『鉛の時代』: イタリアのもっとも長い1日、アルド・モーロが連れ去られ、ブラックホールとなった1978年3月16日とその背景

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1978年3月16日、イタリアが歴史の重要な断片を喪失する、『モーロ事件』が起こる2日前のことです。『キリスト教民主党』のリーダーであるとともに、ローマ大学サピエンツァの教授だったアルド・モーロに、「次の卒業論文の採点が最後になりますね。共和国大統領になられたら、大学にはいらっしゃれなくなるでしょうから」と、助手だったフランチェスコ・トリットが、何気なく話しかけたそうです。するとモーロは「愛情のこもった言葉をありがとう」、といつも通りに微笑んだあと、「しかしわたしは、大統領にはならないと思うよ。おそらくジョン・ケネディと同じ最期をたどることになるだろう」と付け加え、トリットをギョッとさせた、というエピソードがあります。アルド・モーロはその頃、最有力の次期大統領候補とみなされていました(ジェーロ・グラッシ)。

当時、モーロの授業を受けていた学生たちの証言によると、事件が起こるしばらく前から、モーロの護衛であるカラビニエリ、オレステ・レオナルディは、殺気だった緊張感に包まれ、普段、学生たちと和気あいあいと冗談を言い合う、気さくな人柄のレオナルディとは別人のようだったそうです。

レオナルディは15年間、モーロの傍を片時も離れない、誠実で、優秀な人物で、モーロだけでなく、モーロの家族からも厚い信頼を寄せられる人物でした。

さて、前項、「蛍が消えた」イタリアを駆け抜けた、アルド・モーロとは誰だったのか、に続き、『モーロ事件』を追いかけたいと思います。以前に書いたことと重複する部分、あるいは割愛する部分があるかと思いますが、お許しいただければ幸いです。

以前の項に繰り返し書きましたが、遥か遠くに過ぎ去った『鉛の時代』の事件の数々を、堂々たるキャリアを持つ、夥しい数の検察官、研究者、司法官、歴史家、ジャーナリスト、作家、政治家、さらにその時代を経験していない若い世代に至るまでが、「絶対に忘れてはいけない」と、情熱と義務感を持って調べ上げ、意味を問い続ける執念は、わたしにとっては脅威的な現象でした。

それは外国人が持つであろうイタリアの人々の、「呑気で陽気でいい加減」という一般的なステレオタイプにはない、黙々と根気強く、精密で鋭い、複雑な一面でもあります。

その中でも、特に『モーロ事件』に関しては、虚無が広がる過去の時間枠に、丹念に調べあげた事実を、多くの人々がひとつひとつモザイクのようにはめ込んでいく有り様が、細密で描かれる巨大な絵画を思わせ、芸術的というか、バロックというか、あるいは集合知というか、ここにイタリアの魂、ひとつの文化の形があるのではないか、とも考えるようになりました。

確かに、過去を振り返り続けることは、あまり機能的で合理性のあることではないかもしれません。しかしながら、国全体に著しい衝撃をもたらし、多くの方々が犠牲になられたにも関わらず、司法の判決に明らかな異常を残す事件の連なりからは、2000年の時を超え連綿と続くイタリアの歴史に、空白が生まれてしまいます。諸刃の剣(グラディオ)の連続テロという「恐怖」に支配されたイタリアの『鉛の時代』(1969年から1984年あたり、あるいは1992年あたりまで)は、司法が認めたオフィシャルな歴史と、現在に至るまで捜査され続ける歴史、というアンチノミーで構成されたままなのです。

おそらく、このような歴史の二重構造はイタリアだけでなく、多かれ少なかれ、どこの国でも見られる現象かもしれません。しかしイタリアの場合、その時代に起こった血塗られた事件の数々の、社会に与えた衝撃があまりに大きく、悲劇的でもある。

『モーロ事件』に関して言えば、民主主義下にある西側で、『選挙』によって最も大きな勢力を誇った『イタリア共産党』の政権参画が、事件の勃発で事実上反故(当日、信任投票が行われ、とりあえず政府は信任されましたが、やがてうやむやになり79年1月に政府は崩壊します)となったことで、パルチザンたちがレジスタンスで勝ちとった、民主主義の理念は暴力的に破壊され、モーロという人物とともに、歴史そのものが闇に葬られることになりました。

国よりも人」と言い続けたアルド・モーロが、『イタリア共産党』の提案に沿ってデザインした、『イタリア共産党』『キリスト教民主党』『歴史的妥協』が長期にわたって実現していたなら、冷戦の緊張下、民主主義における画期的な実験となり、国際社会にも影響を及ぼすイノベーションとして、平和的な解決策になった可能性がありました。ひょっとすると10年ほど早く、『ベルリンの壁』は崩壊していたかもしれない。反対に、結局何も起こらなかったかもしれませんが、それにしてもその実験の結果から、何らかの学びがあったはずです。

いずれにしても『モーロ事件』は、検察の捜査、裁判の記録をはじめとする公文書をはじめ、その時代の政治家、軍部関係者、さらには国内外のシークレットサービス=諜報の一挙一動まで、細部の細部にわたって調査され、書かれ、語られ、ネット上にびっしり刻み込まれ、壮大なパノラマとなっています。その膨大な情報量を有するリサーチは、とても『dietrologia(背景論ー陰謀論)』と片づけてしまえるレベルにはありません。

5月9日(アルド・モーロが亡くなった日)に定められた、今年(2021年)の「テロリズムで亡くなった方々のメモリアルデー」にちなみ、謀略の一環と見られるマフィアの銃撃によって、かつて自らの目前で実兄を亡くしたセルジォ・マッタレッラ大統領は、「テロリズムは68年、69年(の学生と工場労働者の共闘)から生まれたという人々がいるが、わたしはそうは思わない。発展的な議論が行われた重要な時期だった」「極左グループ(赤い旅団)のテロリズムは、レジスタンスで勝ちとった民主主義の自由を、再び重い専制に引き戻そうとする行動だった」と明言したうえで、「忘れないことがモラルである」「鉛の時代の完璧な真相(が明かされること)こそが、イタリア共和国にとって本質的に必要なことである」という主旨の発言をしました。

この発言の背景には、1885年に制定され、2002年まで効力を持った「ミッテラン・ドクトリン」で、亡命者としてフランスに保護され(イタリアは専制国家ではなく、民主主義の自由な国であったにも関わらず、なぜ?)、逃亡していた『赤い旅団』(モーロ事件に関わった)、『継続する闘争』(ルイジ・カラブレージ殺害主犯)のメンバーを含めるテロリストたちが、30年以上経った今年2021年5月、改めてフランス当局に逮捕された、という直近の事情があります。そしてその逮捕が象徴的なものに終わらず、彼らがそれぞれの事件に関して、何らかの真実を語ることを、誰もが期待しているところです(しかしながら、2023年にフランス当局は当事者たちをイタリアに送還することを拒絶しました)

※2018年、Rai制作のAldo Moro Professoreは、モーロに授業を受けていた大学生たちの、事件における衝撃を描いたフィクション。元学生たちの証言から、モーロの人物像が見えてきます。

さて、『モーロ事件』に関しては、十分にリサーチを終えた、と自分自身、まったく納得できないのですが、これ以上情報を入れると、消化できない状況に直面するため、ここでいったん整理しておきたいと思います。

まず、事件に関する書籍や犯人たちのインタビューを読んだり、限りなく制作されるドキュメンタリー、講演など、情報を入れれば入れるほど、いよいよ闇が深まり、収拾がつかなくなる、というのが率直な思いです。というのも、テロリストたちをはじめ、当時政権を握っていた政治家たち、目撃者たち、その他のあらゆる当事者たちの証言の詳細に整合性がなく、『薮の中』というか、『密林の中』というか、全体を物語として再構成するロジックが浮き彫りにならないからです。

たとえば、モーロ事件が起こった当日から、内務大臣としてタスクフォース(Comitato politico-tecnico-operativo)の総指揮を執ったフランチェスコ・コッシーガ(のち首相を経て共和国大統領)が、『モーロ事件』を語る76分のインタビューがネットにアップされているのですが、彼はもちろん、現在まで繰り返されるリサーチと捜査、そして細部の検証を、「Dietrologia(背景論ー陰謀論)」と一蹴しています。『モーロ事件』は『赤い旅団』が起こした事件でしかなく、それ以外には何の要素もない、と強調するのです。しかし、インタビューがはじまった途端に「あれ?」と首を捻る発言をしている。

「わたしは『モーロ事件』に関わったすべてのテロリストたちに会っている。ただひとりだけ、モーロの殺害犯には会っていない。ごく最近亡くなった人物だ」と、コッシーガは、さも当然のように、さらりと断言しました。

この発言の何が問題なのか、というと、司法の場において、モーロを殺害したのは、事件当時の『赤い旅団』幹部、マリオ・モレッティということになっているのですが、モレッティは元気にセミリベルタ(一応、監視を受けながらの通常生活)を謳歌しており、主要メディアでは、ほとんど取材されることはなくとも、小規模なネットニュースで、時々近況が報告されることがあります。

ではコッシーガは、当初、殺害犯とされ、2013年に亡くなった『旅団』コマンドのプロスペロー・ガリナーリと勘違いしているのだろうか、とも思ったのですが、コッシーガご自身が2010年に亡くなっており、インタビューがネットにアップされたのは2012年ですから、モレッティとガリナーリを間違った、というわけではなさそうです。あるいは2001年に亡くなったジェルマーノ・マッカーリのことを言っているのかもしれませんが、殺害に最後まで反対したマッカーリが、自分の武器をモレッティに手渡したことは、すでに他のメンバーの供述で明らかになっています。

また、『モーロ事件』に関わり、殺害現場にも立ち会った、と自ら主張する他の『旅団』メンバーは、現在も皆健在で、かなりリラックスした様子であらゆるメディアのインタビューに答え、テレビのドキュメンタリー番組に出演することもありますから、「じゃあ、その殺人犯とはいったい誰なのか?」という大きな疑問となるわけです。むしろ「背景論」として、モーロを殺害した、と仮説をたてられている、すでに亡くなった、カラブリア・マフィアと近い関係にあった極悪非道の殺人鬼、ジュスティーノ・デ・ブォノに符号するかもしれません。

そういう経緯ですから、事件後43年もの間、多くの人々が何年もかかって執拗に調べ上げた事件の詳細を、たった一言で「すべては陰謀論」と片づけてしまおうとする人物にしては、不用意な発言をネット上に残してしまったわけです。

なお、コッシーガは、当事者がほとんど亡くなっていることをいいことに、「イタリア共産党のエンリコ・ベルリンゲルは、3月16日のキリスト教民主党との『歴史的妥協』となる信任投票の朝(すなわち『モーロ事件』が起こった日)、首相であるジュリオ・アンドレオッティに、自分たちは野党に残りたいので、投票しないと宣言した」であるとか、「アルド・モーロこそ『グラディオ』の父のひとりである」など、言いたい放題に、このインタビューで発言しています。

しかし、この元イタリア共和国大統領は、「都合が悪い質問ははぐらかす、論点をすり替える」として、信用できない人物と見なされ、この長時間に及ぶインタビューも信頼に足らず、と判断され、「殺害犯には会っていない」発言以外、あまり注目されることはありませんでした。ちなみに『モーロ事件』において、「すべては背景論ー陰謀論」と言い放ち、『赤い旅団』の背後には、件の『赤い旅団』しか存在しない、と言い続けるのは『赤い旅団』のメンバーたちも同様です。

※この項は、前項から続けて、レオナルド・シャーシャの『L’Affaire Moro(モーロ事件/1978年)』、マルコ・ダミラーノの『Un Atomo di verità(真実の核心/2018年)』、コラード・グエルゾーニの『Aldo Moro』に加え、セルジォ・フラミンニの『Patto di omertà(沈黙の合意、2015年)』、ロッサーナ・ロッサンダ、カルラ・モスカによるマリオ・モレッティインタビュー『Brigate Rosse(赤い旅団)ーイタリアの物語(1994年)』、エンマニュエル・アマーラによる、事件の期間にイタリア政府と共同で作戦を練った、当時、米国のアンチテロリストのスペシャリストであったスティーブ・ピチェーニックのインタビューを含む『われわれがアルド・モーロを殺した(2008年)』などの書籍を参考にしました。

さらに上院下院議員で構成された『モーロ事件上院・下院議員調査委員会』が2017年に全公開した資料の一部、その委員長で下院議員のジュゼッペ・フィオローニの講演、さらにネット参考資料をアップしている、副委員長の下院議員、ジェーロ・グラッシの講演、各種ドキュメンタリー、『赤い旅団』メンバーのインタビューなども参照しています。

❷明かされても、ミステリーであり続ける秘密 ❸『モーロ事件』の背景に蠢くもの ❹ Petrolioー原油 ❺事件前夜 ❻3月16日 9時2分 ❼見え隠れするグラディオの影

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