’77ムーブメントとふたつの魂
この’77のムーブメントはもちろん、68年に団結した学生と工場労働者で構成された、プロレタリアートの絶大な権力を誇る資本家たちとの階級闘争の流れを汲み、それがモデルともなっていますが、77年の極左運動の中核にいた青年たちは、68年のムーブメントは「豊かなアイデアがあったが、プロジェクトが足りなかったために失敗した」と考えていたそうです。一方、現代の研究では77年のムーブメントには「知性が欠如し、より卑俗であった」と評論されることもあるのです。プロレタリアートのムーブメントの核から、いつしか工場労働者が後退し、主人公が、学生や職のない若者たちとなった時代です。
この時代、『労働者の力』から発展して支持を拡大した 『労働者による自治』は、学生たちに人気の雑誌『Rosso (赤)』を発行。工場労働者たちにはネオファシストである資本家の下、予告なくストライキ、あるいはサボタージュを敢行するなど、攻撃的な労働闘争を推奨していました。彼らにとって「暴力を諦めることは新しい世界を諦めること」であり、武装闘争による政治、つまり戦争を超えずにはユートピアへは行き着かない、と考える『赤い旅団』と同じ方向性を維持していたのです。
若者たちの間に、このような『武装革命』の機運が高まる中、’77ムーブメントのもうひとつの重要な側面は、『人権』というコンセプトに大きなスポットが当たった、という事実でもあります。
そして、その『人権運動』で大きな役割を果たしたのが、前述した、イタリアの『人権の父』と呼ばれるマルコ・パンネッラが率いるPartito Radicale 『急進党』であり、74年に国民投票で『離婚』を、77年には『中絶』合法化など、非暴力主義 (ガンジー主義)を貫いて『人権』の保護、『選択の自由』を強く訴え、女性の権利、ホモセクシュアルの権利、安楽死問題、大麻の合法化、難民問題など、多岐にわたる『人権問題』に署名運動やハンストで徹底的に闘っています。この『急進党』のシンボルであったパンネッラが生涯をかけて取り組み、訴え続けてきたマイノリティの権利の保護が、現在のイタリアの『人権』に関する議論の基盤になったと言っても過言ではありません。
さらにこの頃になると、『武装革命』を目指す極左グループとは一線を画す、77年ならではの重要なユートピア・ムーブメントが起きています。これはイタリアにブリティッシュ&アメリカン・パンクが流入したと同時に巻き起こった現象で、フリークス( frichettoni:ヒッピー)、フラワーチルドレン、ゲイの人々、アナーキスト、自由主義者、疎外された人々、フェミニストなど、てんでばらばらに多様な人々が集まって、コスプレで街を練り歩き、歌ったり、踊ったり、芝居をしたり、パフォーマンスをしたり、と自由にクリエイティブにデモを行う『Indiani Metropolitani (メトロポリスのインディアンたち)』と呼ばれる若者たちによるカウンターカルチャーの出現でした。この現象は、そもそもはミラノの雑誌『裸の王様』が主催したフェスティバルで繰り広げられた、平和的な乱痴気騒ぎがイタリア全国に広がったもので、ウッドストックのコンセプトからも大きく影響を受けているそうです。
その、『メトロポリスのインディアンたち』は、好き勝手なコスチュームを纏って集会に参加、と思えば、ピエロのメイクで裸で踊ったり、広場や路上で芝居やパフォーマンスをはじめたり、と突飛な方法で自分たちの権利を主張。スローガンとして『Pane e Rosa (パンと薔薇) 』を叫び、『革命』はサラリーや食べるものだけではなく、自分たちに歓喜をももたらさなければならない、と訴えました。この『インディアンたち』にはリーダーが存在せず、すべての行動に個人ひとりひとりが責任を負わなければならない、という暗黙の約束事があったのだそうです。
彼らの特徴は、といえば、まずクリエイティブであり、非合法をものともせず、自然発生的に集まって、ほぼ非暴力を貫いた。さらにその表現は、どこか皮肉っぽく、毒のある笑いを特徴としていました。考えてみれば、体裁は大きく変わっても、彼らの精神性、皮肉っぽいセンスは現代イタリアで活動するストリートアーティストたちの性格に、かなり近いかもしれません。
この『メトロポリタンのインディアンたち』のアイデアは、共産主義と個人的な欲求をミックスして構築された独自のもので、既成概念に囚われない表現による『スペースの占拠』の精神は、やがて『イタリア共産党』のローマ文化評議委員レナート・ニコリーニがプロジェクトして一世を風靡した、ローマの街中がストリートパフォーマンスの劇場と化した『エスターテ・ロマーナ(ローマの夏)』に受け継がれ、現在では、MAAMやAngelo maiなど『文化スペース占拠』のコンセプトとして引き継がれています。
また、郊外のスラムと化した地区では、国家に見放され、数々の犯罪に手を染めながら、ヘロインなどの強い麻薬に溺れるルンペンプロレタリアートを助けるために、『労働者による自治』や『継続する闘争』の極左グループメンバーが、荒れ果てるままに放ったらかしにされている廃屋を、次々に『占拠』していました。若者たちは困窮者の住居を確保したのち、近くの電線から電気を不法に引いたり、人が暮らせる状態に修復したりと、ヘロインなどの強い麻薬から困窮者を引き離すために腐心しています。極左グループの若者たちは本来、弱者を助けるべき『イタリア共産党』が、国政の場で存在感を示すことに躍起になり、その役割を怠っていると感じ、資本家より国家より『キリスト教民主党』より何より、『イタリア共産党』こそ憎悪すべき敵、とみなしていたそうです。
そういうわけで77年は、武装によって国家を攻撃することによって『ユートピア』を実現しようとする流れと、ほぼ平和主義を貫きながら、自由でクリエイティブに自分たちの権利を主張して『ユートピア』を実現しようとするふたつの大きな流れに大きく分かれていた、ということです。しかし、その根底に流れる共通の理念は「(サラリーだけを目標に奴隷のような)仕事の拒絶」「再び我々の手にすべてを取り戻す」「自分自身で、自分自身を評価する(僕らには価値がある)」というものでもありました。
自らを「プロレタリアート」と自認する彼らは、プロレタリアートにも贅沢をする権利がある、とスーパーマーケットで、高級食品、キャビアやシャンパン、あるいは本屋でも万引きをして欲しいものを確保。さらには映画館、劇場にもチケットを買わずに忍び込み、バス、汽車、電車など交通機関もタダ乗りという具合で、それを『Spese Proletarieープロレタリア経費』と呼んで、ちゃっかり正当化。また、映画館をまるごと占拠して、無料で映画を市民に解放する、というアクションも度々起こし、現在、ローマで大きな支持を得る、占拠した広場で無料映画上映を企画するチネマ・アメリカのルーツともなっています。
さらにこの時代を代表すべき新しいメディアとして、インディペンデント・ラジオの発展がありました。これは76年に地上波が自由化されたことで、学生たちが次々にラジオ局を創設。地区の若者たちの気持ちを音楽とパンクな議論でひとつに結んだ、ボローニャの伝説のラジオ・アリーチェ(77年に当局に踏み込まれて解散)をはじめ、ラジオ・オンダロッサ、ラジオ・チッタフトゥーロ、エピチェントロ、ラジオ・ラディカーレ(『急進党』のラジオ部門)などがあり、現在でも継続。このインディペンデント・ラジオの登場で、市民は初めて議会の質疑を自分の耳で聴けるようになり、政治をライブで知ることができるようになりました。
※ボブ・マーレー&ウェイラーズのこの曲も77年だったんです。1980年にはミラノのサン・シーロ・スタジアムでイタリア全国から10万人を集めてのコンサートが開かれ、語り草となっています。
『赤い旅団』マリオ・モレッティが語る’77ムーブメント
ロッサーナ・ロッサンダは、マリオ・モレッティへのインタビューで、「77年のムーブメントは、あなたたちの誰かが武器を使って激化させたんじゃないのか」「ムーブメントの指揮を執ったのは誰なのか」と、76年を境にアクションを先鋭化させた『赤い旅団』に疑問を呈し、学生たちのムーブメントに『旅団』の介入があったのでは、と厳しく質問をしています。しかしモレッティは「指揮をした人間などはいないよ。誰もがメトロポリタンで闘う反体制者、『プロレタリアート共産党』のメンバーだったんだから」と曖昧に答えている。
興味深いのは、モレッティが77年のムーブメントを「68年のムーブメントとは明らかに違う若者たちによる抗議運動であった」「70年代中盤に入ると、ムーブメントの最もラディカルな存在は、『工場労働者』ではなく、ウァルター・アラシアのような『学生』や、区域の若者たちへと変わっていった」とも断言していることです。
「では『赤い旅団』は、工場での闘いは捨ててしまったのか。そもそも工場が『赤い旅団』の核ではなかったのか。72~73年までは、アンタゴニストー反体制者は、労働階級のアヴァンギャルドな過激派という位置づけで、それがイタリアの極左集団の伝統的な特徴だったが、77年になると他のヨーロッパの武装グループと全く同じになってしまったのでは?」という問いには、「工場は闘いの場としては狭すぎるようになった。世の中に緊張を生むことで権力を解体させ、機能を麻痺させようという目標が、僕たちのストラテジーに変わっていったんだ」とモレッティは答えている。さらに「自分には77 年のムーブメントはまったく掴み所がなく、理解できない」とも言っています。確かに『メトロポリタンのインディアンたち』をモレッティが理解して、共感したとは到底想像できません。
クルチョ、フランチェスキーニが逮捕され、マラ・カゴールが死亡したあと、『赤い旅団』のメンタリティも大きく変わり、『市民戦争』にまで発展した過激な’77ムーブメントから大きな支持を得て、多くのメンバーをリクルートしてもいる。68年のムーブメントとは世代が違う多くの若者が『赤い旅団』に参入することになりました。
77年を境に、もはや『赤い旅団』は戦中戦後、ファシズムを相手に闘い続けた共産主義パルチザンの伝統からは、遥かにかけ離れた存在、つまり、ただのテロリスト集団に変遷した、ということです。