常に吹き荒れる社会の逆風をものともせず、果敢に、しっかり未来に向かって歩く女性たちを、わたしは殊更に好ましく感じています。日本における、女性たちの個性と自由を阻む社会環境と偏見もさることながら、多少の改善はあるとはいえ、イタリアにおける女性たちを取り巻く社会のあり方もかなり苛酷です。幼い子供を育てながら、刻々と流動するインスタレーションをプロジェクト、まさに「現代社会をコンセプチュアルに表現した」、フェミニストで新進女性アーティスト、Vera Maglioni (ヴェッラ・マリオーニ : 左)、Francesca Grossi (フランチェスカ・グロッシ : 右)のワークショップに参加、話を聞きました。
わたしがこの、ふたりの女性アーティストを何より興味深く思うのは、アート活動をはじめて以来、デュオ、つまりふたり1組のスクラムで作品を創り続けていることです。1982年にローマに生まれた同じ歳の彼女たちは、そもそも家族同士が友人。ほぼ生まれた時からの付き合いなのだそうですが、もちろんその友情は理解できても、仕事の性格上「自己中心的」にならざるを得ない、協調がなかなか難しいアーティストの世界で、10年を超えるデビュー時以来「ひとつの作品」をふたりで創り続ける、というスタイルは特異なケースではないかと思います。
しかも、それぞれは互いに違う人生を歩み、グロッシは中国、マリオーネはフィンランド、そしてミラノに長期に渡って滞在していた時期もあります。しかし物理的な距離のあるその期間も、彼女たちはほぼ毎日、ネット上でコンタクトを取り合い、リサーチやアプローチ、表現の可能性を探っていました。現在では、それぞれにパートナーがいて、グロッシは2歳、マリオーニは8歳の子供を持つ母親でもあります。このようにプライベートではまったく違う生活を送りながらも、デュオのスタイルを崩すことなく精力的に作品を創り続けている。実際、作品に向かう際、意見の食い違いから緊張する場面があっても、毎回時間をかけて、ふたりとも納得するまで、議論を繰り返すと言います。
絵画、ビデオアート、パフォーマンス、音楽など、コンテンポラリーアート全般に渡ってエキジビションを展開するアートスペース、フラミニオ通りから入る路地の閑静な場所にあるAlbumArte。そのオーガナイズが行き届いた、温かみのある心地よいアートスペースで、2月末から2ヶ月間に渡って開かれている『Campo Grossi Maglioni(カンポ・グロッシ・マリオーニ)』は、ヴェラ・マリオーニとフランチェスカ・グロッシの10年を超える仕事の集大成。デビュー当時から彼女たちは、社会的、政治的なテーマを、文化人類学、科学、さらには魔術的な、疑似科学のリサーチを繰り返しながら深めていき、その帰結としてパフォーマンス、インスタレーションで作品として表現。ファミニストのスタンスから作品を創ってきました。さらにそれらの作品は、政治的に厄介な問題に照準が定められることも多く。今回の展覧会は独立した作品としても機能するdispositivi(装置)が多数使われ、観客をも巻き込んで、有機的で躍動感のあるインスターレーションとなりました。
20世紀末の西洋社会において、ポストモダンのコンセプトを明白に定義した、1900年代が生んだ偉大な社会学者ジグムント・バウマン。彼の思考の基盤のひとつに、我々が生きる社会の政治的、経済的、文化的現象の性格を分析し導かれた「流動社会」というコンセプトがある。(略)グロッシ・マリオーニの作品には、バウマンの現代社会の熟考から演繹された結論に似た緊張が見られる。しかもそれらには、社会学的、考古学的リサーチに基づいた文化現象の分析だけではなく、彼女たち独特の、詩的ともいえるリサーチと確認のプロセスが、細部に渡って念入りに表現されているのだ(Gianluca Brogna(ジャンルーカ・ブローニャ:ー展覧会キュレーター)。
Campo Grossi Maglioniと名づけられたこの展覧会、ワークショップに実際に参加して、強く印象づけられたのは、まさにこの「流動性」というものでした。というのも、Occupazione(占拠)、Lo Sguardo che offende (侮辱する視線)、 Macchina Dematerializzate e Gabinetto Spiritico per l’apparizione di corpo dispersi ( 非物質化した機械と、消失した身体を具現するための降霊術の小部屋)の3つのタイトルで表現されたインスタレーションのうち、 『占拠』をテーマとしたスペースの展示は、テント、マットレス、ロープ、リング、三種のファインダー、石など、インスタレーションを構成するエレメントは同じまま、決してその形が固定されることなく、観客が参加するワークショップも含め、時間とともに大幅に再構築され大きく変化。まったく違う形の作品が、流動的に生まれ続けるからです。
例えばわたしが参加したワークショップでは、女性の建築家、絵画修復師が加わって、グロッシ・マリオーニが提示した物語のフィナーレとして「集落における集会の場のアーキタイプ」を創るという課題で進行。たまたまこの日のワークショップの参加者は女性ばかりだったので、ハーモニーのあるしなやかなエネルギーの中、素早く、合理的に、3時間ほどでインスタレーションを再構築が完成。アイデア出しの段階から実際の作業まで、皆がのびのびと自由に意見を述べ合い、それぞれが工夫して進むプロセスは、時間を忘れるクリエイティブで刺激的な経験でもありました。
また、鑑賞者として作品と対峙する場合、クリエーターの世界と鑑賞者の世界は、「作品」という媒体を通した感覚的な融合から一体感が生まれますが、「鑑賞者」が創作のプロセスに巻き込まれ「クリエーター」の一部となり、作品ができるまでのプロセスを「生きる」ことは、全身の躍動を伴う、文字通り「作品と一体化」する体験。グロッシとマリオーネが提案したこの創作プロセスを、わたしはとても寛大でおおらかだと感じた。実際、今回の展覧会は、そのアイデアに高い評価を受け、多くの人々が訪れ、インスタレーションに関わっています。
Campo Grossi Maglioni(カンポ・グロッシ・マリオーニ)、展覧会のタイトルの由来
はじめてこのタイトルを聞いた時、そんな時代に突入したのでは、という個人的な懸念を抱いているせいか、 Campo di Battaglia (闘いの場)、つまり「戦場」を連想したのですが、改めて彼女たちにタイトルのコンセプトを尋ねてみると、さらに包容力のある、『社会』の次元をシンボライズする答えが返ってきました。
「イタリア語の『カンポ』という言葉には、多くの意味があるでしょう? もちろん、銃のファインダーを連想するオブジェを使うインスタレーションをしているから、「戦場」も連想できるし、そのコンセプトをも孕んでいることは確かだけれど。しかし『カンポ』はそもそも野原、競技場、畑、つまりさまざまなことが行われる、単純な『場』、アンビエントという意味がある。キャンプ、例えばノマドのキャンプなど、『野営』をも意味するわよね。分野、フォールド、という意を指す場合もあるし。また、ヴェネチアなど北イタリアの都市では、例えばカンポ・ミラーコリなど、私たちがピアッツァと呼ぶ『広場』をカンポと呼ぶ。私たちはつまり、このスペースを、たくさんの人々が集まって、変化が起こるカンポ −『場』にしたかったの。さらにその『場』を体験することで、人々の内面に微妙な変化が起こると素晴らしいとも思っている。その『カンポ』に私たちの苗字、グロッシ、マリオーニをつけてタイトルにしたわけ」(マリオーニ)
「アーティストとして私たちは状況を提供するのみ、つまり創造のためのコンディションを整えるだけだと考えている。あとは人々と一緒に、今ここにあるインスタレーションを常に流動させる。そしてそれが一番大切なことだと思っているのよ。つまり科学者たちの実験と同じように、この場に化学反応を起こし続けていきたいということ。科学者というのは、何らかの化学反応を起こすために必要なコンディションを作る。マテリアを用意し、温度、湿度、時間など環境を整え実験に挑むわけだから。私たちもいくつかのdispositivi−装置、仕掛けを用意して、毎回、実験的なメソッドを通じて作品を作っていこうと考えている。装置は常に同じエレメント、ロープで構成された小屋、マットレス、テント、石・・・・。そして私たちが創ったオリジナルの三種のファインダー、それがマテリア」(マリオーニ)
「プロジェクトは大きく分けると3つ、『武器/戦争』、『避難/居住』、そして『魔術/幻想』というテーマから構成されているの。『武器/戦争』に関しては、人間と風景の関係を長い間リサーチすることから生まれたテーマ。かつてバジリカータ州のマテーラに滞在、人間と風景の関係をどのような視点から見るかをリサーチしていた時に生まれたプロジェクトよ。マテーラの風景の中、ただ風景を受動的に受け入れるだけでなく、能動的に観察することは、重要な何かをそこに反映させることでもあると感じた。マテーラの洞窟住居はユネスコに世界遺産として登録された、いまや一大観光地となっているけれど、そもそも非常に複雑な、退廃的とも言える歴史を持った石の街で、視界に飛び込んでくるのは、ほとんど荒廃、あるいは蹂躙されたホラーな風景よ。打ち捨てられた石の廃墟と言ってもいいわ」(グロッシ)
「一定の距離を保ってマテーラを見た場合、まるで爆撃されたあとの街の残骸の街、という印象を私たちは抱いたわけ。そもそも美しいと紹介される風景には、二重の視点が隠されている。それを感じたあと、風景との関係における人間の葛藤、つまり闘いの可能性をリサーチしはじめ、プロジェクトに発展させた」(グロッシ)
「そうね、イタリアの風景を考古学的に観た場合、どの地域に行っても、大きな衝撃を受ける遺跡が残っていることは明白よね。しかしそれらは確かに重厚でスペクタクルではあっても、ほとんどが、闘い、葛藤の証言、あるいは恐ろしい出来事の記憶を宿す遺産でもある。ローマのシンボルのコロッセオだって、人間同士の殺し合い、野獣と人との死闘を見世物にする場所だったわけだしね。現代、世界の各地で戦争が終結せず、破壊され、爆撃が繰り返された地域の『ディストピア』、蹂躙された風景が、メディアやSNSで流れているけれど、マテーラを観る視線を深めていくと、同様のディストピアが浮かんでくる」(マリオーニ)
実際、ふたりが言うように「ユネスコの世界遺産」のタグがつけられ、風景にフィルターがかかると、その風景が過ごした陰惨な時間や歴史の凄まじさにまったく反応できなくなることがあります。オーソリティが「美しい」「重要」と定義したものを我々は無条件に受け入れ、自らの体験以前に、「これは美しい、重要な風景だ」と先行してイメージを固定させ錯覚、リアリティとしての自らの感受性を閉じることが往々にしてあります。
※Lo sguardo che offendeー侮辱する視線をマニュアル化したマスクと本のセット。