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Sacro Gra Ⅱ 映画ができるまで

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「Sacro Gra」には、内部に巣くい、何十年もかけて育った棕櫚の樹を、一気に食い尽くしてしまう昆虫、Punteruolo Rosso。その虫から棕櫚を救うために研究を続ける、アルケミストのような市井の学者が、を手に、淡々とひとりで語るシーンがあります。

「Punteruolo Rosso(プンテルオロ・ロッソ)。 これこそが 棕櫚の真の敵なんだ。彼らは実によくオーガナイズされた社会構造を持っている。どんなに遠くの獲物の匂いでも嗅ぎ分けることのできる、特に嗅覚にすぐれた何匹かの虫がいて、ひとつのグループを構成するためによく似た仲間を呼び集める。そして(集団で)卵を産みつけたあと、その『(棕櫚)』、の植民化を実現する。ひたすら食い尽くし、それを破壊へと向かわせるためにね。彼らは『個』のことなど、どうでもいいんだよ。完全に破壊し尽くすだけ破壊し尽くして終わり。そしてまた、新たなサイクルがはじまるというわけだ。これはしかし、深刻なことだ。棕櫚の有り様というものは、シンボリックな意味で、人間にもあてはまるんだからね。棕櫚というのは、人間の、『魂のかたち』をしているのだから」

Grande Raccordo Anulare(ローマ環状線)の地図とともに、映画のメインイメージにも使われているこの昆虫、Punteruolo Rossoが何を暗喩しているかに思いを馳せますが、この語りこそが映画、Sacro Graからの最も意味深いメッセージではないかとも思うのです。

さて、詩的でありながら、鋭い洞察のあるこの映画ができた経緯を、イタリア版の公式ページを引用させていただきながら、追っていきたいと思います。

発端は2001年、ローマに越してきたひとりの環境設計家、ニコロ・バッセッティが、「いつも通る道路なのに、そこからは何も見えてこない」、とGrande Raccordo Anulareに抱いた、納得のいかない、言葉にしがたい印象から始まります。「いったいどういうことなのだろう」と彼は考え続けますが、考えても、考えても、結局分からない。その戸惑いは、やがて、魅了に変わっていきます。そんな彼が思いついたのは、環状線のテリトリーを、たった一人で徒歩で歩くということでした。その、300kmの道のりを20日間かかって歩くという行動の目標は、この未踏の場所の物語、景観、人間たちをまとめるひとつの指標を形成することでした。

この時の彼のガイドとなったのが、70年代以降のローマに大きな影響を与えた、前述のローマの建築家、レナート・ニコリーニの「Una macchina celibe(独り者/ひとり乗りの車)」というエッセイです。 そのエッセイは、Raccordoに関して、すでに天才的なヴィジョンを提示していました。

ニコリーニは、「GRAーANAS(国営道路公団)のエンジニアであったEugenio Gra (エウジェニオ・グラ)により設計されたGRAは、どのようなオーガニズムをも持っていない。それはただ、入り口出口においてのみ機能を有するもの」と環状線を定義。つまりグラ氏によって設計されたGraは、ラテン語で予言的名前を持つという意のNomen Omenーノーメン・オーメンであり、その時点で、すでに魔術めいた暗示があるということです。ニコリーニはさらに、GRAはきわめてエキセントリックな、都市の矛盾を覆い隠しながら、自己完結する作品である、というのです。この思索が、GRAという道路を、「運動エネルギーを持つ巨大な蛇、経済ブームと自動車マス化の息子、永遠の都市ローマの戦後、近代の城壁」として、バッセッティに明確に納得させることになりました。そしてこのアイデアが時間を経て、「都市の変容を閉じ込める壁」という定義へと向かうことになるのです。

なお、レナート・ニコリーニは、1942年生まれの建築家であり、PC(イタリア共産党、のちにPDー民主党へ)の政治家、そして長い間カラブリア大学の教授だった人物です。イタリアのAnni di piomboー『鉛の時代』全盛期、イタリア全土で、武装した学生達による騒乱が頂点に達しようとしていた76年から開始された、『Estate Romana(ローマの夏)』ー音楽、演劇、舞踏、映画、詩の朗読などで構成されたイベントを発案、特異な才能を発揮しながら、ローマの市民を巻き込んだ新たな文化モデルを構築して、国内外で一躍有名になりました。

たとえば街じゅうにある遺跡の壁や、巨大なルネサンスの建造物の壁面に映画のスクリーンを張り巡らし、街の景観を背景に、あらゆるすべての市民を『ローマの夜』という巨大な劇場へと招待。つまりニコリーニにとっては、ローマの街そのものが舞台であり、作品の一部だったのです。

Estate Romanaはいまでこそ、あたりまえに開催されるイベントですが(さまざまな制約で、当時とは趣も変わり、もはや当時の面影はないと言えるかもしれません。さらに文化予算が大幅に削られた2015年はかなり縮小した内容になりそうです)、国家、教会、秘密警察、秘密結社、マフィアをはじめとする犯罪組織が入り乱れたテロリズム全盛の当時、街に漂う血の匂いと重圧感、若者たち暴走爆発無気力絶望に満ちたローマの夏の夜に、希望情熱、実験的芸術表現から生まれる文化のカオスを注ぎ込み、当時の街の空気一新させる力を持っていました。76年の真夏、いつも暗い闇に包まれていた街の広場、沈黙していたオースティアの海岸線を、なだれのように群れ動く若者たちの熱気が席巻したそうです。

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コロッセオでの映画上映に集まった人々(Wikipediaより)

「どうしたの? この渋滞、今日は何かデモ集会でもあるのかな」と、フォロ・ロマーノ内のマセンツィオの遺跡で開催された映画イベントの初日、車がまったく動かない渋滞にニコリーニがぼやいていると、その渋滞の車は、すべて映画に出かけるローマの人々だったというエピソードがあります。あまりにたくさんの人が集まってしまい、その群衆にもまれ、主催者であるニコリーニ本人が、会場になかなかたどりつけなかったそうです。人々が「感性」に飢えていたイタリアの暗黒の時代のことです。そのときニコリーニは若干35歳でした。

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「街を歩いているときに普通でない、奇妙なものを見つけるのが面白くて」生涯車を運転することがなかったニコリーニ。

氏の晩年、新コロッセオ劇場で開催された詩の朗読会で一度だけお見かけしただけで、わたしはニコリーニに関わった人たちから、間接的に話を聞く以外には、彼の人柄を知ることはできませんでしたが、「アイディアの洪水」と形容された氏は、そのおおらかで自然体の人柄が大勢の人々に愛され、晩年まで大きな人気と影響力を持った人でした。わたしがお見かけしたご本人はというと、マオカラーのブルーのシャツがなかなかお洒落な、肩の力が抜け、時折やさしいまなざしを見せながら、しかしどこかギラリ、と超常的なエネルギーを放つ紳士で、自ら舞台に立って詩を読む朗々とした声と表現は、年齢と病気を、まったく感じさせないものでもありました。このニコリーニ氏については、晩年、共に仕事をしていた人物に、先でインタビューをしようとも思っています。

テアトロ・ヴァッレが占拠されたときも、ニコリーニはすでに病魔におかされていたにも関わらず、真っ先に劇場に訪れて、激励の言葉を贈っています。また街じゅうの遺跡、建物、道路、広場を『占拠』して(彼は当時ローマ市の文化評議委員長だったので、違法ではなかったのですが)文化イベントを開催した、この先駆者は、世代が変わって彼の名も知らない若い文化『占拠者』のスピリットにも大きな影響を与えています。「70年代のEstate Romanaのような、全ての市民に開かれたイベントを開けるといいのに。あのコンセプトは僕らのモデルでもある。あの空間をもう一度再現できたら、どんなに楽しいだろう」という声が聞かれることも事実です。

閑話休題。

なにもかもがバラバラにちらばっているGRA周辺を巡る、環境設計家バッセッティのゆっくり、おずおずとした探訪は、世俗的な意味での環状線のSacro Graal( 聖杯探し前述したようにタイトルの掛詞ーとなります。彼のはじめの直感は、Grande Raccordo Anulare とは、つまり、首都ローマの複雑さと特徴を要約した風景、ローマという都市独自アイデンティティを探し当てることのできる場所であるということでした。

何人もの人との出会い、何ページものメモ、写真、すべての情報から、まず最初の全体像、ひとつの物語、GRAとその千の世界を構成する機会が生まれます。それは大変な仕事でもあり、多様な表現方法を探るために、多くの人々から目を通してもらうことが必要となりました。こうして、ウルバニスト、映画監督、作家、6人のカメラマン、2人のリサーチャーにより、映画展覧会ウェブサイトを制作するという、Sacro Graプロジェクトが生まれます。
つまり、映画「Sacro Gra」は、映画のみならず、写真、本などあらゆるメディアを駆使して、環状線をめぐる風景の定義を、多方面から表現しつくしす総合プロジェクトだったわけです。

ローマという都市を支えるInvisibile(不可視)な「何か」は、Grande Raccordo Annulare周辺にすべてシンボルとして集約されている、と言っても過言ではないかもしれません。そして、その「何か」を多様性、または多様な生命、そして「」と呼んでも差し支えないのではないか、とも思います。またGRAという近代の城壁は、Punteruolo Rossoという虫に暗喩される、破壊的な社会システムからローマという都市を守ってもいる、とも読めます。

監督のジャン・フランコ・ロージ氏がRaccordo周辺に居を移し、2年を超える撮影の期間、ニコリーニ氏を交えて、環状線のあちらこちらを巡る30分のドキュメンタリーも撮影されました。それは『Tanti futuri possibili (あらゆる未来が可能なんだ). レナート・ニコリーニとともに』 と題され、発表されています。

病に倒れたニコリーニ氏は、Sacro Gra本編の完成を待たず、2012年の8月、大勢の人々に惜しまれながら亡くなり、結局、そのドキュメンタリーはオマージュとなりました。イタリアの主要紙はそれぞれに大きく特集を組み、社会現象ともなった文化の潮流をつくった、ニコリーニの死を心から悼んだのです。

※2011年、クラウディオ・ダミアーニの詩を読むレナート・ニコリーニ

▶︎続くーSacro Gra III

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