Leaと行くヴェネチア・ビエンナーレ

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2日間という短い時間でしたが、ローマを離れ、ジュネーブ在住のイタロフランセ(仏伊国籍を持つ)のアーティスト、Lea Tania Lo Cicero(レア・タニア・ロ・チチェロ)とヴェネチア・ビエンナーレに行きました。ビエンナーレのあり方については、多少批判的な気持ちもなくはない、のですが、それでも2年に1度のお祭り、世界各国から集まったアートのラビリントで迷う「非日常」はなかなかえがたい体験です。

しかしながら、Giardini(ジャルディーニ)、Arsenale(アルセナーレ)と広大な敷地に、多種多様なアート作品が展示されるビエンナーレを2日で体験し尽くすというプロジェクトは、明らかに無謀とも言えます。結局、はじめに「これだけは見ておこう」と目星をつけておいた作品も、すべて見終わることができず、会場が閉まる6時前にパビリオンに滑り込み、駆け足で鑑賞するということになりました。

はじめのうちはああでもない、こうでもない、と議論をしながら細部まで観察していたわたしたちも、後半になるとすっかりエネルギーを消耗しておとなしくなり、しかも2日続きの大雨、傘をさしてのパビリオンめぐりはずぶ濡れになって、ある種の荒行でもありました。とはいえ、多様な作品との共振に酔って目が回りそうな夕刻、ジャルディーニ会場から一歩足を踏み出した瞬間、目の前にふわり、と開けた雨降りしきるヴェネチアの、空と海が広々とろける風景を見た途端、その青、潮の匂い、雨と波の音に陶然としました。言うまでもなくヴェネチアという都市そのものが、自然と人と時間がつくったひとつのオペラ、魔法です。

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Giardini、ヴェネチアの海

ところで今回のビエンナーレですが、ジャルディーニ会場の方はパビリオンをフルに使った大がかりな作品が注目を集め、一方アルセナーレ会場に関して言えば、国際政治的なテーマを扱った、あるいは現代社会への風刺が感じられる作品が、いつもより多く感じられました。また「金獅子賞」は、ふたりとも作品とは気づかないまま、会場の案内の人にわざわざ聞いて後戻りするほど、会場と作品の世界に境界がない作品で、会場の案内ブースに見立てたデスクに座る、生身の3人の女性もその作品の一部をなす、というインスタレーションでした。

わたし個人は、レアが「あまり感心しない」と興味を持たなかった、サルバドール・ダリのビデオをエントランスに配したスペインパビリオンの、Movida madrileña(『モヴィダ・マドリレーニャ』、スペインの70年代、80年代アートムーブメント)を彷彿とする、ペドロ・アルモドバルの空気感をパロディにしたようなビデオや、無節操、ひと癖もふた癖もある賑やかな作品群に好感を持ちました。

さて、現在はスイス、ジュネーブに暮らすレア・タニア・ロ・チチェロですが、かつて彼女がローマに住んでいた時期の2002年頃に知り合い、レアがスイスに居を移してからは、ヴェネチア・ビエンナーレで再会するのが習慣となっています。彼女はパリで9年間、ジャズの歌手をしたあとローマで彫刻を学び、それからローザンヌの美術大学で資格を得て現在はジュネーブで美術の教師、また美術館のガイダンスをしながらアーティストとして活動するパワフルな女性です。また、友人としての過大評価ではなく、彼女が通りを歩けば、一斉に視線が集まるほどの稀有な、どこかマリア・カラスを彷彿とする美貌、プロポーションを持つ女性であることも付け加えておきたいと思います。

そういうわけで今回は、一時、物理的にローマを離れますが、イタリアとフランス、ふたつの文化を持つ彼女のイタリア、そしてローマへの想い、またアーティストとしてのアイデアをじっくり聞いてみたい、とかねてから望んでいたインタビューを実現。さらにALL THE WORLD’S FUTURES (世界のすべての未来)とタイトルがつけられ、 Vitalità: sulla durata epoca, il giardino del disordine e il Capitale ( Garden disorder, Liveness: On Epic Duration, and Reading Capital) をテーマにした第56回めのビエンナーレで、彼女が最も印象に残ったという、ジャルディーニ会場の2つの作品について語ってもらいました。

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現在はジュネーブに住むアーティスト、Lea Tania Lo Cicero

レアはお父さまがイタリア人なんでしょう?

そう、シチリアーノよ。60年代、彼がまだ少年のときに両親と兄弟姉妹、家族みんなででフランスディジョンに移民してきたの。ディジョンはパリから300キロ離れた、マスタードやワインで有名な街で、当時からイタリア人がたくさん住んでいたのよ。鉄道でパリに移動の途中、ディジョンの駅で降りて、そのまま留まったイタリア人が多くいたから。そのころのディジョンにはイタリア移民のための仕事が多くあって、たとえばそれはアパートの壁のペンキ塗りであるとか、大工とかシンプルな仕事だったんだけれどね。

父がフランスに来たときには、祖父の兄弟がすでにディジョンに移民していて、ペンキ塗りで生計をたてていた。その大叔父を頼りに家族みんなでシチリアから移民してきたらしいわ。それで祖父もすぐにペンキ塗りの仕事をはじめることができたそうよ。父の家族を含めるシチリアーニたちはディジョンに到着するや否や、あっという間に「ピッコロ・シチリア(リトル・シシリー)」を形成して、フランスに住んでいるというのに毎日シチリアの方言を話して暮らし、フランス語を覚えようとはせず、そうする必要もまったくない、と思っていたみたい。

だから子供時代わたしは、シチリアの方言とシチリアの音楽のなかで成長したようなものなの。わたしの母はフランス人だけれど、シチリアの家族の伝統に従って、毎週日曜になると父の家族、つまり祖父母の家で開かれる昼食会に必ず出かけていたしね。叔父や叔母、従兄弟たちみんなが集まって、お祖母ちゃんの作るシチリア料理、Pasta al forno(オーブンで焼いたパスタ)やAgnello al forno(子羊のグリル)を食べ、話し、歌う、毎週賑やかな日曜だった。

イタリア、特にシチリアの家族の絆はとても強くて、家族みんなが集まる日曜の昼食はとても大切な時間。わたしはフランスで生まれたにも関わらず、そんなイタリア的な日々を過ごしたから、シチリアの言葉が、いまでも体感として強く残っているわ。彼らはシチリアという土地と強い絆を結んだままフランスで暮らし、祖父は死ぬまでフランスのことが好きになれなくてフランス国籍も取ろうとはしなかったけれど、祖母はフランスの空気にすっかり馴染んで「わたしはこの土地でようやく自由を見つけた」と晩年には国籍も取った。シチリアの人々の女性観、そして習慣は、女性にとってはかなり辛い、束縛されるものだから、とも言っていたわね。

2002年から4年余り、ローマに住もうと思ったきっかけは?

18歳でディジョンの家族を離れてパリに住みはじめ、ずっと音楽をやっていて、それなりに満足もしていたし、不幸でもなかったけれど、わたしの内面、無意識というか、とても深い部分が変化を求めていたんだと思う。あるとき、ふと思ったの。わたしにはアブストラクトにも、リアリティとしても「太陽」が必要だ、とね。そう納得したとき、イタリアの家族とはまったく関係なく、単純に「イタリアへ行きたい」と強く思った。もちろんわたしに流れるイタリアの血が呼んだのかもしれないんだけれどね。

夏のバカンスを利用して試しにローマに旅してみて、その街とわたしには何の絆もないというのに「必要なのはこの場所。この場所でなければならない」、つまり熱烈な「恋」におちてしまったの。知ってのとおり、ローマというのはとても特殊な街時を経た遺跡群石でできた街惜しみない太陽の光が溢れていて、わたしはその美しさおおらかさに、一瞬で虜になってしまったというわけ。そのとき一緒に暮らしていたフランス人の恋人がいたんだけれど、2人ともローマからパリに戻った途端、熱に浮かされたようにローマが忘れられなくなったから「じゃあ、一度ローマに住んでみようか」と決めてすぐ、急いで荷物をまとめてローマに移ったのよ。わたしたちはまだ若く、目の前にはまだ限りない可能性が開けていて、あらゆることから自由だったしね。

ローマで暮らした3年と半年、たくさんの人々、出来事に出会って、その偶然の出会いの数々は、今日のわたしの生活のいろいろなレベルに影響していると思うわ。ローマシンボルって「母性」、Madre(母親)でしょう? ロムルスレムルス(古代ローマの建国伝説)も母親に、すこやかに育ったわけだから。

わたしにとってのローマも、そんな感じかしら。ローマは母親のようにわたしを抱きしめて、絶え間なく栄養を与えてくれた。人々、太陽、遺跡、食べ物、一緒に暮らした恋人、なにもかもが滋養になったわ。ローマを覆う空気ってとてもドルチェ(甘美)で、ではどうしてそれほど甘美に感じるのか、と具体的な理由を聞かれてもよく説明できないのだけれど、ローマは自分のなかに眠っていた、それまで気づかなかったドルチェな感受性を再発見するように仕向けてくれる街だと思う。わたしは結局のところ、ローマから、アートと向かい合うための重要な感受性を育てられたと思っているの。パリの音楽との関わりとはまた違った次元で、自分のなかに存在していたエネルギーを見つけることができた。

ローマから再び北ヨーロッパ、スイスに移ったのはどうしてなの?

イタリアにいる間に、頭のなかで形を持たないアイデアをちゃんと理解したいと考えて、インターネットでいろいろ調べていたときに、ローザンヌの美術大学、ECAL/Ecole cantonale d’art de Lausanneを見つけた。そのサイトを読んでいるうちに、そうだわ、今から勉強しなおすことはちっとも悪いことではない、とためらうことなく願書を出したわけ。あとからそれが欧州でも有名な大学だということが分かって、今から思うなら、無謀ではあったかもしれないけれど、自分の直感に従ってよかった、と思っているわ。

ECALは、まったく自由な校風で、いろいろ経験しながら自分の表現したいことに適したLinguaggio(表現法)を探す助けをしてくれたから、わたしは多くの表現方法を知り、学び、試すことができた。Video、インスタレーション、ヴィジュアル・アートなら何でも試せたの。はじめわたしはローマで学んでいたブロンズの「彫刻」を追求しようと考えていたけれど、初心に戻ったというか、結局音楽の要素、自分の声を生かすことができるヴィデオ・アートを選ぶことにした。

でも、実際のところ、自分の声を使って作品を構築することに、とても苦労したのよ。長い間ジャズ、あるいはソウルミュージックを歌っていたせいで、そのときの癖が声に残っていて、表現したい作品になじまず、作曲にも苦労した。だからECALを卒業してジュネーブに移ったあと、Conservatorio(音楽学校)でエレクトローアコースティックの作曲のコースに参加したわけだけれど。そのコースを受けられたのはとても幸運だった。

というのも、たったの5人しか受けられない狭き門のコースで、ほとんどがクラシックの基礎をみっちり勉強した子たちと競合したわけだから。そしてそのコースで1年間死ぬ思いをした、と告白しておくわ。だってわたしはクラシック音楽を勉強したことがなく『ソルフェージュ』すら怪しいものだったからね。それでもまったく遠慮なく、他の生徒と同じように扱われて、苦労の連続。でも、未来的な音楽をアヴァンギャルドに追求する実験的なコースはとても刺激的だったし、30歳になるかならないかの若い作曲家たちが学友で、彼らと一緒に学ぶことは光栄でもあったわ。

正直なところ、ジュネーブでの生活は、自分の創作に使う時間と、生きるために必要なお金を稼ぐ時間とのバランスがとても難しい。でも生きる難しさはどこでも一緒生きることそのものが、そもそも大仕事だと思うから。歳をとると確かに慎重にはなって、自分が何を目指しているか、明確に先を見通しておかなければならないとも思うし、自分の選択に責任を持たなければならない。それに自分のやりたいことを追求することで、犠牲を払う必要も出てくる。ローマで一緒に暮らしていた恋人と結婚して、そのあと離婚も経験したし、いずれにしてもどんな人生で何を選択しても、多少の犠牲はしかたないかもしれないね。いずれにしても、いまの新しいパートナーとは理解しあえているから、それは嬉しいことだと思っているわ。

ジュネーブはフランス語圏だから、わたしは母国語を話しているけれど、同じ言語を話していても、スイスとフランスではメンタリティが全然違うのは確かよ。人生への取り組み方も違うし、美意識、歓びもまったく違う。スイスでは、まず最初にやろうとしていることがプラクティカルであるかどうかが論点になって、「美」はそのあとに訪れる。イタリアもフランスもまず「美」が一番大切だから、プラクティカルなことはあとまわしじゃない?

スイスの暮らしはラテンの文化とは全く異なる環境だし、スイスの街にはイタリアやフランスのように、歴史が積み上げてきた「美」がないから、生活でアートを感じることはないのだけれど、最近では少しづつスイス的な「機能美」のあり方が見えてきたところかしら。ローザンヌに来た当初は「なんてつまらない街!」とショックを受けて、愕然としたけれど、だんだんにスイスの「美」になじむことが出来てよかったわ。そうね。ローマが「母性」とすれば、ジュネーブは「父性」を想起させるかしら。それも非常に厳格で真面目な父親。わたしはローマでも、もちろんジュネーブでも「エトランゼ」として生きているから、そのせいで街を客観的に傍観できるんだと思う。フランスを旅立ってもう十数年、その間ずっと「エトランゼ」として暮らしているけれど、それは気楽でなかなか心地よいことでもあるの。

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スイスパビリオンの作品は、ピンク色の液体が張られ、ネオンの反射に動きのある作品。水のたゆたう音が満ちていた。

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