。

なおモレッティは、モーロが尋問に応じて(「メモリアル・モーロ」ー後述)答えた内容の論点がまったく理解できず、「われわれを苦悩させた」とも語っていますが、モーロは冷戦下、世界を覆う二項対立のシステムを、『イタリア共産党』との握手というミクロの合意を起点に、一気に切り崩そうとした人物です。前述したように、パースペクティブの規模がはるかに大きく、世界を観る目が『旅団』とは異なっていました。

ところでレオナルド・シャーシャは、「ソッシ司法官が『人民刑務所』の囚人であった時、彼らはリゾットを用意していた。この家庭的で、主婦のもてなしのような料理は、残酷な現実にそぐわず、コミカルにすら感じる。しかしそうではなく、むしろ『赤い旅団』の(ソッシ事件と)『モーロ事件』との間の一貫性のなさ、そして混乱を説明しなければならないのだ」と書いています。

モレッティのインタビューを読んでいると、ソッシ司法官同様、モーロもまた『赤い旅団』の「人民刑務所」で大切な人質として、メンバーの手作りのリゾットなどが振る舞われ、ある種家庭的な環境下で監禁されていたのではないか、と想像されます。また、「ここにいるほうが健康的だ」、とモーロが「皮肉を込めて冗談を言った」とモレッティは話しており、それはベッドが一台あるだけの2m×90cmの人民刑務所に閉じ込められ、拷問を受ける人物が言う冗談とは思えません。

つまりシャーシャが指摘した「一貫性のなさ」は、事件の背景の違いから生まれているのだと思います。『旅団』が単独で起こした「ソッシ誘拐事件」と、『グラディオ/ステイ・ビハインド』、『ヒペリオン』、『秘密結社ロッジャP2』、ピチェーニック、そして政府、政党が介入し、55日間もの時間をかけて創出した、国を揺るがす完璧な悲劇である『モーロ事件』は、同じ『旅団』による誘拐でも、規模、そしてその意図が大きく異なります。

1974年、トラムに乗ろうとする、ひとりで行動していたソッシ司法官を誘拐する際、『旅団』は18人のコマンドで犯行に及んでいますが、ファーニ通りで5人もの武装警護官瞬時殺戮し、モーロを誘拐したコマンドは、たったの11人(1990年の9人説からのちに11人、あるいは12人となっています)でした。

前項にも書きましたが、そのコマンドの中には、野山やアパートの中庭で銃撃の練習をするぐらいで、特殊訓練を受けたメンバーはひとりも存在せず、創立メンバー同様に武器とは相性が悪く、ヴァレリオ・モルッチは「銃撃の途中でミトラ(軽機関銃)が詰まって、急いで弾を入れ替えた」と語っています。しかし120秒の間に、だいたいそんな余裕はあったのでしょうか。

 

※1976年、第2次モーロ政権時代のローマの市民の暮らし、社会状況を撮った、ウーゴ・グレゴレッティによるドキュメンタリー。バラックから公団へ移動する人々や、廃墟を『占拠』する人々、フェミニズムの台頭など、時代のライブが記録された、貴重なフィルムです。

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