ナチ・ファシストからイタリアを解放、戦後の民主主義を担ったパルチザンたち:A.N.P.I.と現在

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1943年夏、イタリアのパルチザンたちは本格的に決起。ナチ・ファシストを相手に、都市だけでなく、山間部や森林で、熾烈な武装レジスタンスを繰り広げました。そして1945年、市民を恐怖で打ちのめしたナチ・ファシストの独裁支配からのイタリア解放に貢献、共和国の建国、そして戦後の『民主主義』の確立に大きな功績を残しました。創設から現在に至るまで、そのレジスタンスの魂を営々と受け継ぐ、全国パルチザン協会 A.N.P.I.のローマ県本部に伺い、お話を聞きました。A.N.P.I.は終戦から現在まで留まることなく、アンチファシスト運動の核として重要な活動を続ける大御所です。若い世代の加入者も多く、ローマでは、続々と新世代のパルチザンたちが誕生しはじめています。

難民の人々や貧困に窮する人々、すでに市民としてイタリアで暮らす外国人から「市民として生きる権利」を剥奪する内容を含める反人権法案、憲法違反!と糾弾される『難民・及び国家安全保障政策案 (サルヴィーニ法案)』が下院を通過、学生を含める大勢の人々がセルジォ・マッタレッラ大統領に「サルヴィーニ法を取り消して!」と訴えはじめました。巷では「これじゃまるで独裁国家だ」と、市民たちの抗議活動がいよいよ活発化し、毎日、毎週ローマだけでなく、イタリア全国のどこかの広場でデモが繰り広げられ、各大学では勉強会が開かれるという状況です。そしてその動きは市民だけでなく、各地方自治体の政治にも波及して、ヴィルジニア・ラッジ市長が率いるローマ市議会の採決では、大多数の議員が法案にNOを突きつけ、マテオ・サルヴィーニ内務大臣に平手打ちを食らわす形になりました。

このように、アンチ・サルヴィーニ法案ムーブメントがみるみる膨らむなか、ひときわ目覚ましい活躍を見せるのが、イタリアのアンチファシストの象徴、全国パルチザン協会A.N.P.I. (L’Associazione Nazionale Partigiani d’Italia) です。ここ数ヶ月、サルヴィーニ内務大臣や極右グループの暴力的な行動、そして発言に、exパルチザンをはじめとするA.N.P.I.のメンバーたちは、力強い声で、断固とした反意を表明し続けています。個人的には、歳を経てもなお、変わることなき信念を胸に、かくしゃくと闘い続けるイタリアのexパルチザンの方々を、「かっこいい」と常々感じていたので、憧憬の念を新たにした次第です。そういうわけで、多少ドキドキしながらも意を決して、A.N.P.I.のローマ県本部を訪ねることにしました。

ANPIのローマ県本部がある『記憶と歴史の家』の入り口には、イタリア建国のために開催された『国民投票』で共和国派の勝利を伝える新聞記事と、建国の際の署名の写真が玄関に飾られています。

イタリアのレジスタンスとA.N.P.I.

A.N.P.I.のローマ県本部は、その突き当たりに広々とした森を抱く閑静な路地、Casa della momoria e della storia (記憶と歴史の家)の一画にあります。このこじんまりとした資料館及び美術館は、ローマにおける1900年代の歴史と記憶、そして文化を人々にとどめおくために創設された市営機関で、余談にはなりますが、かつてローマのユダヤの人々のことを調べていた頃に、「ユダヤの人々による難民支援」のミーティングを聞きに訪れたことがありました。今回A.N.P.I.に伺った際、2Fの展覧スペースでは、ファシスト党による『人種法』を発表する、1938年のラ・スタンパ紙の記事を強調する現代アートのインスタレーションが展示され、まさに現在のイタリアを暗示、人々の記憶の底に眠る悲劇を、今に蘇らせる光景でした。

さて、A.N.P.I.のローマ県本部の責任者である、ファブリツィオ・デ・サンクティス(Fabrizio de Sanctis)氏のお話を伺う前に、A.N.P.I.のホームページをも参考にさせていただきながら、イタリアのレジスタンス運動を、ざっと要約してみたい、と思います。

年齢、男女、人種、職種を問わず、今まで日常を暮らしていた一般の市民たちが、ナチ・ファシズムの血塗れの圧政に、敢然と自発的に反旗を翻し、それぞれに武器を手に、山中や森林でのゲリラ戦を含める徹底的なレジスタンスを繰り広げた歴史は、学者たちに研究し尽くされ、映画や小説、そして数々のドキュメンタリーとして多く残されているので、ここではエッセンスのみにとどめたいと思います。

第2次世界大戦中、ナチ・ファシストと壮絶なレジスタンスを繰り広げたパルチザンたちは、1860年にイタリア統一を果たしたジュゼッペ・ガリバルディ率いる千人隊の活躍を彷彿とさせる、ある種の『革命』を果たした英雄たちとして、そののちのイタリアの若者たちの精神性に大きな影響を及ぼすことになりました。イタリアをナチ・ファシズムから歓喜のうちに解放し、1946年の国民投票を経て国民主権を確認、民主主義を政体としたイタリア共和国の建国は、パルチザンたち、そして彼らを支えた市民の手で勝ち獲られたものです。イタリアの終戦記念日に当たるのは4月25日ですが、その日は終戦ではなく『解放記念日』として、ヴィットリオ・エマニエーレ2世記念堂、国父の祭壇を前に、毎年セレモニーが行われます。

したがってイタリアは大戦の敗戦国でありながら、少年兵たちを含む夥しい犠牲を強いた壮絶なレジスタンスを背景に、ムッソリーニを捕らえ、人民裁判で死刑に処したパルチザンと市民の手で、『民主主義』という政体を掴んだのだ、という意識が、非常に強いように思います。連合国軍はそれを補助する役割を果たしたに過ぎない、ぐらいの認識です。そしてパルチザンの存在は、眼前に広がる荒廃した国土を前に、市民たちに再興の歓びと希望を与えるのみならず、国際政治の場においても、イタリアが誇りを失わず交渉に挑むための心理的なシンボルとして、重要な役割を果たしています。なにより国政に関わる政治家たちの多くは、レジスタンスで闘ったパルチザンたちでした。一方、連合国軍であった国家、米国、英国は、といえば、イタリアの国民が主権を握った戦後間もない時期から、じわり、とのちにグラディオとして発展するオぺレーションの布石を張り巡らしはじめたわけです。

さて、第2次世界大戦中、ナチスドイツの侵攻を受けた欧州各国では、多くのレジスタンス運動が繰り広げられましたが、その中で最も広範囲に渡り、全国規模の騒乱となったイタリアのレジスタンスは、ムッソリーニがクーデターにより主席宰相を解任され独裁権を返上、連合国軍との停戦が確認された1943年の夏に本格化することになります。同年9月9日に、当時のアンチファシストの政治勢力、『イタリア共産党』、『イタリア社会党』、『キリスト教民主党』、『自由党』、『行動党』などが連帯して全国解放委員会(CLN)を組織、9月8日に一気にイタリア全国になだれ込み、イタリア各地を占領したナチスドイツ軍との間に繰り広げられた、20ヶ月に渡る武装解放闘争の中核となることになりました。この時、80万余のイタリア兵はといえば、政府をはじめヴィットリオ・エマヌエーレ3世の指示を失って、統制を失い武装を解除させられた上、ナチスに捕囚されています。その一部はレジスタンスを試みましたが、結果、強制収容所(Lager)に連行されました。

前述したように、レジスタンス運動を担うパルチザンたちは異種混交編成で、個々の思想もまちまちでしたが、「ナチファシズムと闘い、外国、あるいは自国の敵から祖国を解放する」という共通の目標で一致団結して連帯。年齢、貧富の差、男女、宗教の違い、出生した地域、政治思想に関係なく「打倒・ナチファシズム」を合言葉に、それぞれが銃を手にナチスドイツ軍占領に抵抗しています。また、そのレジスタンスの脇を、ナチスにより幽閉から解放されたムッソリーニが、北イタリアのSalòに樹立したイタリア社会共和国に与することを拒絶した、戦闘経験豊富なイタリア兵有志が固めたのだそうです。

ミラノ解放闘争時、行動党に加わったパルチザンたち。Italian partisans associated with the Partito d’Azione during the liberation of Milan. (Photo by Keystone/Getty Images) レジスタンスでは、女性たちも大きな功績を残しています。

1943年10月16日早朝、ローマを占領していたナチスは、ローマのゲットーで暮らしていたユダヤの人々から全財産を没収した上、1000人以上の人々をアウシュビッツへと連行。レジスタンスに関わるパルチザンたちを思想犯としてしらみ潰しに捕らえ、収容所へと連れ去り拷問、暴虐の限りを尽くしました。その時代のローマのレジスタンスのメモリアルとして、『バルベリーニ宮』正面玄関から、やや右寄りの路地、ラッセーラ通りを『トレビの泉』方面に下る途中に、銃弾を浴びた穴だらけの建物があるのですが、それは第2次世界大戦終焉間近の1944年3月23日、パルチザングループ『GAP』が首都奪還を目指し、ナチスドイツ軍の司令部を襲撃、33人のドイツ兵を殺害した現場として遺された建物です。

しかしこの『GAP』によるナチスドイツ軍襲撃はそこで終わることなく、残酷な速攻報復を受けることになった。襲撃成功翌日の3月24日、ドイツ軍はパルチザンへの『見せしめ』として、当時収容所に捕囚されていた、思想犯とされる民間人を含むイタリア人335人を無差別に銃殺しています。

このようなナチスドイツ軍のテロによる占領下、全国解放委員会CLNを中核とするレジスタンスはイタリア全国に拡大。やがて山間部で闘う最初の武装パルチザングループが誕生し、多くの市民たちの賛意と支持を得ることになりました。数多くのパルチザンがナチスに連れ去られ、拷問を受け、強制収容所に連行され、銃殺されるという悲劇を背景に、市民たちの間ではレジスタンスが確固とした「決意」へと成長していきます。やがてイタリアの各県、各地域の谷や山間部でパルチザンたちが育成されるようになり、初期の武装パルチザングループから発展、精密にオーガナイズされた旅団が形成されていくことになったのです。

なお、山間部のゲリラ戦を繰り広げたパルチザングループには有名な『ガリバルディ旅団(Garibardi)』をはじめ、『正義と解放(Giustizia e Libertà)』『マッテオッティ(Matteotti)』『マッチィーニ(Mazzini)』『アウトノメ(Autonome)』などがあり、一方都市部では、『SAP 』や『GAP』がパルチザンのリクルート、及びプロパガンダ、サボタージュなど、都市部での闘争を担っていました。また、GDD (女性防衛グループ)、FdG (青年前線)という政治機構が、レジスタンスの脇を占め重要な役割を果たしています。

激しい攻防が繰り広げられた1943年の9月8日から1945年の4月までに、30万人(うち3万5千人が女性)のパルチザンのうち、1072人が戦場で亡くなり、4653人が捕らえられ拷問にかけられ、2750人が強制収容所に連行され、2812人が銃殺、あるいは絞首刑になっています。またナチ・ファシストに連れ去られた市民4万人のうち、家に戻ることができたのはたったの4千人だったそうです。

その、夥しい犠牲を強いた激しいレジスタンスを経た1944年6月6日、北イタリアに先駆けて闘争が終結したローマで、自由と尊厳をかけて闘ったパルチザンたちによるアソシエーション、全国パルチザン協会A.N.P.I.は設立されました。1945年には、ナチ・ファシストとの攻防がローマより9ヶ月も長引いた北イタリア、さらに全国のパルチザンたちが参入。それから70余年を経た現在のA.N.P.I.は、現実にレジスタンスに参加したexパルチザンだけでなく、レジスタンスに共鳴する、多くの新しい世代のメンバーで構成されています。また、2010年には「レジスタンスは過去の記憶などではなく、現在、実践しなければならないこと」(ダッチャ・マライーニ)と、多くの演劇人、アーティスト、作家たちが加入することになりました。

そして2018年の今、反人権法案と刻印される『サルヴィーニ法案』が下院で可決した際、まず最初に「憲法違反の法律!」と声をあげたのがA.N.P.I.でした。実際 、法案は「外国人の亡命を受け入れる」イタリア共和国憲法10条、さらには「推定無罪」を定める24条に明らかに違反するものであり、このA.N.P.I.の声をきっかけに、「われわれが、学校で憲法を学ぶことのできる授業がもっと必要だ」と主張した高校生たちもいます。また、難民の人々を受け入れることで過疎に悩む街を生き返らせ、世界中から賞賛を受けたリアーチェ市長、ミンモ・ルカーノの不条理な逮捕劇の際には、『5つ星運動』に「サルヴィーニを止めて欲しい」とA.N.P.I.の代表が直訴。ローマの伝統的な左派拠点、サン・ロレンツォ地区で少女が外国人に殺害された事件を極右グループが利用、暴力的な「外国人排斥デモ」を敢行した際も、exパルチザンであるティーナ・コスタ氏を中心に広場を占拠して、極右グループの地区侵入を阻止しています。

さらに12月1日には、A.N.P.I.とCGIL(イタリアの伝統的な労働組合)、Arci(アンチファシスト文化を広める全国規模のアソシエーション)、フェミニスト、住居の権利を訴える『占拠』有志グループ、外国人が一致団結、連帯して、ローマでUNO DI NOI(われわれのうちのひとり)と名付けた大規模抗議集会を開催しました。デモの最終到着点であった、国父の祭壇であり、無名兵士の墓でもあるヴィットリオ・エマニュエーレ2世記念堂脇の広場における、ティーナ・コスタ氏の説得力ある、力強い演説には満場の拍手が湧き上がった。参加者には若い世代も多く、パルチザンのスピリットはこうして現代まで営々と受け継がれ、皆が誇りに思っていることを、強く感じました。以下は演説の最後の30秒を切り取ったものです。

※字幕ボタンで日本語が表示されます。なお演説の途中、コスタ氏が使った「風が鳴る」という表現は、かつてソ連から共産主義の影響が押し寄せた際、「風が鳴っている」と独特の言い回しをしたことに由来するのだそうです。

さて、ここから伝統あるA.N.P.I.のローマ県本部の責任者であるファブリツィオ・デ・サンクティス氏にA.N.P.I.のスピリット、そして現代のレジスタンスについて、お話を伺うことにします。デ・サンクティス氏が始終にこやかに、穏やかに語る、びくとも揺るがぬ信念に触れ、イタリアのアンチファシストの底力を見たような気持ちになりました。

▶︎Interview:Fabrizio De Sanctis

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