巡る世界を創る女性アーティスト・デュオ Grossi Maglioni

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常に吹き荒れる社会の逆風をものともせず、果敢に、しっかり未来に向かって歩く女性たちを、わたしは殊更に好ましく感じています。日本における、女性たちの個性と自由を阻む社会環境と偏見もさることながら、多少の改善はあるとはいえ、イタリアにおける女性たちを取り巻く社会のあり方もかなり苛酷。幼い子供を育てながら、刻々と流動するインスタレーションをプロジェクト、まさに「現代社会をコンセプチュアルに表現した」ふたりの新進女性アーティスト、Vera Maglioni (ヴェッラ・マリオーニ : 左)、Francesca Grossi (フランチェスカ・グロッシ : 右)のワークショップに参加、話を聞きました。ふたりはフェミニストです。

わたしがこの、ふたりの女性アーティストを何より興味深く思うのは、アート活動をはじめて以来、デュオ、つまりふたり一組のスクラムで作品を創り続けていること。1982年にローマに生まれた同じ歳の彼女たちは、そもそも家族同士が友人。ほぼ生まれた時からの付き合いなのだそうですが、もちろんその友情は理解できても、仕事の性格上「自己中心的」にならざるを得ない、協調がなかなか難しいアーティストの世界で、10年を超えるデビュー時以来「ひとつの作品」をふたりで創り続ける、というスタイルは特異なケースではないかと思います。

しかも、それぞれは互いに違う人生を歩み、グロッシは中国、マリオーネはフィンランド、ミラノに長期に渡って滞在していた時期もある。しかし物理的な距離のあるその期間も、彼女たちはほぼ毎日、ネット上でコンタクトを取り合い、リサーチやアプローチ、表現の可能性を探っていました。現在では、それぞれにパートナーがいて、グロッシは2歳、マリオーニは8歳の子供を持つ母親でもあります。このようにプライベートではまったく違う生活を送りながらも、デュオのスタイルを崩すことなく精力的に作品を創り続けている。実際、作品に向かう際、意見の食い違いから緊張する場面があっても、毎回時間をかけて、ふたりとも納得するまで、議論を繰り返すと言います。

 

展覧会初期のインスタレーション。屋根の形に貼られたロープで構成されたシンボリックなあばら家は、キリストの誕生をイメージさせる住居のアーキタイプ。写真提供:AlbumArte

 

絵画、ビデオアート、パフォーマンス、音楽など、コンテンポラリーアート全般に渡ってエキジビションを展開するアートスペース、フラミニオ通りから入る路地の閑静な場所にあるAlbumArte。そのオーガナイズが行き届いた、温かみのある心地よいアートスペースで、2月末から2ヶ月間に渡って開かれている『Campo Grossi Maglioni(カンポ・グロッシ・マリオーニ)』は、ヴェラ・マリオーニとフランチェスカ・グロッシの10年を超える仕事の集大成。デビュー当時から彼女たちは、社会的、政治的なテーマを、文化人類学、科学、さらには魔術的な、疑似科学のリサーチを繰り返しながら深めていき、その帰結としてパフォーマンス、インスタレーションで作品として表現、ファミニストのスタンスから作品を創ってきました。さらにそれらの作品は、政治的に厄介な問題に照準が定められることも多い。今回の展覧会は独立した作品としても機能するdispositivi(装置)が多数使われ、観客をも巻き込んで、有機的で躍動感のあるインスターレーションとなった。

 

20世紀末の西洋社会において、ポストモダンのコンセプトを明白に定義した、1900年代が生んだ偉大な社会学者ジグムント・バウマン。彼の思考の基盤のひとつに、我々が生きる社会の政治的、経済的、文化的現象の性格を分析し導かれた『流動社会』というコンセプトがある。(略)グロッシ・マリオーニの作品には、バウマンの現代社会の熟考から演繹された結論に似た緊張が見られる。しかもそれらには、社会学的、考古学的リサーチに基づいた文化現象の分析だけではなく、彼女たち独特の、詩的ともいえるリサーチと確認のプロセスが、細部に渡って念入りに表現されているのだ(Gianluca Brognaー展覧会キュレーター)。

 

Campo Grossi Maglioniと名づけられたこの展覧会、ワークショップに実際に参加して、強く印象づけられたのは、まさにこの『流動性』でした。というのも、Occupazione(占拠)、Lo Sguardo che offende (侮辱する視線)、 Macchina Dematerializzate e Gabinetto Spiritico per l’apparizione di corpo dispersi ( 非物質化した機械と、消失した身体を具現するための降霊術の小部屋)の3つのタイトルで表現されたインスタレーションのうち、 『占拠』をテーマとしたスペースの展示は、テント、マットレス、ロープ、リング、三種のファインダー、石など、インスタレーションを構成するエレメントは同じまま、決してその形が固定されることなく、観客が参加するワークショップも含め、時間とともに大幅に再構築され大きく変化。まったく違う形の作品が、流動的に生まれ続けるからです。

 

上の写真のインスタレーションが時を経て、GrossiMaglioniオリジナルのファインダー、ロープの森へと変化。写真提供: AlbumArte

 

例えばわたしが参加したワークショップでは、女性の建築家、絵画修復師が加わって、グロッシ・マリオーニが提示した物語のフィナーレとして『集落における集会の場のアーキタイプ』を創るという課題で進行。たまたまこの日のワークショップの参加者は女性ばかりだったので、ハーモニーのあるしなやかなエネルギーの中、素早く、合理的に、3時間ほどでインスタレーションを再構築した。アイデア出しの段階から実際の作業まで、皆がのびのびと自由に意見を述べ合い、それぞれが工夫して進むプロセスは、時間を忘れるクリエイティブで刺激的な経験でもありました。

また、鑑賞者として作品と対峙する場合、クリエーターの世界と鑑賞者の世界は、「作品」という媒体を通した感覚的な融合から一体感が生まれますが、「鑑賞者」が創作のプロセスに巻き込まれ「クリエーター」の一部となり、作品ができるまでのプロセスを「生きる」ことは、全身の躍動を伴う、文字通り「作品と一体化」する体験。グロッシとマリオーネが提案したこの創作プロセスを、わたしはとても寛大でおおらかだと感じた。実際、今回の展覧会は、そのアイデアに高い評価を受け、多くの人々が訪れ、インスタレーションに関わっています。

Campo Grossi Maglioni(カンポ・グロッシ・マリオーニ)、展覧会のタイトルの由来

はじめてこのタイトルを聞いた時、そんな時代に突入したのでは、という個人的な懸念を抱いているせいか、 Campo di Battaglia (闘いの場)、つまり「戦場」を連想したのですが、改めて彼女たちにタイトルのコンセプトを尋ねてみると、さらに包容力のある、『社会』の次元をシンボライズする答えが返ってきました。

「イタリア語の『カンポ』という言葉には、多くの意味があるでしょう? もちろん、銃のファインダーを連想するオブジェを使うインスタレーションをしているから、「戦場」も連想できるし、そのコンセプトをも孕んでいることは確かだけれど。しかし『カンポ』はそもそも野原、競技場、畑、つまりさまざまなことが行われる、単純な『場』、アンビエントという意味がある。キャンプ、例えばノマドのキャンプなど、『野営』をも意味するわよね。分野、フォールド、という意を指す場合もあるし。また、ヴェネチアなど北イタリアの都市では、例えばカンポ・ミラーコリなど、私たちがピアッツァと呼ぶ『広場』をカンポと呼ぶ。私たちはつまり、このスペースを、たくさんの人々が集まって、変化が起こるカンポ −『場』にしたかったの。さらにその『場』を体験することで、人々の内面に微妙な変化が起こると素晴らしいとも思っている。その『カンポ』に私たちの苗字、グロッシ、マリオーニをつけてタイトルにしたわけ」(マリオーニ)

「アーティストとして私たちは状況を提供するのみ、つまり創造のためのコンディションを整えるだけだと考えている。あとは人々と一緒に、今ここにあるインスタレーションを常に流動させる。そしてそれが一番大切なことだと思っているのよ。つまり科学者たちの実験と同じように、この場に化学反応を起こし続けていきたいということ。科学者というのは、何らかの化学反応を起こすために必要なコンディションを作る。マテリアを用意し、温度、湿度、時間など環境を整え実験に挑むわけだから。私たちもいくつかのdispositivi−装置、仕掛けを用意して、毎回、実験的なメソッドを通じて作品を作っていこうと考えている。装置は常に同じエレメント、ロープで構成された小屋、マットレス、テント、石・・・・。そして私たちが創ったオリジナルの三種のファインダー、それがマテリア」(マリオーニ)

「プロジェクトは大きく分けると3つ、『武器/戦争』、『避難/居住』、そして『魔術/幻想』というテーマから構成されているの。『武器/戦争』に関しては、人間と風景の関係を長い間リサーチすることから生まれたテーマ。かつてバジリカータ州のマテーラに滞在、人間と風景の関係をどのような視点から見るかをリサーチしていた時に生まれたプロジェクトよ。マテーラの風景の中、ただ風景を受動的に受け入れるだけでなく、能動的に観察することは、重要な何かをそこに反映させることでもあると感じた。マテーラの洞窟住居はユネスコに世界遺産として登録された、いまや一大観光地となっているけれど、そもそも非常に複雑な、退廃的とも言える歴史を持った石の街で、視界に飛び込んでくるのは、ほとんど荒廃、あるいは蹂躙されたホラーな風景よ。打ち捨てられた石の廃墟と言ってもいいわ」(グロッシ)

「一定の距離を保ってマテーラを見た場合、まるで爆撃されたあとの街の残骸の街、という印象を私たちは抱いたわけ。そもそも美しいと紹介される風景には、二重の視点が隠されている。それを感じたあと、風景との関係における人間の葛藤、つまり闘いの可能性をリサーチしはじめ、プロジェクトに発展させた」(グロッシ)

「そうね、イタリアの風景を考古学的に観た場合、どの地域に行っても、大きな衝撃を受ける遺跡が残っていることは明白よね。しかしそれらは確かに重厚でスペクタクルではあっても、ほとんどが、闘い、葛藤の証言、あるいは恐ろしい出来事の記憶を宿す遺産でもある。ローマのシンボルのコロッセオだって、人間同士の殺し合い、野獣と人との死闘を見世物にする場所だったわけだしね。現代、世界の各地で戦争が終結せず、破壊され、爆撃が繰り返された地域の『ディストピア』、蹂躙された風景が、メディアやSNSで流れているけれど、マテーラを観る視線を深めていくと、同様のディストピアが浮かんでくる」(マリオーニ)

実際、ふたりが言うように『ユネスコの世界遺産』のタグがつけられ、風景にフィルターがかかると、その風景が過ごした陰惨な時間や歴史の凄まじさにまったく反応できなくなることがあります。オーソリティが「美しい」「重要」と定義したものを我々は無条件に受け入れ、自らの体験以前に、「これは美しい、重要な風景だ」と先行してイメージを固定させ錯覚、リアリティとしての自らの感受性を閉じることが往々にしてある。

 

※Lo sguardo che offendeー侮辱する視線をマニュアル化したマスクと本のセット。

 

個人の記憶を超えたもの。空間の記憶、身体の記憶、時間の記憶。

「一方、『避難/居住』プロジェクトは、今回のインスタレーションの『Occupazioneー占拠』に強く連携している。ロープとリングを使って、このスペースにあばら屋の屋根の形を表現しているのだけれど、カトリック世界で成長した私たちにとって、このあばら屋の屋根の形はイエス・キリストの誕生をイメージするイコノグラフィー、それに住居のアーキタイプでもあるわ。そもそもこのプロジェクトは、ローマ郊外の地域の『占拠』の循環をリサーチして生まれたものなの。個人的な記憶から生まれた発想なんだけれど、子供が遊ぶ公営の体育館が、ある日東欧からの移民の人々に占拠されて、子供たちは別の体育館に行かなければならなくなった。するとそこで今度はアフリカからの移民の人々にその体育館が占拠されてしまった。また子供たちは他の場所へと追われたんだけど、最後はイタリア人に占拠されてしまったのよ(笑)。それらの占拠のせいで、子供たちはノマドのように転々としたわけ」(マリオーニ)

「その経験がずっと記憶に残っていて、あるスペースからパフォーマンスを依頼されたことをきっかけに『占拠』をリサーチをしてみると、実際、その地区には何百年も前からさまざまな占拠の歴史があった。例えばワインを作るフランス人の僧侶たちに占拠された時代があったり、1400年代には反教皇運動が起こり、橋の下の茂みを当時の運動家たちが占拠したり、ファシズム時代、プロテスタント教徒たちは政権に禁止された儀式を行うため、密かに洞窟を占拠していたり。そんな歴史をリサーチしながら、では、これら全ての『占拠』をひとつのレベルで表現しようと考えたことがきっかけ。そういうわけで薄暗い閉ざされたスペースに私たちが創りたかったのは、最小限のエレメントを使った『占拠』、原始的な住居のアーキタイプなの。ある意味、私たちはみんなrifugiati−避難民よ」(マリオーニ)

 

ファインダーの森のインスタレーションの中で行われたワークショップは、アカデミア(国立芸術大学)の学生たちが多数参加して熱気に包まれた。写真提供: AlbumArte

 

「もうひとつのテーマ『魔術/幻想』プロジェクトで、私たちが長年取り組み発展させているのは、見えないものを探し求める作業、そしてそこが全ての原点。個人の記憶を超えた、空間の記憶、身体の記憶、時間の記憶を掘り下げていくことが、私たちには必要なことだった。感じるけれども、見ることも触ることもできない感覚。そしてそれは、私たちがさらに発達させ、鍛えるべき感覚だと考えているわ。その感覚に私たちは欺かれるかもしれないし、あるいはなんらかの情報が与えられるかもしれないけど、確実に、どうにも説明できない感覚が存在しているでしょう? 私たちはその見えないものに名前、実体を与えたいと思っているの。科学にだって説明できない要素があり、未知の現象に対する疑問があり、それを追求して答えを探していくメソッドで発展していくのだから、私たちも科学のように、それを追求して答えを探すプロセスを作品で表現したいと思うの」(グロッシ)

そもそものグロッシ・マリオーニのアート活動は、この『魔術/幻想』をテーマにしたパフォーマンス・アートから出発しています。その際、まずパフォーマンス・アートが何から発生したのか、背景を研究、自分たちのテーマとの連結点を探る作業から始まったのだそうです。演劇的なものにするか、テレビのプログラム的なものにするか、ダンスで表現するか、さまざまな表現を模索しながら、メデュウム(霊媒)、ピンナップガール、ウエイトレスの衣装などをまとってパフォーマンスを構成。今回の展覧会でも会場のスペースの一角には、マルチメディアを使い、セクシーな魔術師に扮したグロッシが、無機的に、休むことなく、熱意のない官能をパントマイムで表現する映像の傍、メディウムの魔法陣をシンボリックに表現したオブジェが設置されています。また、手を突っ込むと、生温い感触のヴァギナを模した穴、という衝撃も用意されていた。

長い時間発展させてきた、この『魔術/幻想』のプロジェクトは、社会の女性イメージへの挑戦でもあり、女性として、パフォーマーとして非常に重要なものだった、と彼女たちは口を揃えました。

 

魔術/幻想がテーマの一角。ZigZag womanと題されたインスタレーション。

 

「私たちのアートのポジションはいつも『批判』、社会へのクリティックな態度であり、紛れもないアンタゴニズム。観衆は、いつも女性アーティスト、パフォーマーに彼らのイメージする女性の、スペクタクルなセクシーさを要求するじゃない? だから私たちはその期待をすっかりぶち壊したかった。鶏肉を鶏の羽で縫ってヴァギナに見立てて、それに手を突っ込ませる、というようなことをしたりね。まあ、私たちは若かったから、あれこれ夢中で走ったけれど、他の女性アーティストたちからは大きな共感を得ることができたわ。それにヴァギナをテーマに作品を創るということは、自分が何処から来て、どういう生き方をすべきか、ということを理解させてくれることでもあった」(マリオーニ)

自らの持つ身体と対峙することから生まれたフェミニズム

「私たちの考える『femminilitàー女性性』というものは、社会と女性の関係を熟考して、論理的に導き出して表現したわけではなく、自分の持つ身体と対峙することから、自発的な表現として生まれてきたものよ。そもそもパフォーマンスからアートの世界に入ったわけだから、まず自分の身体と向き合わなければならなかった。ヴァギナに関する議論も、そこから始まっているのだけれどね。やがて時間が経って、アーティストとしても、女性としても自分を取り巻く環境が変化を遂げ、子供も産んで、家庭も持ったけれど、この環境の変化もまた、女性アーティストであるための実験的なプロセスだ考えているの」(グロッシ)

「通常、『アーティスト』というと、誰もが男性をイメージするわよね。実際にほとんどのアーティストは男性だから。近代のイタリアのアートの世界に重要なポストを占めた女性アーティストが存在しないのも問題だわ。確かにCarla Lonzi (カルラ・ロンツィ)がフェミニズムのアートムーブメントを起こして女性アーティストのグループを作ったこともあったけれど、残念ながらそれは失敗に終わっている。イタリアのアーティスト、つまり男性アーティストたちということだけれど、600年代からボヘミアン・アーティスト、そして現代までの彼らはみんなエゴイストで傲慢、そして自己中心的な傾向があるわね。私はアーティストであるために彼らのようであるべきだ、とは全く思わないの。幸運なことに900年代から多くの女性アーティスト、特にパフォーマンスの分野に多く現れたけれど、男性アーティストは議論ばかりでなかなか前に進まない(笑)。女性アーティストは変化する肉体と対峙しなければならないわけだから、身体を素材としたアートとは親和性があるし、子供を持つことで自分の身体の次元が変わることを知っていて柔軟性がある。それに女性は妊娠の間、エゴの自己主張をいったんコントロールしなければならないし、いつまでも傲慢で自己中心的でいることができなくなるのよ」(マリオーニ)

 

集会の場のアーキタイプを創るワークショップで。

 

子供を育てながら、アーティストであることは実験的なプロセス

「子供を育てながらアーティストであり続けることは、正直、とても難しい。かなり厳しい状況で、ほとんど不可能だと言ってもいいくらいよ。実際には、子供が生まれる以前よりさらにエネルギッシュに活動しているけれど、諦めなければいけないことが多いわよね。他の土地へ仕事に行かなくてはいけない時も、アーティストは単独で移動する、と想定されているから、家族と共に滞在するレジデンスを用意されることがなく動きが取れない。アーティストは自分の生活、家族を持つことができないような社会の空気は馬鹿馬鹿しいことだと思うわ」(グロッシ)

「それにイタリアでは、そのような状況に異議を投げかけるムーブメントも何も起こらない。私たちイタリアの女性アーティストが集まって議論しないのもよくないことだわ。女性アーティスト同士、もっと交流を深めて、対策を考えていく必要があるわね。私たちに関して言えば、デュオで作品を作っているから、常に議論しあうことができているけれど。実際ふたりで作品を創るということは、色々な困難があっても、状況に対処していくことが可能になるから、とても心強いことよ」(マリオーニ)

「そうね、デュオで活動できることは、とてもラッキーなことだわ。それぞれの妊娠、出産の間に、一方がプロジェクトを進めることができるし、互いが互いの空白を補い合うことができるから。アートの世界というのは、産休を取れば、あっという間に今までのキャリアがなくなってしまう、と言ってもいいぐらい、露骨に厳しい世界で、以前の存在感を取り戻すためには、大変な努力をしなければならないの。だから私たちのようにデュオで活動するのは、非常に有効。デュオであることが私たちのキャリアを守ったとも言えるかもしれないと思うわ」(マリオーニ)

「子供がいて、ほんの少し嫉妬深いパートナーがいても、アーティストであることは諦めたくないからね。それにアーティストは何の保証もない仕事で、実際、社会的には仕事としては認識されていないから、強く、勇気をもって継続していかなければならない。私たちがあまり仕事に集中すると、それぞれのパートナーは、ちょっぴり苦悩するみたいだけれどね(笑)。無視されたような気持ちになるのかもしれないわ」(グロッシ)

 

インスタレーションの一角。Lo sguardo che offende (侮辱する視線)のマニュアルの隣の部屋では、武器に見立てた仕掛けを使って、グロッシとマリオーニが闘いのフォームをパフォーマンスするビデオインスタレーションが流れる。

 

フェミニストの視点から、社会に望むこと

「まず、子供の教育のこと。学校は何より文化的であるべきだと思うわ。未だに母親は家にいて、家事をしなければならない、と思い込んでいる家族もまだ社会にはたくさんいるから、変化しつつある社会の基盤を、学校は子供達にしっかり教育しないといけないと思う。母親がいつも家にいて、家事と子育てだけをする、なんていう状況は、もう現代社会には適合しない。現実とはまったく相反するステレオタイプが未だに社会に蔓延っているのは時代遅れよ」(マリオーニ)

マリオーニは、8歳の息子がすでに明確な自分の意見を主張することに意外だと思うことがあるそうです。最近の子供たちは、大人が考えるよりも、ずっと先を行っている、と感じると言います。例えば彼はカトリックの『教会』のあり方に異議を持ち、「自分は絶対に洗礼を受けないし、教会にもいかない」と強く主張している。子供たちは、政治的な話や社会的な状況などを、もちろん深くは議論することがなくとも、すでに知識は持っていて、友達同士で会話を交わしているようだと驚いていました。また、その息子さんは仏教に輪廻思想があることを知って、仏教徒になりたがっている、とも笑っていた。

イタリアの社会は、法律に反しない限り(少し反することもありますが)個人の自由、またそれぞれの個性を許す懐の深さがある社会で、親と子供の話し合いは行われても、親が子供の意見に強く立ち入り、その考え方を無理やり押し付けようとすることは稀のように見受けられます。しかしその放任主義的な風潮が学校の「いじめ」や差別につながることにマリオーニは危惧を抱いていました。したがって年々移民が増え、学校にも多くの移民の子供たちが通うようになり、ここ10年、20年で大きく変わった社会の状況に合わせて、学校の再整備が何より必要だと彼女たちは考える。

「それから相変わらずの女性イメージの流布ね。テレビにはいまだにピンナップ的な女性が多く出演して、人々にこれこそが女性のあるべき姿だと印象づける。それはステレオタイプの、男性が御しやすそうな、あまり議論しなさそうな可愛くセクシーな女性。そのイメージには本当にうんざりするわ。また同様にマッチョな男性イメージにもうんざり。男は強くて、どんな状況をも解決しなければならない、というマスキュリンなステレオタイプのイメージも、今後は議論の俎上に載せなければならないと思う。イタリアの男性は、見かけは優しそうでフェミニストのようでも、家庭に戻ると自分中心的にあれこれとパートナーに注文をつけ、采配を振るいたがる人物が多いの。彼らにとっては、自分の中にあるフェミニンな要素ともっと仲良くして、社会の状況を理解するのが一番の課題。私たちはパートナーに恵まれていて、ちょっとした衝突や議論はあっても、家事も子育ても協力できることは幸運なことだけれどね。実際、アート活動をして、仕事もして、子育て、家事を全てこなすなんて不可能だわ」(グロッシ)

「私は女性の妊娠、出産に関して、男の子にも小学校から教えるべきだと思うわ。それを知ることは非常に大切なことよ。日頃男性が、ご飯を食べたり、眠ったりするのと同じように、女性は妊娠出産に立ち向かわなければならないんだから。そしてそのために生活を諦める必要がない、ということを男性は学ばなければならないわね。妊娠している女性は、ある意味『聖人』なのよ。社会に最も大きな貢献をしているわけだからね。それなのに、妊娠したからといって、女性だけが全てを失わなければならないなんて、まったく理屈の通らない変な話だと思うわ」(マリオーニ)

イタリアの女性たちは、きっぱりと、臆することなく自分の意見を述べる、というのがわたしの日頃の印象。また、70年代以降のフェミニズムの主張は、時代とともにスタイルを変化させながら、女性たちに根づいているとも感じます。今年の3月8日、国際女性デーは、ローマでも複数の女性デモが行われ、ローマの交通機関は全面ストップとなりました。社会が勝手に作り上げた「女性のあるべき姿」など偏見はもってのほか、女性の数だけ個性があり、人生がある。そしてそれは改めて考えるまでもない、当たり前で自然なことだとわたしも彼女たちと同様に強く思います。現代の女性たちの人生は冒険に満ちた実験。男性の方々にも、その実験を協力的に、柔軟に、同等に分かち合ってほしい、と常日頃から考える次第です。

今回の『Campo GrossiMagliani(グロッシ・マリアーニ広場)』では、女性アーティストならではの包容力のみならず、人々を巻き込みながら刻々と変化するインスタレーションという、現代社会を見通す鋭いアイデアを何より頼もしく感じました。今後もプロジェクトをいよいよ発展させ、彼女たちの作品であらゆるギャラリーを席巻、そのクリエイティブな包容力で、より多くの人々を巻き込んでほしいと願いながら、フラミニオ通りを気持ちよく、のんびり歩いて帰路へついた、というわけです。

 

まさに『占拠』のアーキタイプ。野獣と母親が両面に描かれたテントが象徴的だった。写真提供:AlbumArte


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