『鉛の時代』:その後のイタリアを変えた55日間、時代の深層に刻み込まれたアルド・モーロとその理想 Part1.

Anni di piombo Cultura Deep Roma letteratura

シグナル

1978年3月16日、ファーニ通りで5人の警護官が惨殺され、アルド・モーロが誘拐されたその日のうちに、『ロッジャP2』のメンバーである軍部、内務省など、各種諜報機関の幹部とともに、タスクフォース(Comitato politico-tecnico-operativo)を形成した内務大臣フランチェスコ・コッシーガは、事件の知らせに蒼白になりながら「わたしは政治的に死んだ」と呟いたそうです(当時の秘書、上院議員ルイジ・ザンダ談)。

コッシーガは、その日の夕方、22人の指名手配テロリストのモノクロの写真をさっそく発表しましたが、その22人の写真をすべて見てみよう、と1978年3月17日の朝刊の記事を探すうち、「旅団の影にドイツ赤軍?」とタイトルがついたコリエレ・デッラ・セーラ紙の記事にたどりつき、一瞬、あれ? と目を疑うことになりました。

その指名手配のテロリスト写真は、のちに「まったく捜査の手がかりにはならない、何の意味もない写真」と酷評された代物で、すでに刑務所に入っていたり、かつて当局のスパイとして『旅団』に潜入していた人物など、事件には明らかに無関係な人物とともに、『赤い旅団』幹部マリオ・モレッティ、プロスペーロ・ガリナーリ、フランコ・ボニソーリも、本人が見たら笑うであろう、別人にしか見えない写真が並んでいます。

ところがその、「何の意味もない」はずの22人のひとりに、ジュスティーノ・デ・ヴォノがさりげなく混じっていたのです。

デ・ヴォノという人物は、マルコ・ダミラーノ、パオロ・クッキアレッリなど、ベテランのジャーナリストたちが、「真のモーロ殺害犯」と推定する、近年になって改めて名前が浮上した人物です。デ・ヴォノは、かつて南米で、傭兵として戦闘に加わって腕を磨いたのち、イタリアに戻っても非道な犯罪を繰り返し、たちまちのうちに収監されましたが、途中で脱獄。世間に舞い戻ってからも、凶悪な犯罪を繰り返していました。

この人物は、多少は『赤い旅団』に共感していたかもしれませんが、極左思想に傾倒していた、というわけではなく、むしろ「暴力性」を共通項に、その周辺に存在していたのだと思いますし、『旅団』よりむしろ、カラブリア・マフィア「ンドゥランゲタ」と親密だったことが、明らかになっています。

また、前項にも書きましたが、ファーニ通りの殺戮直後、自宅のベランダから、たまたま現場を撮影したカメラマンが、そのフィルムを恋人であるジャーナリストに手渡しながら、その後40年近く消失していたという経緯がありました。2016年、その消えたフィルムが、Formiche.netという政治・経済・地政学ニュースサイトに突然現れて、騒ぎになったことがあり、その写真のいくつかのカットに、デ・ヴォノに酷似した人物が写っていたことが判明していますから、それがもし本当に本人であるなら、デ・ヴォノは、『モーロ事件』の幕開けからフィナーレまで関わっていた可能性があるわけです。

ところで、オフィシャルにはマリオ・モレッティが「モーロ殺害犯」とされているにも関わらず、なぜデ・ヴォノの名前が、今頃になって浮上したのか、というと、まず、遺体に残された銃痕の数、および血痕の有り様が、モレッティをはじめとする『赤い旅団』メンバーそれぞれの供述とは明らかに食い違い、どうにも解読できないミステリーとなっていたからです。

そこに、デ・ヴォノをよく知る人物から、「デ・ヴォノは急所を狙わず、出血多量によってじわじわと命の灯火を消すように、心臓の周囲を薔薇の花のように打ち抜く。それがこの殺人鬼の独特の殺しのサインだ」という証言があり、第3回『政府議会モーロ事件調査委員会』のレポートにも記されることになりました。モーロの遺体には、デ・ヴォノの、その殺しのサインである薔薇の花が、11発の銃痕とともに厳然と刻み込まれているのです。

そこで過去の新聞を検索してみると、すでに1978年5月13日の時点で、シチリア、メッシーナの地方紙、ガゼッタ・デル・スッド紙が「デ・ヴォノがモーロの殺害者ひとりである可能性」に触れている記事が見つかりました。当時は、警察もデ・ヴォノに目星をつけ、殺害犯として捜査したようですが(formiche.net)、その後の裁判で『赤い旅団』の単独犯行との判決が下り、デ・ヴォノの名前はいつの間にか、事件の周囲から消えてしまったわけです。

しかし、ファーニ事件が起こった翌日の朝刊に、現在、最有力殺害実行犯と目される人物の、その名前と写真が公表されていたとは、暗示というか、シグナルというか、狐につままれたような気持ちになります。さらに、デ・ヴォノらしき人物が写っている、いったん消えていたはずのフィルムを、誰が、何を意図して、2016年になって突如として公開しようと考えたのか、その背景も曖昧で(情報源秘匿のルールもあるのでしょうが)釈然としません。

なお、ジュスティーノ・デ・ヴォノはその後、カセルタで獄中死したことを『政府議会モーロ事件調査委員会』がレポートしていますが、デ・ヴォノが埋葬された墓地が見つからず、その死に確実な証拠がないことをformiche.netは、疑問視しています。

さらに、事件後のファーニ通りでは、デ・ヴォノ以外に、「ンドゥランゲタ」の有力ボスのひとり、アントニオ・ニルタが現場検証を眺めている姿を、別のカメラマンが撮影しています。しかしそのニルタも2015年に亡くなっておりーもちろん、これは何の裏付けもない憶測に過ぎませんがーひょっとすると、その死の時期が、消えた写真の再流出に何らかの関係があるのかもしれません。

事件の間、ローマの主要道路は封鎖され、しらみ潰しの捜査が繰り広げられました。このため、当時の若者たちはテロリストと間違われるのが嫌で、外に出かけず、家に閉じこもるようになったそうです。immaginidelnovecento.fondazionegramsci.orgより。

さて、ようやくここからは、モーロが誘拐されていた55日間を、時系列で追って行くことにします。まずは、ファーニ通りの惨劇の直後に話を戻さなければなりません。

3月16日、9時2分に起こった、その痛ましい事件の直後、瞬く間にテレビ、ラジオで速報が流れ、今までに経験したことがないほどの衝撃が、イタリア全土に走ったことは以前の項に記した通りです。

その後、まずニュースとして流れたのは、5人の警護官を惨殺し、モーロを連れ去り逃走した『赤い旅団』の3台の車のうち1台が、現場から100mしか離れていないリチニオ・カルヴォ通りで、9時27分に発見されたことでした。そしてこの車が見つかった場所が、いよいよ事件の謎を深めることになったのです。

というのも、残りの2台もまた、3月17日1台3月19日1台と、同じリチニオ・カルヴォ通りで発見されることになったからです。日を替えて、1台ずつ同じ場所で逃走車が発見されるということは、いたって異常な現象です。

当然のことですが、このときのローマには4300人もの警察官、カラビニエリが導入され、主要道路は封鎖のうえ、しらみ潰しの捜査が行われていましたから、同じ通りに駐車されていた逃走車が、毎日見逃されるとは考えられません。また、夜間のローマには、『旅団』が闇に紛れてこっそり移動し、意味ありげにリチニオ・カルヴォ通りに車を駐車していった、と考えることは困難な厳戒態勢が敷かれていました。

そうこうするうちに、事件から2日後の3月18日、イル・メッサッジェーロ紙のローマ本社に匿名の電話があり、『赤い旅団』からの最初の犯行声明が隠されている場所が告げられることになります。

『旅団』はその声明で、「ファーニ通りの警護官5人の殺害及びモーロ誘拐の全責任を負うことを表明」すると同時に、『キリスト教民主党』のリーダーの『人民裁判』を行うことを宣言。声明が入っていた封筒には、国家の最重要人物から、たった120秒の間に「政治犯」となったモーロの写真が同封されていました。

なお、この写真はあまりにも有名で、その後の人々が、モーロという人物を思い浮かべる際の、まず最初のイメージとして刻印され、ウェブ上でも無数に見つかりますが、その姿は、たとえ多くの反発を受けていたとしても、「敵対から協調」へと世界を動かそうとダイナミックな理想を持って生きた、その人生とはあまりにかけ離れ、人としての尊厳を著しく傷つけると考えるため、この項では一切引用しないことにします。

あえて描写するならば、突然「極悪テロリスト」の象徴となった『赤い旅団』の五芒星のロゴを背景に、たとえビーチであっても、ダブルの暗い色のスーツネクタイという、エレガントなスタイルを常に崩さなかったアルド・モーロが、下着が覗くシャツ姿で小首を傾げる、いかにも『旅団』の手に落ちた囚人、という風情の写真です。日頃のモーロを知る当時の人々にとって、その写真は「こんなことが現実に起こるのか」と信じがたく、悲しく、恐ろしく、残酷に映ったと察します。

「(その写真を)テレビ画面で見ると、モーロがもともと漂わせていた疲労深い倦怠がいっそう顕著のように思えたが、ただその目と唇に、皮肉軽蔑が見え隠れしている。しかし(それらは)すぐにその疲労と倦怠に霞んでしまうのだ」

レオナルド・シャーシャは『旅団』から送られてきた写真に映るモーロの表情を、そう描写しています。思い起こせばその写真をはじめて見た時のわたしも、その表情に疲れは認めても、口元に軽蔑というか、自虐というか、かすかな苦笑いを浮かべているような印象を持ちました。また今となっては、グラディオの存在はもちろん、『鉛の時代』を巡る忌まわしい薄暗さ知っていたモーロは、自分が巻き込まれた惨劇の背景を、おぼろげながらも瞬時に理解していたのではないか、とも考えます。

これはのちに明らかになることですが、『旅団』の犯行声明とモーロの写真が隠されている場所が新聞社に告げられた3月18日には、『旅団』幹部マリオ・モレッティバルバラ・バルツェラーニローマ拠点であったグラドリ通りのアパートの隣人から、「夜中にタイプライターの音がうるさい」と通報があり、警察が大挙して捜査に訪れています。

警察が押しかけたその時、ふたりは玄関先でピストルを構えながら、息を潜めていたそうですが、警察隊は、国中が恐怖に震え上がる非常時だというのに、無理矢理アパートに押し入ることもなく、しばらくベルを鳴らし続けたのち、すごすごと立ち去ることになりました。

『政府議会モーロ事件調査委員会』のジェーロ・グラッシによると、実はその日、警察隊はグラドリ通り周辺の、20~30件の建造物を取り調べており、モレッティとバルツェラーニが潜むアパートの扉を叩いた警察隊のリーダーは、のちにSISDE(内務省諜報局)の副司令官となる『P2』メンバーで、リーチオ・ジェッリに情報を流す役割を担っていたエリオ・チョッパという人物だったそうです。またこの時期、多少なりとも怪しいアパートには、当然のごとく警察隊が押し入っての強制捜査が命じられましたが、グラドリ通りのこのアパートの捜査には、アンドレオッティの通達で、強制捜査直前にストップがかかったと言います。

さらに、この時点で不思議に感じるのは、モレッティにしてもバルツェラーニにしても、追手がすぐそばまで近づいているのを知りながら、1ヶ月後の4月18日に、その隠れ家が偶然(?)に発見されるまで、同じアパートに居続けたことです。そこで「国を揺るがすテロリストにしては不用心に過ぎるのではないか、彼らははじめから、自分たちが逮捕されないことを知っていたのではないか」、との疑問が根強く語られることになるわけです。

前項にも書きましたが、偶然なのか、必然なのか、モレッティとバルツェラーニの隠れ家があったグラドリ通り96番地のアパートのほとんどは、ファーニ通りの殺戮当日、いつもは花屋のトラックが店を開いていた(夜間のうちにトラックのタイヤが『旅団』によりナイフで切られ、16日には店が出せずにいました)ファーニ通りとストレーザ通りの交差点に、16日の朝に限って駐車されていたオースティン・モリスの持ち主であった、SISDE(内務省諜報局)の不動産を管理する不動産会社所有でした。さらにその不動産会社は、他にもグラドリ通りの6つのアパートを所有していたそうです。

なお、この袋小路(というか、一度入って前進すると同じ場所に戻る円形の道)となっている狭い私道であるグラドリ通りは、当時、夜になると売春やドラッグの取引が行われる、物騒な通りとして有名だったそうです。夜になると暗闇になる、そのミクロ・クリミナルな通りには、内務省のシークレット・サービスだけではなく、警察やカラビニエリの関係者が多く住んでいたことが、のちの調査で明らかになっており、モレッティと同郷(ミラノーセスト・サン・ジョヴァンニ)である、この通りに住むカラビニエリが、毎朝モレッティとともに煙草を吸いながら、通りで談笑していた様子が目撃されています。

いずれにしても、このグラドリというは、事件において重要な役割を負い、55日の間に何度か物議を醸すことになります。

投稿の内容からは多少逸れますが、グラドリ通りがローマのどの辺りか、というと、カッシア通りから西に入る路地で、皇帝ネロの墓標(実はプブリオ・ヴィビオ・マリアーノとその夫人レジニア・マッシマが埋葬されており、本物の皇帝ネロの墓標は、12世紀、教皇パスクアーレ2世により破壊されています)のすぐ傍となります。写真はジョバン・バティスタ・ピラネージの作品『ネロの墓標』。

▶︎エキスパートの参入

RSSの登録はこちらから