巡る世界を創る女性アーティスト・デュオ:グロッシ・マリオーニ

Cultura Deep Roma Intervista Occupazione Società

個人の記憶を超えたもの。空間の記憶、身体の記憶、時間の記憶

「一方、『避難/居住』プロジェクトは、今回のインスタレーションの『Occupazioneー占拠』に強く連携している。ロープとリングを使って、このスペースにあばら屋の屋根の形を表現しているのだけれど、カトリック世界で成長した私たちにとって、このあばら屋の屋根の形イエス・キリスト誕生をイメージさせるイコノグラフィー、それに住居のアーキタイプでもあるわ。そもそもこのプロジェクトは、ローマ郊外の地域の『占拠』の循環をリサーチして生まれたものなの。個人的な記憶から生まれた発想なんだけれど、子供が遊ぶ公営の体育館が、ある日東欧からの移民の人々に占拠されて、子供たちは別の体育館に行かなければならなくなった。するとそこで今度はアフリカからの移民の人々にその体育館が占拠されてしまった。また子供たちは他の場所へと追われたんだけど、最後はイタリア人に占拠されてしまったのよ(笑)。それらの占拠のせいで、子供たちはノマドのように転々としたわけ」(マリオーニ)

「その経験がずっと記憶に残っていて、あるスペースからパフォーマンスを依頼されたことをきっかけに『占拠』をリサーチをしてみると、実際、その地区には何百年も前からさまざまな占拠の歴史があった。例えばワインを作るフランス人の僧侶たちに占拠された時代があったり、1400年代には反教皇運動が起こり、橋の下の茂みを当時の運動家たちが占拠したり、ファシズム時代、プロテスタント教徒たちは政権に禁止された儀式を行うため、密かに洞窟を占拠していたり。そんな歴史をリサーチしながら、では、これら全ての『占拠』をひとつのレベルで表現しようと考えたことがきっかけ。そういうわけで薄暗い閉ざされたスペースに私たちが創りたかったのは、最小限のエレメントを使った『占拠』、原始的な住居のアーキタイプなの。ある意味、私たちはみんなrifugiati−避難民よ」(マリオーニ)

ファインダーの森のインスタレーションの中で行われたワークショップは、アカデミア(国立芸術大学)の学生たちが多数参加して熱気に包まれた。写真提供: AlbumArte

「もうひとつのテーマ『魔術/幻想』プロジェクトで、私たちが長年取り組み発展させているのは、見えないものを探し求める作業、そしてそこが全ての原点。個人の記憶を超えた、空間の記憶、身体の記憶、時間の記憶を掘り下げていくことが、私たちには必要なことだった。感じるけれども見ることも触ることもできない感覚。そしてそれは、私たちがさらに発達させ、鍛えるべき感覚だと考えているわ。その感覚に私たちは欺かれるかもしれないし、あるいはなんらかの情報が与えられるかもしれないけど、確実に、どうにも説明できない感覚が存在しているでしょう? 私たちはその見えないものに名前、実体を与えたいと思っているの。科学にだって説明できない要素があり、未知の現象に対する疑問があり、それを追求して答えを探していくメソッドで発展していくのだから、私たちも科学のように、それを追求して答えを探すプロセスを作品で表現したいと思うの」(グロッシ)

そもそものグロッシ・マリオーニのアート活動は、この『魔術/幻想』をテーマにしたパフォーマンス・アートから出発しています。その際、まずパフォーマンス・アートが何から発生したのか、背景を研究、自分たちのテーマとの連結点を探る作業から始まったのだそうです。演劇的なものにするか、テレビのプログラム的なものにするか、ダンスで表現するか、さまざまな表現を模索しながら、メデュウム(霊媒)、ピンナップガール、ウエイトレスの衣装などをまとってパフォーマンスを構成。今回の展覧会でも会場のスペースの一角には、マルチメディアを使い、セクシーな魔術師に扮したグロッシが、無機的に、休むことなく、熱意のない官能をパントマイムで表現する映像の傍、メディウムの魔法陣をシンボリックに表現したオブジェが設置されています。また、手を突っ込むと、生温い感触のヴァギナを模した穴、という衝撃も用意されていました。

長い時間発展させてきた、この『魔術/幻想』のプロジェクトは、社会の女性イメージへの挑戦でもあり、女性として、パフォーマーとして非常に重要なものだった、と彼女たちは口を揃えました。

魔術/幻想がテーマの一角。ZigZag womanと題されたインスタレーション。

「私たちのアートのポジションはいつも『批判』、社会へのクリティックな態度であり、紛れもないアンタゴニズムなの。観衆は、いつも女性アーティスト、パフォーマーに彼らのイメージする女性の、スペクタクルなセクシーさを要求するじゃない? だから私たちはその期待をすっかりぶち壊したかった。鶏肉を鶏の羽で縫ってヴァギナに見立てて、それに手を突っ込ませる、というようなことをしたりね。まあ、私たちは若かったから、あれこれ夢中で走ったけれど、他の女性アーティストたちからは大きな共感を得ることができたわ。それにヴァギナをテーマに作品を創るということは、自分が何処から来て、どういう生き方をすべきか、ということを理解させてくれることでもあった」(マリオーニ)

自らの持つ身体と対峙することから生まれたフェミニズム

「私たちの考える『femminilitàー女性性』というものは、社会と女性の関係を熟考して、論理的に導き出して表現したわけではなく、自分の持つ身体と対峙することから、自発的な表現として生まれてきたものよ。そもそもパフォーマンスからアートの世界に入ったわけだから、まず自分の身体と向き合わなければならなかった。ヴァギナに関する議論も、そこからはじまっているのだけれどね。やがて時間が経って、アーティストとしても、女性としても自分を取り巻く環境が変化を遂げ、子供も産んで、家庭も持ったけれど、この環境の変化もまた、女性アーティストであるための実験的なプロセスだ考えているの」(グロッシ)

「通常、『アーティスト』というと、誰もが男性をイメージするわよね。実際にほとんどのアーティストは男性だから。近代のイタリアのアートの世界に重要なポストを占めた女性アーティストが存在しないのも問題だわ。確かにCarla Lonzi (カルラ・ロンツィ)がフェミニズムのアートムーブメントを起こして女性アーティストのグループを作ったこともあったけれど、残念ながらそれは失敗に終わっている。イタリアのアーティスト、つまり男性アーティストたちということだけれど、600年代からボヘミアン・アーティスト、そして現代までの彼らはみんなエゴイスト傲慢、そして自己中心的傾向があるわね。私はアーティストであるために彼らのようであるべきだ、とは全く思わないの。幸運なことに900年代から多くの女性アーティスト、特にパフォーマンスの分野に多く現れたけれど、男性アーティストは議論ばかりでなかなか前に進まない(笑)。女性アーティストは変化する肉体と対峙しなければならないわけだから、身体を素材としたアートとは親和性があるし、子供を持つことで自分の身体の次元が変わることを知っていて柔軟性がある。それに女性は妊娠の間、エゴの自己主張をいったんコントロールしなければならないし、いつまでも傲慢で自己中心的でいることができなくなるのよ」(マリオーニ)

集会の場のアーキタイプを創るワークショップで。

子供を育てながら、アーティストであることは実験的なプロセス

「子供を育てながらアーティストであり続けることは、正直、とても難しい。かなり厳しい状況で、ほとんど不可能だと言ってもいいくらいよ。実際には、子供が生まれる以前よりさらにエネルギッシュに活動しているけれど、諦めなければいけないことが多いわよね。他の土地へ仕事に行かなくてはいけない時も、アーティストは単独で移動する、と想定されているから、家族と共に滞在するレジデンスを用意されることがなく動きが取れない。アーティストは自分の生活、家族を持つことができないような社会の空気馬鹿馬鹿しいことだと思うわ」(グロッシ)

「それにイタリアでは、そのような状況に異議を投げかけるムーブメントも何も起こらない。私たちイタリアの女性アーティストが集まって議論しないのもよくないことだわ。女性アーティスト同士、もっと交流を深めて対策を考えていく必要があるわね。私たちに関して言えば、デュオで作品を作っているから、常に議論しあうことができているけれど。実際ふたりで作品を創るということは、色々な困難があっても、状況に対処していくことが可能になるから、とても心強いことよ」(マリオーニ)

「そうね、デュオで活動できることは、とてもラッキーなことだわ。それぞれの妊娠、出産の間に、一方がプロジェクトを進めることができるし、互いが互いの空白を補い合うことができるから。アートの世界というのは、産休を取れば、あっという間に今までのキャリアがなくなってしまう、と言ってもいいぐらい、露骨に厳しい世界で、以前の存在感を取り戻すためには、大変な努力をしなければならないの。だから私たちのようにデュオで活動するのは、非常に有効。デュオであることが私たちのキャリアを守ったとも言えるかもしれないと思うわ」(マリオーニ)

「子供がいて、ほんの少し嫉妬深いパートナーがいても、アーティストであることは諦めたくないからね。それにアーティストは何の保証もない仕事で、実際、社会的には仕事としては認識されていないから、強く、勇気をもって継続していかなければならない。私たちがあまり仕事に集中すると、それぞれのパートナーは、ちょっぴり苦悩するみたいだけれどね(笑)。無視されたような気持ちになるのかもしれないわ」(グロッシ)

インスタレーションの一角。Lo sguardo che offende (侮辱する視線)のマニュアルの隣の部屋では、武器に見立てた仕掛けを使って、グロッシとマリオーニが闘いのフォームをパフォーマンスするビデオインスタレーションが流れる。

フェミニストの視点から、社会に望むこと

「まず、子供の教育のこと。学校は何より文化的であるべきだと思うわ。未だに母親は家にいて、家事をしなければならない、と思い込んでいる家族もまだ社会にはたくさんいるから、変化しつつある社会の基盤を、学校は子供達にしっかり教育しないといけないと思う。母親がいつも家にいて、家事と子育てだけをする、なんていう状況は、もう現代社会には適合しない。現実とはまったく相反するステレオタイプが未だに社会に蔓延っているのは時代遅れよ」(マリオーニ)

マリオーニは、8歳の息子がすでに明確な自分の意見を主張することに意外だと思うことがあるそうです。最近の子供たちは、大人が考えるよりも、ずっと先を行っている、と感じると言います。例えば彼はカトリック教会のあり方に異議を持ち、「自分は絶対に洗礼を受けないし、教会にもいかない」と強く主張しているそうです。子供たちは、政治的な話社会的な状況などを、もちろん深くは議論することがなくとも、すでに知識は持っていて、友達同士で会話を交わしているようだと驚いていました。また、その息子さんは仏教に輪廻思想があることを知って、仏教徒になりたがっている、とも笑っていた。

イタリアの社会は、法律に反しない限り(少し反することもありますが)個人の自由、またそれぞれの個性を許す懐の深さがある社会で、親と子供の話し合いは行われても、親が子供の意見に強く立ち入り、その考え方を無理やり押し付けようとすることは稀のように見受けられます。しかしその放任主義的な風潮が学校の「いじめ」や差別につながることにマリオーニは危惧を抱いていました。したがって年々移民が増え、学校にも多くの移民の子供たちが通うようになり、ここ10年、20年で大きく変わった社会の状況に合わせて、学校の再整備が何より必要だと彼女たちは考える。

「それから相変わらずの女性イメージの流布ね。テレビにはいまだにピンナップ的な女性が多く出演して、人々にこれこそが女性のあるべき姿だと印象づける。それはステレオタイプの、男性が御しやすそうな、あまり議論しなさそうな可愛くセクシーな女性。そのイメージには本当にうんざりするわ。また同様にマッチョな男性イメージにもうんざり。男は強くて、どんな状況をも解決しなければならない、というマスキュリンなステレオタイプのイメージも、今後は議論の俎上に載せなければならないと思う。イタリアの男性は、見かけは優しそうでフェミニストのようでも、家庭に戻ると自分中心的にあれこれとパートナーに注文をつけ、采配を振るいたがる人物が多いの。彼らにとっては、自分の中にあるフェミニンな要素ともっと仲良くして、社会の状況を理解するのが一番の課題。私たちはパートナーに恵まれていて、ちょっとした衝突や議論はあっても、家事も子育ても協力できることは幸運なことだけれどね。実際、アート活動をして、仕事もして、子育て、家事を全てこなすなんて不可能だわ」(グロッシ)

「私は女性の妊娠出産に関して、男の子にも小学校から教えるべきだと思うわ。それを知ることは非常に大切なことよ。日頃男性が、ご飯を食べたり、眠ったりするのと同じように、女性は妊娠出産に立ち向かわなければならないんだから。そしてそのために生活を諦める必要がない、ということを男性は学ばなければならないわね。妊娠している女性は、ある意味『聖人』なのよ。社会に最も大きな貢献をしているわけだからね。それなのに、妊娠したからといって、女性だけが全てを失わなければならないなんて、まったく理屈の通らない変な話だと思うわ」(マリオーニ)

イタリアの女性たちは、きっぱりと、臆することなく自分の意見を述べる、というのがわたしの日頃の印象です。また、70年代以降のフェミニズムの主張は、時代とともにスタイルを変化させながら、女性たちに根づいているとも感じます。今年の3月8日、国際女性デーは、ローマでも複数の女性デモが行われ、ローマの交通機関は全面ストップとなりました。社会が勝手に作り上げた「女性のあるべき姿」など偏見はもってのほか、女性の数だけ個性があり、人生がある。そしてそれは改めて考えるまでもない、当たり前で自然なことだとわたしも彼女たちと同様に強く思います。現代の女性たちの人生は冒険に満ちた実験。男性の方々にも、その実験を協力的に、柔軟に、同等に分かち合ってほしい、と常日頃から考える次第です。

今回の『Campo GrossiMagliani(グロッシ・マリアーニ広場)』では、女性アーティストならではの包容力のみならず、人々を巻き込みながら刻々と変化するインスタレーションという、現代社会を見通す鋭いアイデアを何より頼もしく感じました。今後もプロジェクトをいよいよ発展させ、彼女たちの作品であらゆるギャラリーを席巻、そのクリエイティブな包容力で、より多くの人々を巻き込んでほしいと願いながら、フラミニオ通りを気持ちよく、のんびり歩いて帰路へついた、というわけです。

まさに『占拠』のアーキタイプ。野獣と母親が両面に描かれたテントが象徴的だった。写真提供:AlbumArte

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