『鉛の時代』: イタリアのもっとも長い1日、ブラックホールとなった1978年3月16日

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Petrolioー原油

さらに、もうひとつの背景として注目したいのが、『モーロ事件』を追いかけ、『パズル・モーロ』など多くの著作があるジャーナリスト、ジョバンニ・ファッサネッラの、英国機密書類のリサーチでしょうか。

そもそも戦後のイタリアは、英国政府の監視下にあったと言われ、『フォンターナ広場爆破事件』の直前、今後イタリアで繰り広げられるであろう「安定化のための不安定化」「オーソドックスではない戦争」としてのストラテジーである「Strategia della tensioneー緊張作戦」「ステイ・ビハインド」を、イタリアのギリシャ大使館から得た英国情報局の機密情報として、いちはやく報じたのも、英国のThe Observer紙でした。

ファッサネッラは、戦後の英国のイタリア監視の目的を、中東、北アフリカの資源、主に『原油』をコントロールするためであったと考え、1970年「われわれは、イタリア政府が独立し、地中海諸国、中東諸国と交渉することを阻止しなければならない(海外オフィス内文書)」、1976年「イタリアのクーデターを支援するアクション、あるいは破壊(アルド・モーロの政治に対する英国政府トップシークレット文書)」、1977年「モーロとベルリンゲルの海外政治に及ぼす影響は強大。重大な反応を及ぼす可能性がある。イタリア政府は適正な道を歩まなければならない(ローマ、英国大使レポート)」などの機密文書を上げ、詳細を分析しています。

中東、アフリカへ続く欧州の玄関にあたるイタリアは、原油政治において、地政学的に重要な位置にあり(もちろん米軍、NATO基地としても重要な位置ですが)、『原油』を巡るイタリアの国際政治に関しては、モーロ以前に遡る必要があるのです。なお、イタリア語でPetrolioは『石油』と訳されますが、ここでは通常、取引市場で使われる『原油』、と訳したいと思います。

戦後のことになります。現在のイタリアの主要エネルギー会社のひとつ、ENIの創立者であり、政治家であった、元パルチザンのエンリコ・マッテイ(1906-1962)が、アングロアメリカンの独占市場であった原油市場を打破すべく、イラク、リビアなどの中東諸国、地中海諸国と直接交渉。産油国にとって有利な歩合を提示することで、市場のモノポリーを切り崩すことに成功し、イタリア独自の原油市場を構築した、という経緯があります。もちろん、マッテイのこのスタンドプレイを、アングロアメリカン勢力は強く警戒していました。

そのマッテイが1962年、突然「飛行機事故」で亡くなることになるわけですが、当初から爆弾による暗殺説が囁かれてはいても、当時の捜査では不運な飛行機事故と断定されることになります。それからなんと32年の時を経た、1994年に再捜査が開始され、ようやく飛行機に故意に仕掛けられた爆弾が原因の墜落ということが判明しました。

また、飛行機爆発事件の詳細を追い、スクープとして発表しようとしていたパレルモのジャーナリスト、マウロ・デ・マウロは1970年、1本の電話を受けて出かけたまま、行方不明になっています。そして、やはりこちらも40年後の2011年、「コーザ・ノストラ」のビッグ・ボス、トト・リーナの分身と言われ、のちに検察の協力者となったロザリオ・ナイモが、「デ・マウロがマフィアに殺害されたこと」を明らかにしました。動機としては、エンリコ・マッテイの死の真相を明らかにしようとしたデ・マウロが、掴んだ情報を元に「ある人物のキャリアを破壊する証拠がある」とマフィアをゆすったため、「コーザ・ノストラはゆすりに動じない」と殺害されたと見られます。

なお、マッテイ、そしてデ・マウロ殺害の主犯は、マッテイ亡き後、ENI総裁となったマッテイの長年の宿敵、エウジェニオ・チェフィスと推測されていますが、このチェフィスこそ、『秘密結社ロッジャP2』の真の改革者と目され、75年に殺害されたピエール・パオロ・パソリーニ事件の主犯なのだ、と仮説をたてる人々が多く存在するのです(イタリア語版ウィキペディア)。

というのも、パソリーニが亡くなる直前、既存の小説や詩、あるいはジャーナリズムとはまったく違うスタイルで、ライフワークとして書こうとしていた小説『Petrolioー原油』が、ENIを舞台に『権力』と『巨悪』を中核に置いたストーリーだったからです。

『原油』は現在、522ページのメモ・草稿のみが出版されていますが、パソリーニは、カールとカルロという主人公を並行して描き、多国籍企業による国際ロビー、独占市場と闘ったマッテイ、マフィア、ファシストグループ、フリーメイソン(チェフィス)の権力構造を、既成の文章表現にはない、奇抜な、いわばジェイムズ・ジョイス的とも言えるスタイルで書こうとしていました。

また、その草稿からは「Eniの閃光(稲妻)」という章がごっそり抜けていることから、「盗まれた」という説が拡がり、その章に「殺害にまで及ぶような、衝撃的な事実が書かれていたのでは?」という憶測が渦巻きましたが、そもそもその章は、はじめから書かれなかった、とも言われます。ただ、マフィアとの癒着で有罪判決を受け収監された、ベルルスコーニ元首相の盟友であるマルチェッロ・デルウトゥリが2010年、「パソリーニの『原油』の盗まれた章を読んだ。チェフィスを強く糾弾する内容だった」と騒いだこともありました。しかしメディアに証拠を求められ、いつの間にかうやむやになっています。

パソリーニが残した『Petrolio』草稿の一部。Centro Studi Pier Paolo Pasoliniより

ここで、少し横道に逸れますが、文芸評論家のカルラ・ベネデッティによる、パソリーニの『原油』批評に、次々に衝撃が訪れ、悲劇的な物語が過剰にひしめくイタリアの『鉛の時代』についての、検察官カルロ・パレルモの、次のような興味深い発言が引用されています。

「68年の5月革命に影響を与えた、フランスの著述家、ギー・ドゥボールの「スペクタクルの社会」では、「スペクタクルの社会には、たったふたつの形しかない。ひとつはスペクタクルを拡大するタイプ(米国型)、もうひとつはスペクタクルを凝縮するタイプ(全体主義国型、ソ連型、ドイツナチズム型)であり、前者は「メディアコミュニケーションを中心に置き」、後者は「秘密を中心に置く」と定義している」

その定義からパレルモは、イタリアを3番目のタイプとし、スペクタクルの拡大と凝縮融合し、「秘密を含むメディアコミュニケーション」という、非常にソフィスティケートされたスタイルが生まれた、と考えるのです。

実際『鉛の時代』は、真実は秘匿されながら、うむも言わせぬダイナミックなメディアコミュニケーションで、市民を断続的な緊張と恐怖へと誘導しているわけですから(意識的な誘導ではないにしろ)、イタリアの市民は、90年にグラディオの存在が明らかになるまで、20年近い月日を、その「拡大と凝縮が融合する、秘密を含むメディアコミュニケーション」に日常を侵食されながら生活していたということです。

また、この批評でベネデッティは、パソリーニは『原油』に、パレルモの言う「プロット(拡大と秘密)の権力」、爆弾や飛行機事故だけでなく、「権力のトポス」を表現しようとしていた、と言います。パソリーニが生きた時代、まさに『原油』こそが「権力のトポス」であった、という納得のいく分析です。

さて、『モーロ事件』に話を戻しますが、ファッサネッラは『モーロ事件』の背景にも、『原油』を巡る英国を含める諸外国とイタリアの葛藤が存在していた、と見ています。モーロはマッテイの原油政治を引き継ぎ、外務大臣時代には、その時期を「地中海時代」と名づけ、特にリビアを中心に(当時はリビアの産油量のほぼ100%をイタリアが輸入)、産油国である中東諸国を勢力的に外遊していました。

その結果、アングロアメリカンの独占市場において、『sette sorelle(7人の姉妹)』とエンリコ・マッテイが呼んだ、イタリアを第三世界国と見なす、原油大企業の国際ロビーというグレーゾーンを通さずに、マッテイが確保したイタリア独自の原油ルートを維持することに、モーロは成功しているのです。

さらにモーロは、1973年の外務大臣時代、パレスティナ人5人のテロリストが起こした、『ローマ・フィウミチーノ空港爆破事件(34人死亡)』ののち、『パレスティナ解放機構』のメンバーで、当時欧州でテロ組織と認定されていた『パレスティナ人民解放戦線(PFLP)』との間に、『Lodo Moro(ロード・モーロ)』と呼ばれる密約を交わし、イタリア国内での武器の移動を許可することを条件に、イタリア国内では交戦しないことを約束させる、という意外ときめ細かい、アンダーグラウンドな政治をしています。

そうこうするうちに第四次中東戦争が起こり、世界を揺るがした第一次オイルショックに突入することになるわけですが、ここからイタリアは、69年からはじまった「緊張作戦ーステイビハインド」のテロの緊張に加え、2桁(16%~18%)のインフレという経済混乱に陥り、天井知らずに『原油』価格は上がり続けます。街には失業者が溢れ、工場では毎日のようにストライキが起こり、特にイタリア南部の経済打撃は深刻な状況となって、人々は既存の政治にも、経済構造にも信頼を失っていきました。

その時期、ユーロコミュニズムという融和路線を打ち出し、反対し続けていたNATOへのイタリア参加にも譲歩して、飛ぶ鳥を落とす勢いで支持を伸ばしたのが『イタリア共産党』でした。しかし73年に起こった、チリのアジェンデ政権を襲ったクーデターのような状況が、イタリアに訪れることを危惧したベルリンゲルは、党を守るためにも『キリスト教民主党』との『歴史的妥協』、というモーロのデザインに身を委ねていくことになるわけです。

※マルコ・べロッキオ監督による2003年の『夜よ、こんにちわ』は、『赤い旅団』のメンバーたちを自然体で捉えた、情緒的には最もリアリスティックな映画かもしれません。最後のシーンに込められた暗示が、雄弁に事件の本質を語っています。

その『歴史的妥協』に「裏切り!」、と怒り狂った極左グループ、さらには敵対する極右グループの学生たちは、『赤い旅団』が繰り返す殺害やガンビザッツィオーネ(足を銃撃し障害を残す独特の攻撃)に煽られ、大学構内や街の広場、大通りに毎週のように大挙して押し寄せ、絶え間なく挑発してくる警察隊やカラビニエリを相手に乱闘。火を放ち、投石し、銃口を向けるヴァイオレンス・カルトの中、「革命」を連呼します。

このように、77年の学生運動は、市民戦争とも呼べる常軌を逸した騒乱となり、68年の運動とは大きく異なる、闘争の本来の主人公であった工場労働者の現実とは隔絶した、学生たちの欲動と自意識が主役となった運動となりました(たとえばウンベルト・エーコは、拳銃を握る学生が、カメラ写りを意識してポーズをとっていることを喝破)。しかしこの時、平和的に運動した学生たち、文化人たちの価値観が、フェミニズムにしても、献身的に弱者を支援する各種社会運動にしても、現代のイタリアに大きな影響を与えているには違いありません。

また、「Né con lo stato Né con le BR(国も、『赤い旅団』も支持しない」という『モーロ事件』の間中、他の極左グループ、あるいは学生たちに叫ばれたスローガンは、この時代に生まれたのだそうです。

一方、それまで北イタリアのミラノ、トリノ、そしてジェノヴァを活動の拠点としていた『赤い旅団』はといえば、『キリスト教民主党』、すなわち国家への戦争を仕掛けるために、75年からローマに拠点を作りはじめ、まず、事件の主犯となる、マリオ・モレッティが移動しています。モレッティは74年ごろ、秘密裏にモーロの自宅の近くに住んだこともある、とも言われますが、この説には確実な裏付けが見つけられませんでした。

なお、そのころローマで、偽のドキュメントを8つほど持ちながら、「クランデスティーノー非合法活動」をしていたのはマリオ・モレッティだけだそうで、のちに『モーロ事件』のコマンドのひとりとなるバルバラ・バルツェラーニの家に厄介になりながら、隠れ家となる拠点を探しています。その後、ヴァレリオ・モルッチ、アドリアーナ・ファランダが、トニ・ネグリ、フランコ・ピペルノをリーダーとする『ポテーレ・オペライオ』から『旅団』へ移動。フランコ・ボニソーリがミラノ拠点からローマに移動しています。

欧州最大の極左テロリストグループと言われる『赤い旅団』ですが、この頃、身分を隠して完全な非合法活動をしていたのは十数人であり、その執行部の周囲で活動していた仲間たちは、昼間は別の仕事をしながら、夜半に活動を手伝うというスタイルだったそうです。たとえばマルコ・ヴェロッキオの映画、『夜よ、こんにちわ』のモデルとなった、モーロが捕らえられていた人民刑務所だった(と言われる)、モンタルチーニ通りのアパートの所有者であったアンナ・ラウラ・ブラゲッティも、昼間は普通に仕事に出かける二重生活を送っています。

こう書くと、まるで手作りの武装サークルのようにも思えますが、仏ジャーナリスト、マルチェッレ・パドヴァーニは「一種、マフィアのような機構を『赤い旅団』は持っていた。内部のコミュニケーション網は十分に確立され、非合法活動をするメンバーは毎月サラリーを受け取り、それで日常の費用を賄っている。『赤い旅団』は、国家との戦争状態を継続していたが、(他のグループも含め)極左テログループだけで、その時代、だいたい1万人存在し、1000人ほどがレギュラーに活動し、3000人ほどが出たり入ったりするイレギュラー要員だった。その他、極左グループの共鳴者は5000人ほど存在し、グループが必要とする際に、手を貸していた。その構成は、Raf(ドイツ赤軍)に酷似している」とも言っています(エマニュエル・アマーラ)。

しかし『赤い旅団』がパドヴァーニが言うように、もはや思想とかけ離れた暴力犯罪集団として、無軌道に、残酷になるのは、『モーロ事件』あたりから名前が現れる、フィレンツェ大学、シエナ大学で教鞭を執り、犯罪学者としてイタリア内務省でも働いた経緯のある、ジョヴァンニ・センツァーニが『旅団』のリーダーのひとりとなってからです。

▶︎事件前夜

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