小説「パッショーネ」Passione

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そもそもこのサイトをはじめるきっかけとなった小説、『パッショーネ』が、KindleiBooksで発売されることになりました。去年から予告していたにも関わらず、思いのほか長い時間がかかってしまったこの小説は、ローマの街角で起こった実際の事件をヒントに、架空の人物、状況を設定し、再構築したミステリー・フィクションです。そこでほんの少しだけですが、一章の半分をこのサイトで公開させていただくことにしました。もちろん、『鉛の時代』のリサーチをはじめ、ローマの人々のインタビュー、出来事を掘り下げるこのDeep Romaは、これから先も今まで通り、ああでもない、こうでもない、と続けていく所存です。


 

Passione パッショーネ 

第1章 2012年 7月15日−16日

真夏。
その日の夕方、マリオは冷水のシャワーを浴びた。
水源から、高水圧で流れてくるローマの水道水は、真夏でもひんやり冷たく、熱が籠って膨らんだ身体をキュッと引き締める。アフリカ大陸の砂漠から、地中海を渡って吹きつけるシロッコの熱風のせいで、ローマは四十度近くまで気温が上がり、脳がとろけそうな暑さが続いていた。

この時間、いつもなら仕事から戻っている母親は、帰りに買い物でもしているのだろう、まだ戻ってこない。「それとも新しい恋人でもできたのかもしれない。もしそうなら喜ばしいことだな」シャワーを浴びたあと、そんなことを考えながら、母親が洗濯してベッドの上に重ねた何枚かのTシャツから、マリオはブルーのTシャツを選んで首に通す。柔軟剤の、ラベンダーの香りに似せた微かな匂いがした。日中陽が差しこんで部屋を灼かないよう、窓の鎧戸が半分閉められた薄暗い家のなかは、戸外よりもいくらか涼しい。

マリオの部屋の机の上、古い型のデスクトップのコンピューターのそばには数本の手巻き煙草が揉み消された灰皿、すでに半分以上飲み干されたゴードンズのボトルとコップが置かれている。昨日の夜、ピッツェリアのアルバイトから帰ってくる途中に、脳裏をよぎったメロディと歌詞のフレーズを、ノートに書きつけながら一杯飲んで、そのまま置きっぱなしになっていた。コップを流しに持っていこうかとも思ったが、まあいいか、どうせ今夜も寝る前に飲むかもしれない、と結局そのまま置きっぱなしで部屋を出る。コットンのグリーンのベッドカバーがかけられたベッドの脇には、フェンダー・ストラットキャスターとアコースティックギター、それにマーシャルのアンプが整然と並んでいた。

頭からバスタオルを被ったまま台所に行き、棚から布にくるまれたパンを取り出し、コンロにかかった鍋の蓋を開ける。

「母さん、今日は朝からポルペッタを作ったんだな」

ひとりごとを言いながら、肉団子が浮かんだソースに、ちぎったパンを浸して口に放りこんだ。そのままパンを棚に戻そうとしたが、ほどよい脂が浮いたトマトソースの、絶妙な酸味が口いっぱいに広がった途端、「旨い……」陶酔してそう呟き、考え直したように手を止める。今度はパンを大きくちぎり、再びトマトソースに浸した。冷蔵庫を開けペコリーノチーズの塊を見つけると、それをナイフでザクッと大きく切って、ソースがたっぷり染みたパンと一緒に頬張った。

開け放された台所の窓、アパートの階上から、通りを走り回る子供たちに「ご飯だよ」と呼ぶ声が聞こえてきて、懐かしいその声を聞きながら、マリオは立ったまま急いで腹ごしらえをする。

「おっと、いけない」壁にかかった時計を見ると、約束の時間まであと三十分しかない。髪を乾かす時間がなかったので、バスタオルで適当に水気を取って白い運動靴を裸足に履き、Gパンのポケットに二十ユーロを突っこんで階段を駆け下りた。陽がずいぶん翳っているとはいえ、シャワーで充分に冷やした身体に、むっと熱気が絡みつく。この暑さなら五分とたたないうちに髪は乾きそうだ。

「おい、マリオ、何処へ行くんだ?」

路面電車の停留所に向かう通りを歩く途中、強いローマ訛りでマリオに声をかけたのは、ちょうど店を閉めようとしていた八百屋のセルジォである。

「友達のライブを聴きに。モンティのライブハウスでやるんだ」「何だ、マリオが弾くんじゃないのか」「今日は客なんだ」セルジォはレタスの籠を抱えながら片目を瞑る。「そうか。次にマリオが弾く時は聴きにいくぞ。ヴェロニカが、マリオは相当上手い、と言っていたからな」

一度、マリオのバンドのライブにボーイフレンドを連れてやってきた、セルジォの高校生の娘、ヴェロニカは父親にそう報告したらしい。マリオは照れたように微笑んだ。

「遅れているから、もう行くよ。そうそう、明日はスイカを買いに来る。母さんひとりじゃ重たいから、俺が買うように頼まれていたんだけれど、今日はすっかり忘れていた」

店に並べられていたレタスの籠を奥に運びこんだセルジォは、シャツの袖で、額に滝のように流れる汗を拭く。
「ああ、了解だ。あんまり遅く帰って、母さんを心配させるんじゃないぞ。マリオはいつも帰りが遅い、ひどい時には朝帰りだ、と母さん、いつもぼやいている。ここらに住む他の若い者みたいに、今に悪い仲間に引きこまれるんじゃないかって心配しているんだよ。おまえはこの辺りの子にしては珍しく、素直で真面目な子だからな」

二、三歩、歩き出したマリオだが、セルジォを振り返り悪戯っぽく笑った。「嫌だな、セルジォ。俺、素直でも真面目でもないよ。それにもう二十二だよ。結婚して子供がいる友達だっているんだ。母親から心配される歳じゃないって。学費だって稼いでいるんだから」

「馬鹿言え、子供がいくつになっても、母さんは心配するもんなんだよ」セルジォはそう言いながら、店のシャッターをガラガラと勢いよく降ろした。

ローマの郊外であるこの辺りの住人たちは、ほとんどが顔見知りである。もはやローマの中心街では聞くことが少なくなったRomanesco(ローマの方言)を、誰もが大変な勢いで、まくしたてるように大声で話すので、普通の会話だというのに、喧嘩腰で喋っているように聞こえる。中心街のように、特筆すべき歴史的な遺跡やモニュメントは遺っていない、時代の流行からもほど遠い、飾り気のないこのような郊外にこそ、ローマの庶民の精神が、『言葉』とともに残っている、とも言われる地域だ。

通りの脇に並ぶ建物の多くは、二、三階建ての比較的新しく造られた低い建物で、中心街に比べると断然家賃が安いため、そもそもの住人たちに混じって、アフリカ人やバングラデシュ人、東欧からの移民も多く住みついていた。彼らは土地の男たちが集まるバールにも入り浸り、あっという間に覚えた巧みなRomanescoで卑猥な冗談などを飛ばしては、男たちと一緒にゲラゲラ笑い、すっかり土地になじんで暮らしている。

はじめは移民たちを警戒していたそもそもの住人たちも、そのうち彼らの存在を受け入れ、ささいな揉め事はともかく、総じて穏便に共存するようになった。仕事を持たず、街から街を放浪し、違法に日銭を稼ぐ流れ者の移民とは違い、パーミッションや市民権を得た移民たちにとっては、もはやローマが故郷ともなっている。

そんなバールのひとつの前を足早に通り過ぎながら、表まで聞こえる賑やかな笑い声に「あの声はコンスタンティンだ。また女の子の話で皆を笑わせているんだな」とマリオは思う。バールの庭を覗くと、庇のかかったテラスでは、案の定、コンスタンティンと数人の老人たちが、ビールを飲みながらカード遊びをしていた。コンスタンティンは、昨年マリオが母親と住むアパートの壁を格安で塗り替えた、ルーマニア人の漆喰の壁塗り職人で、同郷の男三人とともに、マリオが住むアパートの斜向いに住んでいた。

大通りまであと一区画という辺り、サイケな柄のシャツの胸をはだけ、咥え煙草をしたエンゾが、赤いランチアのトランクに、黒い革製のバッグを大事そうに仕舞っているのに出くわした。車のフロントは、何処かで激しくぶつけたようで、でこぼこに潰れている。黙って通り過ぎようとすると、エンゾは親しげな、しかしどこか威圧的でもある、目配せだけの挨拶をマリオに投げかけた。

このエンゾという男は、高校に入る頃から悪い仲間とつきあいはじめ、今ではカモッラ―ナポリマフィア―が流すドラッグを売りさばいて、かなり稼いでいるという噂だった。二人は子供の頃、近所の空き地でサッカーをして遊んだ仲間だが、そのなかには、エンゾ以外にもドラッグの商売に手を染める幼なじみがいて、たとえば中学まで一緒のクラスだったジョバンニは、昨秋ローマの中心街にあるナイトクラブの手入れで、逃げおくれて捕まった。彼は現在レビッビアの刑務所に収監されているという話で、それ以来この辺りで姿を見かけたことはない。

いずれにしても彼らとは、子供時代以来、道で出会って挨拶を交わす以外の接点をマリオは持ったことがなかった。急ぎ足のまま、同じように眼だけで、昔のよしみの分だけの親愛をエンゾに示すと、大通りまで突き抜ける。

夕陽が落ちた空はみるみるうちに青暗くなり、遠くにひとつ、明るく光る星が浮かんでいるのが見えた。のびのびと育った大通りの街路樹が、その青い闇を黒々と覆う影絵となり、ぬっと静かに浮いている。ヘッドライトを全開に次々と通り過ぎる車が、やみくもにスピードを出すので、なかなか渡るチャンスが見つからなかった。そうこうするうちに路面電車の灯りが遠くから近づくのが見え、マリオは両手を拡げて車の流れを無理矢理せき止め、大通りの中央、中州のようにある停留所に向かって全速力で走る。車輪が軋む甲高い金属音の叫びとともに停留所に停車する電車に乗りこみ、空いていた最前列の窓際の席に座った。クーラーが少しも効いていない車内は煮えたぎっていて、せっかくシャワーを浴びたのに、と心からうんざりした。

走り出す電車に揺られながら、いつもと同じように何も考えずに、ぼんやりと埃で曇った窓の外を、マリオは眺めた。トタン屋根のスーパーマーケットや雑草に覆われた中古車屋、やがてはじまる建設工事の告知看板が立つ、鉄くずが捨て置かれる荒れ果てた空き地、陽に灼かれ茶色に変色したビニールの庇がかかった、古いアパートのバルコニー、黄色いクレーン車、何棟も並ぶ新築されたばかりの殺風景なアパート、軍艦の形に似た巨大なショッピングセンターなど、もとより荒涼とした地域が無秩序に近代化されつつある、見慣れた郊外の風景だ。

電車が地域の役所を通り過ぎようとしたとき、最近薄いクリーム色に塗り替えられたばかりの外壁に、赤いペンキでRoma orma amor(ローマは愛を追いかける)と早速落書きされているのが見え、やっぱり二日ともたないな、と可笑しくなる。ローマの電車から見える壁という壁、特に郊外の壁は、どこも彼処も落書きだらけだ。

窓は半分開いていて、そこから少しは空気が流れてきたが、じっと座っていても額に汗の滴が浮いてきた。途中、豹柄のピッタリしたタンクトップを着た、胸の大きいトランスセクシャルが、赤いハイヒールをコツコツと鳴らして電車に乗ってくる。たまたまマリオのうしろの席に座ったので、その官能的な香水の匂いが熱気と混じりあい、電車に乗っている間じゅう気が遠くなりそうだった。

列車の発着のアナウンスが絶え間なく鳴り響き、スーツケースを引っ張って歩く人で溢れる『終着駅』のテルミニで、マリオは路面電車を降りた。一日に八百五十の列車が出入りし、四十八万人の人々が行き交う巨大な駅、その構内の人波に流されながら、地下鉄に乗ろうかとも考えたが、ちょうど混雑している時間だと、サルボと約束したライブハウスまでの一駅の区間を、急ぎ足で歩くことにする。テルミニからフォロ・ロマーノの遺跡に続く、常に車が渋滞しているカブール通り沿い、サンタ・マリア・マジョーレ教会を越えたところで、「排気ガスの匂いが堪らない」と途中の道を、すっと右に折れた。

街角に入った途端、いかにもローマらしい、細い路地が迷路のように走る、古く情緒のある街並みが見えはじめた。オレンジ色の街灯が薄闇にポッと灯る時間、通りの向こうから歩いてくる大勢の人々の間を縫って、でこぼこの石畳の上をさらに急ぎ足で歩くマリオは、やがて細く薄暗い路地の奥深く、吸いこまれるようにちいさくなった。

 

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一種独特の雰囲気を醸すリオーネ・モンティは、ローマの中心街のなかでも、格別に個性的、ラディカルシックなゾーンとして、ここ数年、にわかに人気が集まった地区である。

肩を寄せあうように建ち並ぶ、十九世紀以前に建造されたパラッツォの地上階、昔ながらの木工工房や彫金工房、古家具修理工房などの職人たちの工房が軒を並べ、モダンなカフェやレストラン、洗練された服がウインドーに飾られた、ブティックや洒落た靴屋が混在している。ニューヨークタイムズをはじめ、各国のガイドブックや雑誌でも紹介され、ローマの古き良き時代の街並みと雰囲気を楽しもうと、トゥーリストが多く訪れる地域でもあった。

マリオはこの地区にあるジャズスクールに通うため、電車と徒歩で約一時間かけて、ほぼ毎日この辺りにやってくる。ジャズ、ポップ、エレクトロミュージックなどのジャンルで課程が組まれるそのジャズスクールは、プロのミュージシャンの実践的な指導で、優秀なスタジオミュージシャン、ミキサーを多く輩出する、ローマの音楽関係者の間では名の知れた学校だ。通りに面した磨りガラスのスタジオからは、生徒たちが練習するピアノやベースの音が、夕方まで絶え間なく聞こえ、その演奏があまりに上手いので、通りすがりの人々がわざわざ足を止め、演奏に聞き惚れるのを見かけることもしばしばだった。

七月もなかば、ジャズスクールの通常の課程はとっくに夏休みに入っていたが、レッスンもないこんな暑い夜、わざわざマリオがこの地区を訪れたのは、ジャズスクールの生徒たちがライブを企画したからだ。学校のすぐ近くにある五十人も入れば満席、というちいさいライブハウスが会場で、生徒と言ってもマリオのような二十代の青年から、四十歳近い強者もいる。

夏の夜のパニスペルナ通りは、すでに人で埋まっていた。緑の蔦で覆われた建物にあるエノテカの、入り口辺りの石畳の上は、ワイングラスを片手に、華やかな夏服をまとってアペリティフを楽しむ人々の、明るいざわめきに満ちている。

マドンナ・ディ・モンティ広場の噴水の周りにも、たくさんの人々がワイングラスやビールを片手に、ひしめきあうように集まっていた。スーツ姿の仕事帰りのグループもいれば、マリオと同じ年頃の若者たちのグループもいた。この地区は通りも広場も昔ながらに狭く、窮屈な街並みなので、人が集まるとすぐに混雑する。
「遅いな、マリオ、もうとっくにはじまっているよ」

茶色のパナマを被ったサルボが、ライブハウスの正面の壁に背中をもたれかけて待っていた。

「ごめん。バイトが遅くなったんだ。人、入っている?」「ああ、今のところ、ほとんど学校の連中ばっかりだけれどね。ほぼ満席」

「良かったじゃない。この時間で満席なら、十一時ごろには人が溢れるな。今夜はすごい人出だし。ところでそのパナマ、いいね。買ったの?」サルボは嬉しそうな顔をする。「だろう? デッドストックだけどね。マーケットで買ったんだ。結構高かったよ。二十五ユーロもした」

ライブハウスに入ると、中にいた何人かの知り合いがマリオを振り向き、声をかけた。「今日のライブ、おまえも弾くのかと思ってたよ」「そうだよ、マリオ、おまえがやんないとつまんないじゃない」マリオは微笑む。「今回は練習する時間なかったから。やるとしたら夏あけだな」

カウンターでビールを注文して、サルボが確保していた席にマリオが座ったのは、最初のバンドが最後の曲を演奏するところだ。

「彼らイマイチだよね。全然ノリも悪いし」耳元でサルボがこっそり不満げに言うと、「まだこの時間だしね」マリオはしかたないよ、と肩をすくめた。

しばらくの間大人しく、友達のバンドの演奏を聴いていたサルボだが、そのうちつまらなさそうに「あーあ」と欠伸をする真似をする。「まあ、知り合いのライブでなければ、こんなところには来ないよな。あいつら、下手すぎるもの。俺、正直、ここに座っているのが苦痛。ところでさ」退屈したサルボは演奏そっちのけに話しはじめる。大音響なので、声が自ずと大きくなった。

「昨日の夜、『アンジェロ・マーイ』でFUZZ ORCHESTRAのライブを聴いたんだけど、めちゃくちゃ良かった。ギターもドラムも最高にアグレッシブ、ノイズがセンスよくて、毛穴から音が身体に入って全身痺れる感じになっちゃってさ。俺、思わず口開けてぼんやりしちゃったよ。彼ら、CDだけじゃなくて、LPレコード焼いて売っているんだぜ。しかも半透明の白いビニールで、見た目もかなりかっこいい。やっぱ、『売る』となると、見た目っていうのも大切だよな。買って親父のターンテーブルで聴いてみたんだけれど、音がCDとは較べものにならない。ファイルでは聞こえない微妙な音のニュアンスが録音されるからすごい臨場感でさ。で、そのタイトルが思い切りシニカルで笑わせるんだ。『Morire per la patria ( 祖国のために死す)』だって」

二人で声を上げてそのタイトルを笑ったあと、マリオも演奏にかき消されないように声を張り上げた。

「FUZZはかなりセンスいいし、上手いし、ツボを掴むよな。俺も去年、ライブに行って驚いたもの。確かにめちゃくちゃアグレッシブ。ダークな感じもいい。曲作りにドラマ性があるしさ。あんなバンド、他にはなかなかないよ。最近はヨーロッパの各地でもツアーしていて、評価高いらしいじゃない」

「曲のなかで使われている台詞っていうか、歌詞っていうか、あれ誰だっけ、有名な詩人、ほら、七十年代に虐殺された詩人。えっと……そうそう、パソリーニだ。そのパソリーニの映画の台詞をそのまま使ってるんだぜ」「俺、パソリーニって全然知らない、映画も観たことない」

「俺も知らないけれど、とにかくアグレッシブでかっこいいんだ、その台詞。詩人が機関銃打ちながら、突撃する感じ。でもそれって、本当は『福音書』の言葉、聖句らしいよ。マタイによる福音書とか何とか、親父が言ってた」「ふうん。レコード聴かせてよ」「オーケー。でもやっぱ、ライブのほうが全然いいけどな」「人、多かった?」「ああ、満員だった。みんな踊り狂ってた」

二人は大音響の中、インディで人気のヘヴィロックバンドの話をした。FUZZ ORCHESTRAのようにインディで音楽活動をすることが、ここ二年ほど一緒にバンドを組んでいる、マリオとサルボの目標なのだ。

「そう言えばアンジェロ・マーイ、明後日はBlind Birdsのライブなんだけれど、行かない? ギターのリフがしぶくていいんだ」「カワムラとかいう日本人のボーカルの?」「そうそう、彼もめちゃくちゃセンスいいよな」
「明後日か。行けると思う」

二人の話題に上る『アンジェロ・マーイ』は、欧州各国に多くあるチェントロ・ソチァーレと呼ばれる、七十年代後半に生まれた左翼系反議会主義―八十年代後半からは右翼系も参入―グループが運営する、非商業目的、文化的社会活動を旨とする、カウンターカルチャースペースだ。通常チェントロ・ソチァーレは、使われなくなった学校や閉館されたままの映画館など、廃墟になった公共のスペースを有志が占拠して改造し、インディのミュージシャンのライブ、コンテンポラリーアートの展示やアヴァンギャルドなダンスなど、アンダーグラウンドな文化活動を中心に運営する。

もちろん非合法なので行政から追い出されることもたびたびで、アンジェロ・マーイも、ローマ市内の廃墟となった小学校を占拠して追い出され拠点を失ったが、カラカラ浴場の向かい、古い園芸関係のスペースを占拠してからは落ち着いているようだった。ほとんどのチェントロ・ソチァーレには、キッチンやパブもあって、簡単な飲食もできるうえ、価格も安く、学生や音楽、演劇、芸術関係志望の若者、カウンターカルチャーを強く支持する人々で溢れている。

しかし『非合法』、とはいっても文化活動で実績をあげ、長期間の占拠に成功したチェントロ・ソチャーレには、行政が認可を下し合法化することも多くなった。そうなると政治色はほとんどない、カジュアルな『反体制』風のスペースに変化するのだが、実際のところ、ほとんどの占拠スペースは長い間に馴れあいになり、今となってはかつてのような、アナーキーで攻撃的なカウンターカルチャースペースはもはや存在しない、と言っていいかもしれない。若者たちが有り余るリビドーを全開に、体制に抵抗して吹かす風は、遥か彼方の想い出のなかに、ささやかに吹くだけだ。現代の反体制者たちは、フェードがかかった過去の思想の残骸を、かっこいい、と感覚で判断し、平和的なコミュニティを形成するにすぎない。

その後の『アンジェロ・マーイ』に関して言えば、多分にもれず、いたって行儀のいい、平和的なカルチャースペースだったにも関わらず、二〇一四年三月、ローマ当局に再度、立ち退きを命じられた。しばらくもみあいが続いたが、結局数日のちの早朝、警官がなだれ込み強制退去となった。しかしその後もしぶとく抵抗し続け、現在も一部を除いて運営している。

マリオとサルボも家からは、けっこう遠くにあるチェントロ・ソチァーレまで、サルボのヴェスパに二人乗りで出掛ける常連だが、政治思想には全く無関心で、興味はもっぱら、そのスペースで演奏される音楽に向けられる。巷で流れる明るく希望に満ちた歌だとか、あるいは恋愛をテーマにしたポップな歌だとかを、耐えられないほど媚びていて、センスがない、と二人は考えていた。

「この辺りは学校の近くだからしかたなく毎日通うけれど、何もかも高いし、遊びにくるのはスノッブな連中ばかりだし、僕たちが夜、遊びにくるところじゃないよな。パブなんかで流れている音楽のセンスの悪さと言ったら、罰金取りたいくらいだもの」「まったくだよな。しかしここのライブハウスもビールが一杯六ユーロだなんて、まるで泥棒だよ。ほとんど場所代なんだろうけど」

短いインターバルに、ビールの値段に不平を言いながら、二人はカウンターでもう一本ずつビールを注文した。

予定の六バンドの演奏も後半になり、友人たちのライブを観に来た二十代後半から三十代前半の若いジャズスクールの生徒たちは、夏休みだし、仲間うちの集まりだし、しかもアルコールも入っていたから、誰もがいつも以上に舞い上がりはじめている。夜が更けるにつれ、マリオの予想通り客は増え続け、座る場所もなく、皆、狭い暗がりにぎゅうぎゅう詰めに立っているという状況だった。室外機が悲鳴を上げながらガンガンに廻っていたが、窒息しそうな熱気で室内のクーラーはまったく用を足さず、演奏する者も客も、スピーカーから身体に伝わるベースの振動と、ひたすら流れる汗でトリップ気味である。狭い空間に入りきれなかった若者たちは、ライブハウスの扉の外にまで溢れ出していた。

「ちょっと外に出るよ。暑くて耐えられない」

マリオが席を立ち上がると、サルボもあとに続く。入り口の辺りの人だかりをかきわけて外に出ると、熱帯夜で店内とそう変わらない気温でも、酸素だけは充分に漂っていて、思わず二人は深呼吸する。

「酸欠で頭がくらくらしそうだった」

サルボは帽子をとって、頭を振り回し、七十年代風にカットした長めの髪を撫でつけると、うやうやしく被り直した。「演奏はイマイチなのに、歓声だの、指笛だの、みんな盛り上がるだけ盛り上がっていて、ちょっと不自然な雰囲気だな」「夏だからね。みんな騒ぐきっかけを探しているんだ」

若者たちは、石畳の上で立ったまま大声で話し、ビールをガブ飲みしている。路地の真ん中に座りこむ輩もいれば、演奏に合わせて道端で踊っている娘もいた。通りの途中にある階段に並んで大声で冗談を言い合う男たちからは、ヒステリックな笑い声が上がる。ライブハウスの隣にあるスコティッシュ・パブの客も皆、店から溢れて路上でビールを飲んでいたから、ライブに来た客とパブの客が入り混じって大きな群れとなり、狭い通りを行き交う人の道を塞いでいた。毎晩人通りの多いその近辺、アルコールが入った若者たちの羽目をはずしたそんな騒ぎは、いまや誰もが見慣れたこの街の、夏の夜更けの風景でもあったから、通りかかった大人たちはちょっと顔をしかめるだけで、注意も非難もせず、その人垣を普通にかきわけ通り過ぎていく。

誰が投げたのか、ビールの瓶が石畳に砕ける音がして、金切り声が沸きたったが、そのすぐそばで愛を囁く若い恋人たちは、そんな騒ぎには目もくれない。流れてくる攻撃的なビートと悩ましい夏の熱に酔って、公共の場であることなどまるで気にしない大胆さで、夢中で抱きあっている。情熱的にかき抱かれたせいで、短いスカートがめくれあがっていることにも、女の子は全く気づいていなかった。

「みんな、フラストがたまっているんだよ」

マリオはライブハウスの壁に背中をもたれて、巻き煙草の紙の糊代を舌で舐めながら呟く。「そう。みんな毎日モヤモヤしているんだよ。空騒ぎでもしなきゃ、やっていられないって。失業、倒産、強盗、ドラッグ、発砲騒ぎ、そのうえ賄賂だ、脱税だって、毎日そんなニュースばかりだもの。僕らの未来は真っ暗闇じゃないか。三十五歳以下の失業率が四十パーセントに届きそうだって言うんだぜ。これじゃ未来に希望なんて持てるわけがないよな」サルボが力ない声で答えると、マリオは巻き終わった煙草を指に挟んで弄ぶ。

「俺の幼なじみたちなんて、はなっから未来なんて信じてないからさ。たった今必要な目先の金目当てに、簡単にドラッグを売りさばくような奴らだもの。でもさ、この辺で毎晩遊んでいる連中の親ってどんな奴らなんだろうな。みんな高い服着て、派手にお金使って遊んでいるしさ。レストランもエノテカも何処もかしこも、いつも人がいっぱいだ。ここに集まるのは、金に困ったことがないリッチ・ピープルなんだろうけど、彼らだっていつもモヤモヤ、イライラしているみたいだぜ。俺には分かるんだ。みんな笑っているけれど、彼らの眼を見てみなよ。おどおどしているみたいに、潤んで光っている。今にも爆発しそうな眼だ」

「ドルチェ・ヴィータにはドルチェ・ヴィータなりの、俺たちには分からない悩みがあるんだろうさ。それでもいいよな、金持ちは。普通の家に生まれ育った子供は、学校卒業したとしても、仕事、絶対見つからないぜ。俺みたいに、どんなにベースが上手くったって絶対見つからない。高校時代の友達なんか、大学の国際政治学科を百十点、教授陣、満場一致の最高点で卒業して、一年以上かけてやっと見つけた仕事が携帯電話会社のコールセンターの苦情係さ。ヘッドホンつけて一日八時間、週五日働いて、たったの六百ユーロしかもらえないんだぜ。普通に大学に行ってそれだもの。俺たちみたいにジャズスクールで音楽やっても、コネがなけりゃ仕事なんてまったくないさ。今朝もアパートの階段で一緒になった隣のおばさんが、会社がつぶれそうで、職がなくなるかもしれないって不安そうな顔をしていた」

サルボはそう一気に言うと、煙草に火を点けながら、「こんな時代に、音楽で食べていこうなんて幻想かもしれないな」と寂しそうに言う。

「でも俺たち、音楽以外に何も取り柄なんかないんだから、普通の仕事を見つけるなんて、いまさら無理だろ。ただでさえ、仕事なんか絶対見つからないのに。とはいえ、おまえの言う通り、ミュージシャンは飽和状態で、普通にプロになるのはほぼ奇跡の領域だからな。やっぱ、インディではじめるしかないよ。音楽で生きていくのなら、それしか道はない。誰も俺たちを雇ってくれないんだったら、俺たち自身が『俺たち』を雇うしか他に方法がないって。FUZZもBlind Birdsも、インディだけど音楽だけで食べているじゃないか。チェントロ・ソチァーレやライブハウスで演奏して、オフィシャル・ビデオをYouTubeで流して、外国でツアーして自分らの音楽売って。彼らにできるなら、俺たちにだってできるさ」

マリオはぼそぼそと、そんなことを喋りながらサルボの手からライターを取って、自分も煙草に火を点けた。

「マリオは楽観的だからな。俺、こんな不公平な世の中で、生きのびる自信ないよ。だいたい意気ごむだけ意気ごんで、売れなかったらどうするんだよ」「売れるよ、絶対。僕らも彼らみたいにCDじゃなくてLP焼いたりしてさ。尻込みしていてもしかたないだろ。こんな時はナイフを握りしめて、思い切って胸元に飛びこむんだ。いや、やっぱ機関銃か戦闘機で攻撃するしかない」

断言するマリオの静かな唇の動きとは裏腹に、熱い息がほとばしって、それがサルボにも伝わってくる。サルボは茶色のパナマを深く被り直すと、疑わしそうにマリオの顔を見つめた。

「でもさ、LPって千枚焼くのにどれくらいかかるの。五百とか、七百とか?」「さあ、もっとかかるかもしれないよ」「その金、どうするんだよ。俺、親に学費払ってもらっているから、これ以上は頼めない」サルボがビールをグイッと飲んで「温まって、まずい」と顔をしかめた時、誰かがふざけてタンクトップを着た女の子の背中に氷を滑りこませ、その女の子がけたたましい声をあげる。サルボはその声に振り返り、「あいつら、気楽そうでいいよな」と呟いた。「いずれにしてもいいドラム叩く奴、リクルートしなくちゃいけないな。ドラムが全然いない」

その時マリオは、ライブハウスの向かいの建物の窓のひとつに、黒い影がゆらゆら動き、誰かがこちらを伺っているような気がしてその窓を見上げる。しかしそこには誰もいなかった。灯りの消えた暗い窓が、黒い穴のようにぽっかりと開け放たれているだけだ。

「気のせいかな」マリオは窓を見つめながら煙草の煙をそっと吐いたあと、サルボの眼を覗きこむ。

「学費払わなければ、LPの金ぐらい、バイトでなんとかなるよ。俺、思い切って学校やめてもいいと思っているんだ。だって俺たち、相当上手いよ。他のやつらに比べて、話にならないぐらい上手い。即実戦で使えるって」
マリオは相変わらずぼそぼそと、サルボを説得する。話しながらもマリオはなぜか、その窓から人影が覗いているような気がして、ときどき視線を階上に向けた。

 

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ジャズスクールに通う生徒たちは、家庭が比較的裕福な子が多い。しかしサルボはといえば、祖父から父親が受け継いだ紳士服屋の経営が最近芳しくなく、ひょっとしたら店を手放さなければならない状況になるかもしれず、三人いる息子たちには、できる限り早く仕事を見つけて働いてほしい、と母親は思っているらしい。

マリオの場合は両親が早くに離婚して、父親が慰謝料も養育費も払わないまま何処かへ消えてしまったという経緯があり、他の生徒たちのように学校にだけ通えばいい、というわけにはいかなかった。とはいえ、燃えるような情熱に疲れた若い夫婦の衝動的な離婚は、イタリアでは決して珍しいケースではなかったので、マリオは自分の境遇について特に悲劇的だと考えたことはなかったし、周囲には自分よりももっとひどい境遇で成長しながら、それが特別不幸なことだとは感じていない友達が大勢いる。

「私だって、あんたの父親だった男だって、音楽の才能なんか少しもないのに、あんたに音楽のセンスがあるわけないじゃない。よほどの才能があって、そのうえ、とてつもない強運に恵まれなくちゃ、音楽なんかじゃ、とても食べてはいけないんだからね。ただでさえ仕事がなくて、若い子たちが街でぶらぶら、いつまでも親のスネをかじって生きなきゃならず、その親だって失業しそうな難しい時代なのに。挙げ句の果てに、あんたが犯罪者紛いの事でもしはじめたら、私は今まで何のために生きてきたか分からない。少なくとも大学ぐらいは途中でやめずに卒業して欲しかったわ。三十歳、四十歳過ぎても稼ぎがない息子を食べさせていく余裕は、母さんにはまったくないのよ」と母親が言うのを、マリオは「母さんの言う通りだよ。母さんの言葉、肝に銘じる。本当に」と適当に返事をし続けながら、相変わらず音楽に熱中している。スティーブ・レイボーン並みの才能が自分にはある、とマリオは信じていたし、音楽以外の選択肢が自分の人生にあるかもしれない、などという考えは、夢にも思い浮かばなかった。

マリオの音楽への並々ならない傾倒は十三歳ではじまった。その頃離婚寸前ではあっても、まだときどきは家に帰ってきていた父親に軽い気持ちでねだったら、どうした風の吹き回しか気前よくギターを買ってくれたことがきっかけだった。その瞬間からマリオはギターの虜になり、以来、小遣いは全てCDと新しいギターに消えることになった。

「そんなに音楽がやりたければ、ちゃんと勉強すればいい。才能があるかないかなんて、やってみなくちゃ分からないよな。若いんだからマリオはまだ何だってできるぜ。事実、人生なんて何回だってやり直しが効くもんさ。自分の好きなことをそう簡単に諦めるべきじゃない。俺はそう思う」

大学に通うのをやめた時、そう言ってジャズスクールを薦めたのは、近所のバイク修理工のエドアルドだった。五十を超えても独り身のエドアルドはジャズに入れこんでいて、スタン・ゲッツをBGMに、ハミングしながら壊れたバイクを修理する『ジャズ狂い』の変わり者として、近所でも有名な人物だ。通りすがりに聴こえてくる音楽に吸い寄せられるように、高校時代からマリオはしょっちゅうエドアルドの修理工場に立ち寄った。

「音楽を聴いていると時間があっという間に過ぎるんだ。嫌なこともすっかり忘れる。しかし音楽はいわばドラッグみたいなもので、深入りすると危険なものでもあるかもしれないな。いつの間にか中毒症状に冒されて、稼いだ金はみんな『音』になって形を失い、あとには何も残らないんだからさ。いや、何処かの誰かみたいに、本物のドラッグの世界に身を落とすよりはずっと安全だがね。俺がこの歳になって持っていると威張れるのは、レコードとステレオと商売道具だけさ。だから俺にはマリオが音楽に熱中する気持ちがよく分かる。俺だってできればミュージシャンとして人生を送りたかったぐらいだ」

セメントで固められた修理工場の床にしゃがみ、バイクを整備する手を安め、そばで寝そべる猫の背を撫でるエドアルドは、太った身体をリズムに合わせて揺らして、呑気にそんなことを言った。

「本格的に勉強するなら」と、エドアルドがジャズスクールを勧めたとき、最初マリオは「時代に革命を起こす偉大なミュージシャンは、わざわざ学校になんか行っていない、それは邪道だ」と乗り気でなかったのだが、「その気持ちは分かるが、それは君が生まれるずっと前、七十年代までの話だ。マリオは若いのにずいぶん古風な考え方をする。音楽だって今や立派なビジネスなんだから、ツブシが効くぐらいの知識があったほうがいいのさ」と説得された。さらに「母さんを心配させたくなかったら、学費は自分で稼ぐんだな」とピッツェリアのカメリエレのアルバイトを紹介してくれたのも彼だった。

ライブハウスの店内からApostrophe、フランク・ザッパのカバーが流れると、拍手と指笛がどっと響く。サルボはチッと舌打ちをした。「リカルドのギターにはアクセントがないよな。フラットでちっとも面白くない。ザッパをやるならマリオの方が断然上手いよ」

友達のギターを批判しながら煙草を石畳の上に投げ捨てると、踵で軽くきゅっと踏みつける。「それでも少しは上手くなったよ。前はもっとひどかったもの」「そうだな。でもやっぱり俺たちのほうが相当上手い。オリジナリティもあるしね」サルボがそう言って、帽子をハスに被りなおしたとき、ふいに「私もそう思うわ」と覇気のない声がしたので、二人はハッと顔を上げた。ジャズピアノのクラスのリンダが、いつの間にか二人のそばに立っていた。

リンダは高校を卒業してすぐにジャズスクールに入学したので、まだ二十歳になるかならないぐらいの娘だ。夕方から続けざまにハッシシュを吸っていたらしく、顔からこぼれそうに大きい目の焦点が定まらず虚ろで危なっかしい。「あなたたち、すごく上手だもの。スタジオで演奏しているのを聴いて、私、驚いちゃったわ」リンダは柔らかい金色の巻き毛が額に垂れるのを、華奢な手で時々払いのけるようにかきあげた。

灼熱の夏だと言うのに、青ざめて見えるほどリンダの肌は白く、頬は熱気でほんのり赤く染まっている。厚い唇に塗った薄いピンクのリップグロスをきらめかせ、夢見心地な視線を周囲に投げかけるのを見ながら、リンダのことを、恋人にしてもいいぐらいキュートな娘なのに、暇さえあればハイになっているのは残念なことだ、とマリオは思う。真っ白な薄いコットンの、ロングのワンピースの裾を揺らして、リンダは二人の周りをゆっくりと歩いた。

「ありがとう、君のピアノもなかなか素敵だ」マリオがサルボを横目で見ると、可愛いけど、この子はちょっとまずいかも、とサルボは軽く両眼を閉じて目配せする。

「クリスマス前に、またこのライブハウスでコンサートを開くみたいだよ。ロベルトがそう言ってた。ライブハウスのマスターとは、もう話がついているんだって。私もピアノで出たいの。一緒にやろうよ」
リンダは舌足らずな甘い声でそう言って、ポシェットに手を突っこみ、焦点の定まらない目でマリオをじっと見つめた。思わせぶりにウフフと笑う。

「クリスマス? 随分先の話だな。ひょっとしたら、僕たちはもうプロになっているかもしれない頃だし」サルボが素っ気なく言う。「プロ?」おうむ返しに聞き返したリンダに、「まあ、先のことは分からないってことだよ。クリスマスなんて、僕たちにとっては、遠い未来の話だから」マリオの返事にリンダは「大袈裟ね」と笑う。ポシェットから抜かれたリンダの手には、ハッシシュの小さい塊が入った口紅入れが握られている。

「巻き煙草の紙、一枚分けてくれる?」

サルボがポケットから紙を差し出すと、リンダは器用にジョイントを作りはじめた。

周囲はいよいよ騒がしく、店内から溢れだす、ボリュームを最大に上げた音に逆らうように、誰もが大声で話している。ふと見上げた真っ黒な空に、明日か明後日には完全に熟しそうな月がひとつだけ、地上の騒ぎにはまったく無関心に、煌々と浮かんでいるのがマリオの目に飛びこんできた。その月を見ながらマリオは、流れてくるApostropheのコードをイメージしたが、再び向かいの窓に気配を感じて、視線を向ける。風はそよとも吹かず、石畳から上がる蒸した熱気が、裸足で運動靴を履いた踝にまとわりついた。リンダはジョイントに火を点けると力いっぱい吸いこんで、うっとりと目を閉じながら煙を静かに吐き出したあと、サルボにそれを差し出したが、二人は丁寧に断る。

「この辺の街並みって本当にクールだよね。ブティックやかっこいいパブなんかが並んでいてお洒落だし、教会も広場も噴水もちいさくて昔っぽくて、とてもドルチェだもの。私、セルペンティ通りの教会の、壁のモザイクのマドンナ、とても好きなの。足で蛇を、可哀想なくらい力強く踏んでいるのに、にこやかに両手を拡げて微笑んでいて」リンダが白い煙を吐き出しながら虚ろな目を輝かせて言ったので、「そんなのあったっけ」サルボがマリオに聞く。

「あったかもね。注意して見たことなかったけれど。ローマの街じゅう、マドンナとキリストのイコンだらけだからな」サルボが念を押した。「何? そのマドンナ、蛇、踏んでいるの?」リンダは頷く。「知らなかったの? 蛇を踏むマドンナのイコンってけっこうたくさんあるのよ。蛇は『原罪』なの。人間を誘惑する罪の象徴。マリアはそれを踏みつけて、人間を罪から守っているの」

サルボはふうん、と頷きながら「それ、サンタマリアじゃなくて、アメリカのポップスターの方じゃないの」マリオに耳打ちして二人でクスクス笑う。リンダはその反応を少しも気にせずに、「いいよね、モンティ。昔の風景と今っぽいエッジなセンスが混じりあっているのが素敵」マリオの瞳をとろんとした目で覗きこみ、囁くようなちいさい声でこう言葉を続ける。

「俺たちはあんまり好きじゃないけれどね。この辺りの高いエノテカや、気取ったレストランに集まる連中は、スノッブでオリジナリティがないし」マリオが言うと、リンダは「そう?」と首を傾げた。「私、この街の学校に通うことに決めて本当に良かったと思っているの。マリオにも会えたしね。あんたってほんとにFico(クール)。誰よりも世界じゅうのギタリストのことを知っているし、あんなにかっこよく弾ける子、私たちの学校にあんた以外にいないわ。知ってる? あんたって横顔がブライアン・ジョーンズに似てるってこと。私、あんたのこと、好きよ」

前触れなくそう言われて、マリオはドキリとしたが、ハッシシュのせいで突拍子もないリンダの言うことは、あまり信用できないと、咄嗟に聞こえなかったふりを装った。サルボがマリオを肘で突きながら、「俺は邪魔かもね」とその場を離れようとするのを、「二人にするなよ」とマリオが引き止める。

 

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コンサートもほぼ終わり、間もなく午前二時を回ろうとしていた。深夜になっても若者たちは一向に立ち去る様子もなく、相変わらず通りを塞いだままだ。真夏の夜の空騒ぎは、このまま夜明けに向かって果てしなく続きそうだった。

騒動がはじまったのは、そんな賑やかな夜更けのことだ。
誰かが仲間うちでしか分からない、くだらない冗談を言って、皆の大きな笑い声が狭い通りに反響し、唸りのように木霊したそのときだった。若者たちがたむろする石畳の路地、ライブハウスと向かい合った建物の窓から、人間の頭よりふた周りほど大きい陶器の壷が、予期せず降ってきて、それが石畳に強く当たって粉々に砕け散る。

「あぶない」

ぼんやりと立っていたリンダをサルボが引き寄せたが、陶器の破片がリンダの脛に当たったらしく、真っ白のワンピースに微かに血が滲んでいた。階下の若者たちは驚いて一斉に上を向く。ギョッとした。

皆が見上げた窓からは、白髪混じりの長い髪をした老人が顔を覗かせ、階下を睨みつけていた。鬼気迫る、とでも言ったらいいのか、見た者を一瞬ひるませる不気味な光景だった。路地を照らすオレンジ色の街灯の薄明かりが、男の顔の深い皺の陰影、だらりと垂れた顔の筋肉を、際立たせるように下から照らし出していたから、まるでホラー映画のワンシーンのようでもある。

闇に浮かぶその男の身体からは、悪意と敵意が噴き出しているように思え、若者たちは互いに顔を見合わせ、「何?」「誰?」とぼそぼそと呟きあう。「ほらね。誰かがいるとは思っていたんだ」マリオはそこで、納得したようにひとりごちた。

「あの人、この辺りでは有名な変人よ。時々こうして集まった人々の邪魔をするの。昔から住んでいる男らしいけど」女の子がひそひそと話すのが、マリオたちの耳にも届いた。「邪魔するって、こんな大きな陶器の壷だぜ。打ちどころが悪ければ死んでしまうよ」「あぶないじゃないか」「こんな人通りの多い通りに壷を落とすなんて、警察に通報するぞ」若者の間に抗議がひとつ、ふたつと上がる。

男はすさまじい形相で窓から若者たちを見下ろしながら、ぶつぶつと喋り続けているが、何を言っているのか、はっきりとは聞き取れない。時おり『身体のないもの』だとか、『救済』だとか、『運命』だとか怪しげな単語が漏れ聞こえて、マリオとサルボは顔を見合わせる。リンダは血の滲んだ脛を押さえ、ポカンと口を開けて、男を見上げていた。

「あいつ、有名なの?」サルボが振り返り、顔見知りの女の子に聞く。「そうよ、この辺りではみなが知っているわ。時々夜中に騒ぎを起こす変人なのよ」若者たちは上を見上げたまま、男の様子を伺った。男は喋るのをやめ、若者たちの顔を一人一人見渡し、ふいに薄気味の悪い笑いを浮かべたと思うと、ペッと唾を吐いた。「何だよ、汚いな」それをひょいと避けた若者が、拳を突き出した。

演奏を終えたバンドの一群が、楽器を担いでガヤガヤと大声で喋りながら、賑やかに店から現れたのは、ちょうどそのタイミングだ。「あれ? みんなどうしたの? やけに静かじゃない」「何、これ?」演奏の興奮覚めやらない若い音楽家たちは、石畳に散らばった陶器の破片を予期せず踏みしめ、反射的に靴の裏を見る。サルボが指を差す方向に視線をやると、みな、一斉に黙りこくった。しばらくの沈黙のあと、「ドラキュラ?」辺りの不穏な雰囲気にも関わらず、ひとりの娘が絶妙の間で素っ頓狂にそんなことを口走ったので、一同は動揺を鎮め、思わずぷっと吹き出す。

「本当だ。目が充血しているところが似ている」

若者たちはクスクスと笑いはじめる。その無邪気だが、甚だしく無神経でもある笑い声が、男の神経を逆なでしたのだろう、男の顔はみるみるうちに紅潮し、こめかみには血管が浮き上がった。黙りこんではいるが、ハア、ハアと肩で激しい息遣いをしているのが、路地に群がる若者たちにも伝わって、笑い声はいったん収まり、ちいさいざわめきとなる。

その静けさを破ったのは、奇妙な雄叫びのような男の唸り声だった。と同時にガンガン、と木製の窓枠に何か固い物をぶつけるような鈍い音がしはじめる。若者たちが目を凝らしてよく見ると、どうやら男の右手には、長い棍棒のようなものが握りしめられているらしかった。

「ここからすぐに立ち去れ。たったいま、すぐにだ。ここは神聖な場所だ。おまえたちの来る場所ではない」

突如として、暗闇の天空に吠えるような強烈な声で男は叫び、ガンガン、といっそう激しい音をさせて棍棒を振り回す。しかし酔っぱらって気持ちが宙に浮いた若者たちには、その男の行動が、自分たちを脅しているとはまったく思えなかった。男が激しく棒を振り回せば回すほど、暗い窓のなか、ぎくしゃくと動きまわる操り人形のようにしか見えないのだ。

「パペットみたい」「ドラキュラのパペットだな」

互いに顔を見合わせると、再びヘラヘラと笑い出す。その笑い声はやがて自制を失って、大きな笑い声に変わっていった。

「だって可笑しいだろ。夜中に動物みたいな唸り声をあげて棒を振り回すなんて」「近所迷惑なだけだよ」「いい加減に寝ろよ」若者たちは必要以上に声を張り上げ、ふざけながら男に抗議しはじめる。ひとりの若者が「ここは神聖な場所だ」と、男の声色を真似、それがあまりに似ていたので、みなでどっと笑った。

「おまえら、いつまでもふざけてないで、静かにしろ。何時だと思っているんだ」

そのうち、その騒ぎ声に遂に堪忍袋の緒が切れたのか、別の建物の住人が、窓から顔を出して大声で怒鳴ったと思うや否や、石畳に向かってバケツで水をぶちまける。その水は若者たちの頭上に見事に命中し、突然冷たい水に直撃されて、ギャアと叫んだ彼らはずぶ濡れになったが、それでよけいに興奮し、「気持ちいいぞ」「もっと水をかけてくれ」「水、水」と調子にのって騒ぎ立てた。夜中にどこかの通りで大騒ぎをして、階上から水をぶちまけられることに、彼らは慣れている。

「ちょっとやりすぎじゃないか、これ」ずぶ濡れになったマリオが言うと、サルボは「帽子も濡れちゃったよ。買ったばかりなのに」とパナマのツバに堪った水を勢いよく払う。「しかしあの男、多分ずっと俺たちのこと見てたぜ。何度か視線感じたもの」「そう? 俺は全然気づかなかったけれど」「いや、ずっと様子を伺っていたよ」「いずれにしても騒ぎに巻きこまれる前に帰ろうよ。みんな、異常に舞い上がっていて、よくない雰囲気だよ」「ああ、そうだな」二人が話す横で、リンダはずぶ濡れになっても、相変わらずポカンと口を開けて、騒ぎを眺めていた。

「おまえのせいで、水かけられたぞ。楽器、弁償しろ」「弁償しろ」「ドラキュラ」

眼下でずぶ濡れの若者の群れが、口々に自分を罵りはじめ、そこで男は完全に逆上した。ガンガンガンと部屋じゅうに棒を振り回す音が、通りに響きわたり、ずぶ濡れの若者たちは、緊張感なく階上を見上げる。

「サタンよ、あの男、ほんとは。みんな笑っているけれど、わたしたち、今に皆殺しにされるの」

騒ぎのなか、リンダがそんなことを囁きながらマリオに近づき、突然掌をギュッと握ったので、その感触にマリオの心臓が再びドキンと鳴る。水をまともにかぶったリンダの、薄いコットンの濡れたワンピースから、下着の線が透けて見え、それが目に眩しかった。

「マリオ、帰ろうぜ」サルボがそう言った時に「ああ、そうしよう。行こう」とは答えたものの、マリオは結局、何となく場の雰囲気に流されて、その場を離れなかった。マリオはこの時、リンダの掌を振り切るべきだった、無理矢理にでもマリオをその場から連れ去るべきだったのだと、あとになってサルボはひどく後悔することになる。サルボも「帰ろう」と口では言いながらも、マリオと同じように、その場の雰囲気に流された。

「静かにしろよ」「そんなものを振り回しても、少しも怖かないぜ」「部屋で暴れるだけじゃなくて、ここに降りてこいよ。俺が勝負してやる」コントロールをなくして調子にのった若者たちが、無慈悲に男に毒づいた時、窓から顔を出した男の、真っ赤に充血した眼が見開かれた。男の姿がひらりと窓から消えると同時に、大変な勢いで階段を降りる靴音が表まで響いてくる。「何だよ、本気? 降りてくるのかよ」「殴られるぜ」石畳に群れていた若者たちは、その靴音で散り散りになり、楽器を担いでいたグループは、急いで遠くに離れる。一方、男の襲来に高揚もして、「殴れるもんなら殴ってみろよ」「警察呼ぶぞ」と喚いてその場を離れずに指笛を吹く者、ドラムスティックでライブハウスの看板をガンガン叩いて、襲来の予感に沸き立つ者もいた。女の子たちは、キャアと笑いながら、ライブハウスの中に逃げこんで、この時外に残ったのはリンダだけだった。

若者たちの目の前に降りてきた男の紅潮した細長い顔は、激しい怒りで歪んでいる。右手には長い棍棒を握りしめ、たまたま路地を通りかかった人々も、男の異様な殺気にぎょっとして立ちすくみ、そのまま踵を返して、来た道を後戻りした。

「俺が救済者だ」

ハアハアと息を荒げながら、絞り出すような声で男はそう言うと、手にした棍棒を一度大きく振って、ビュンと鈍く風を鳴らす。と、間髪を入れず奇妙な唸り声を上げ、その棍棒を振り上げながら大変な勢いで駆け出し、一番近くにいたサルボの頭に振りかざした。マリオが咄嗟に袖をぐいと引っ張り、サルボがよろけていなければ、今の一撃で頭がざっくり割れていたかもしれなかった。棍棒は的を失い、したたかに石畳を打ち、その勢いで男はひっくり返りそうに姿勢を崩す。若者たちは男の一撃に水を打ったように静まり返り、一歩あとずさった。

「まともに当たっていたら、サルボ、今頃殺されてたぜ」「あいつ、本物の殺人鬼だぞ」その場に緊迫が走って、石畳の上にひっくり返ったサルボは、決まり悪そうに顔を歪めて、無理に笑い顔を作ろうとする。「逃げようぜ」マリオが言うと、「ああ」サルボは頷いて素早く立ち上がる。マリオの掌を握ったまま離さないリンダは、うっとりとマリオの瞳を覗きこみながら「素敵。そうしよう、逃げよう」と囁いた。「おい、逃げようぜ。こんな変人と喧嘩したって仕方ない。逃げよう」

そもそも若者たちには喧嘩をする気などさらさらないのだ。アルコールが入ったせいで、気が大きくなっているだけだ。「そうだな、逃げよう」口々にそう言うと、その場に残っていた十人ほどの若者たちは、手にしていたビール瓶を石畳に投げ捨て、全速力で逃げ出した。

「子供の頃に戻ったみたいだよな。近所のおっかないおじさんに叱られて逃げたことがあった」濡れたパナマを片手に走り出したサルボがマリオに大声で言う。「まあ、笑い事じゃないんだけれど。とはいえ、まったく冗談みたいな男だ。棒を持って追っかけてくるなんて」マリオは息を弾ませながら答える。「しかも僕たちを本気で殺そうとするなんて」「殺す? やめてくれよ」「救済者だって言ってたぜ」マリオは、足をもつれさせて走るリンダから、強く掌を握りしめられ、それでもなんとか群れから遅れずに走った。

若者たちが息を切らせて、通りを歩く人の間を縫って走るのを、何事が起こったのかと、人々は振り返る。「最近、この辺りの通りは、若い子たちが夜中まで騒いで、まったく落ち着かないわ。いい加減にしてほしい」走る若者に、軽くぶつかった女性が立ち止まって眉をひそめる。リンダを連れて全速力で走るマリオの一歩先を、サルボも歯を食いしばり走った。

若者たちは一団となって、真剣な表情で石畳の通りを駆け抜ける。うしろを振り向くと、男も必死で追いかけて来るのが見えたが、石畳のへこみに足をもつれさせ、たちまちに遅れをとったようだ。走りながら怒りにまかせて、店の看板やゴミ箱や建物の壁をやみくもに棒で叩いているようで、背後からガンガンとうるさい音が聞こえてくる。そうこうするうちに、棒を振り回しながら走っていた男は、石畳に靴を引っかけて転倒し、固い石畳の角で強く脛を打ったらしく、その痛みに耐えきれず、悲しげな呻き声を上げた。その呻き声を背中に聞きながら、額から吹き出した大粒の汗を、Tシャツの袖で拭って、マリオもサルボもひたすら走り続けた。

若者たちが通りを突っ切り、サンタマドンナ・ディ・モンティ通りに続くセルペンティ通りの四つ角辺りで、速度を落とし振り返ると、男は通りの途中、棒を手にしたまま跪いている。その姿が街灯で照らされて、スポットライトが当たったように、いやに鮮明に見え、若者たちはホッとしてひとり、ふたりと立ち止まる。
「もう大丈夫だ。ここまでは追いかけてこない」

ハアハアと荒い息を吐きながら、互いに顔を見合わせると再び笑いがこみ上げてきたが、さすがに息が上がっていたから、その笑い声も途切れて力がない。

「まったく脅かされたよ。マリオに袖を引っ張ってもらわなかったら、今頃救急車のなかだ。考えるとぞっとする」

今しがた、棍棒で男の一撃を食らいそうになったサルボは、笑いながらも、怯えたように目を潤ませて呟いた。「驚いたよ。まさか本気で殴りかかってくるなんて思わなかった」膝に両手をついて、息を切らしながら、マリオが答える。「疲れちゃったわ」そう言いながら、リンダは石畳に座りこむ。濡れた白いロングのワンピースの裾は、埃で汚れて灰色になっていた。

セルペンティ通りのピッツェリアやレストランも、すでに閉店になりシャッターが降りていた。深夜になると、この通りは人通りも少なく静かだ。車が一台、ライトを落としてゆっくりと通り過ぎる。そのライトに照らされながら、若者たちは互いの激しい息づかいを聞いた。

安心しきって油断していたから、どの方向からその数人の人影が現れたか、若者たちはまったく気づかなかった。ウッと短く呻いて若者のひとりが地面に倒れこんではじめて、マリオたちは自分たちが取り囲まれていることを悟ったのだ。

気づいた時はすでに遅く、抵抗のしようもなかった。金属製の太い棒やヘルメットを手にした四、五人の人影は、音もなく若者たちに忍び寄り、一斉に飛びかかってきた。ふいをつかれ、体勢も整えられず、まったく無防備だった若者たちは無抵抗のまま、次々に金属製の棒、ヘルメットでしたたかに殴られた。倒れこんだところをさらに足で蹴られ、踏みつけにされる。ドスドスという鈍い音が暗いセルペンティ通りに響いたが、一瞬の出来事に誰も声を発して助けを呼ぶ事ができなかった。

数人の人影が後ろも振り向かずにちりぢりに逃げたあと、マリオに庇われ無傷だったリンダが泣き叫ぶような悲鳴をあげ、四方の路地からようやく異変に気づいた数人の人々が駆けつけた。若者たちが石畳の上に血まみれになって倒れているのを見て驚愕する。

「何が起こったんだ」
「誰にやられたんだ」

リンダはただ泣きじゃくるばかりで、返事ができない。

「大丈夫か」

集まった人々は救急車を待つ間、若者たちを次々に抱き起こした。ひどく殴られた若者たちは意識があっても、衝撃で我を失い言葉を発することができなかった。なかには自分で立ち上がり、服についた泥をはらえるほどの軽い怪我で済んだ若者もいたが、ほとんどの若者が顔を腫らし、ひどい打撲と怪我で起き上がれずにいる。サルボもひどく頭を殴られ、意識が朦朧として人々の問いかけに返事ができない状態だった。

「ひどいな、これは」「まだ救急車は来ないのか」

人々のざわめきのなか、再びリンダの絶叫が辺りに響き渡る。

「マリオが……。マリオが息を……息をしていないの。助けて。マリオを助けて」

地面にうつぶせになったまま、マリオだけが呼びかけても何の反応もなかった。
叫び声に驚いた人々が、四方の路地から続々とその場に集まってくる。「マリオ、マリオ」と泣きじゃくるリンダに揺さぶられるまま、マリオはじっと動かない。

「走れ、走れ、殺しだ」
「急げ、殺しだぞ」

その人波を押しのけながら、巡回中だった警察官が駆けつけた。救急車が来て間もなく、サイレンを鳴らしながら数台のパトカーも通りに乗り入れ、その場は騒然とする。携帯電話のベルが鳴り響く。マリオのぐっしょり濡れたブルーのTシャツは、どす黒く血に染まり、まだ微かに、ラベンダーに似せた柔軟剤の匂いがした。

叶えられないまま、闇に吸いこまれた想い。

マリオが倒れた場所は、蛇を踏みしめ、両手を拡げて慈悲深く微笑むマドンナのモザイクが掲げられた壁から、二メートルと離れてはいなかった。

 

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(Kindle iOS版では若干の不調が生じますが、現在調整中です)

 

 

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※Webのスタイルでは、どうしても横書きの体裁になってしまうため、同じ文章でも本編とは違う段組にしています。また、WEBのみ、文章の間にいくつかローマの風景をストーリーに関係なく、実験的に入れてみることにしました。

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