現在、イタリアが置かれた政治状況から、共産党の大躍進と共に生まれた70年代『鉛の時代』の騒乱を俯瞰すると、感慨深い気持ちになります。もちろん思想、インターネットを含む情報環境や時代背景などはまったく異なりますが、昔『共産党』、今『5つ星運動』と市民が一丸となり、既存の政治にNOを突きつけるという有り様は、大戦中のアンチファシスト・パルチザンを経て60~70年代に育まれ、現在に至るまでイタリア市民に根づく『反骨精神』とも言えるかもしれません。ああ言えば必ずこう言う、権力への服従にはほど遠い、この『予定不調和』こそが特筆すべきイタリアの精神性のひとつです(タイトルの写真はDiacronimotiveから引用。「子供たち、反乱を起こそうじゃないか」Milano, anno incerto tra il 1966 e il 1976 © Tano D’Amico)。
※この項は▷『赤い旅団』の誕生、▷フェルトリネッリと『赤い旅団』の続きです 。
そういえば、当時はまだまだ脇役ながら、それでもいつの間にか『鉛の時代』を跳梁しはじめていたベルルスコーニ元首相は、『5つ星運動』の大躍進を「彼らはまるでプロレタリアートみたい」と、かつての『イタリア共産党』の有り様を彷彿としている様子でした。
現在の『同盟』と『5つ星運動』の連帯によるイタリア契約政府の、盛りだくさんの市民優遇政策が成立するかしないかはともかく、普通に日常を暮らしていると、巷に流れる空気が少し緊張して、対立の兆しが膨らんでいることは肌感覚で実感できます。『5つ星運動』のディ・マイオ副首相は、大勝した選挙後ただちに「イタリア第3共和国のはじまり」と宣言しましたが、それは未来の歴史家たちが判断することでもあり、わたし個人としては『同盟』色があまりに濃い、ありきたりで古色蒼然とした『極右』政府になってしまうのでは、と危惧する、というのが正直なところです。
いずれにしてもここに来て、『同盟』が『北部同盟』だった時代の4800万ユーロ(!)の使途不明金の存在が暴かれ、検察の調査が入るというスキャンダルが起こりました。また最近になって、遭難しかけていた難民の人々を助けたアイルランド軍の船が、大きな騒ぎもなくメッシーナに着港したことで「他国の軍用船であってもイタリアは全ての港を閉ざす。欧州連合に掛け合う」と声高に連呼するマテオ・サルヴィーニに、「それは防衛省、外務省の仕事で、内務省の仕事じゃない」とエリザベッタ・トレンタ防衛大臣が真っ向から異を唱えています。
さらに警備の途中、難民の人々を助けたイタリアの沿岸警備隊のシチリアへの着岸を、サルヴィーニが阻止しようとしたところに、マッタレッラ大統領が介入して、沿岸警備隊は無事、港に到着、という出来事もありました。そういうわけで、多少勢いを削がれる形となったサルヴィーニを巡るイタリアの政局の今後は、いずれ別項で追って行くことになるかもしれません。
さてこの項は、現在から振り返ってイタリアがいまだ「第1共和国」と呼ばれ、『キリスト教民主党』が戦後の政権を独占しながらも、『イタリア共産党』が連立与党に肉薄する勢いで支持を伸ばした70年代に再び遡ります。
大戦直後から米英仏、イスラエルなどの国と密な連携を結ぶイタリア軍部諜報機関( SIFAR、SID)により、時間をかけて周到に、複雑に張り巡らされた、共産主義侵略に対抗する「オーソドックスでなく」「伝統的でない」戦争のための謀略『グラディオ(諸刃の剣)ーステイ・ビハインド』の一環として、イタリアが「 Strategia della tensione – 緊張作戦」下におかれ、混乱し、激動した流血の時代です。街角では極右、極左グループが仕掛けた爆弾が炸裂し、権利を主張する工場労働者、学生、アーティストたちが毎日のように当局と激しく衝突。一種の市民戦争とも言える紛争が繰り広げられました。
現代から振り返れば、トニ・ネグリなど国際レベルで影響を与える多くの知識人、また、現代のイタリアメディアを担う優秀なジャーナリストたちを生んだ極左運動ですが、その一角を担いながら、「国の未来を変えた」と言われるほどの影響力を持つに至り、イタリア中を恐怖と悲しみに突き落とした欧州最大の極左武装集団『赤い旅団』の変遷、そして背景に見え隠れする多くの謎を再び追いながら、時代を追体験していこうと思います。
イタリアの現代の政治、文化の有り様、精神性、そして風俗は、この時代を知らなければ掴めないようにも思っています。
68年のムーブメントとアルド・モーロ
前項の続きに行く前に、ほんの少しだけもう一度、68年あたりまで遡ります。イタリアにおける極左グループ台頭の顕著な動きは、世界を席巻した大がかりなムーブメントが飛び火した『フランスの5月』より少し前にはじまり、その運動の中核を担った若者たちが、70年を代表する主人公となっていったという経緯は前述の通りです。
また、イタリアの極左ムーブメントにおいて特筆すべきは、マルクス・レーニン主義の知識人、学生たちだけではなく、労働組合、大勢の工場労働者、農民たちが『革命』の主人公として躍り出たことでしょう。つまり階級闘争におけるプロレタリアートの台頭という、伝統的共産主義のあり方を当時のイタリアの極左運動は踏襲しています。
それから40年を経た今年は、イタリア現代社会の民主主義の基盤ともなるそのムーブメントの深層に迫り、分析、考察する書籍が驚くほどたくさん出版され、主要新聞各社も特集を組みました。時代の核を担った革命家、ジャンジャコモ・フェルトリネッリが基礎を築いたイタリア大型書店チェーン『フェルトリネッリ』をはじめ、たいていの一般書店では『68年』コーナーが設けられ、新刊がズラリと並んでいます。68年は、イタリアにとって、それほど大切な変換期となった1年であったということです。
ところで68年は、『イタリア共産党』が総選挙で躍進を遂げ、戦後、常に与党であった『キリスト教民主党』に、大きな危機感をもたらした年でもあります。もちろん『イタリア共産党』は1943年から存在する伝統ある政党ですが、60年代からは選挙のたびに市民の支持を集めてエネルギッシュな躍進を遂げる新しい勢力となったのです。
その新勢力と融和を計ろうと、67年あたりから動きはじめたのが、『キリスト教民主党』の『頭脳』と言われたアルド・モーロでした。モーロは2度の首相を含む、閣僚経験が豊富な人望の厚い人物でしたが、その10年後の78年、『赤い旅団』+αの犯行により『元首相アルド・モーロ誘拐、殺人事件』の犠牲者になってしまいます。
いずれにしても67、68年の、この「イタリア共産党との対話」というモーロの方向転換の背景には、ローマ・カトリック教会の方針の変化がある、と考えられ、60年代のローマ教皇であったジョバンニ23世、また78年まで続くパオロ6世のもと「より大衆的で開かれた、時代が要求するカトリック世界」というヴィジョンをカトリック教会が打ち出し、教会のその変化に『キリスト教民主党』が従っていくことになったからでもありました。モーロは「時代とともに世の中に生まれた課題に、緊急に対処するために政府は動かなければならない」と強く党内に働きかけています。
まず、モーロが的を絞ったのは、「新しい形の資本主義」「現代的ダイナミズムの構築」「新しい形の社会」を創生することであり、『イタリア共産党』との対話こそが、イタリア社会において最重要だとモーロは考えていましたが、この『中道左派』的なモーロの態度は、『キリスト教民主党』の中で大きな亀裂を生んでいます。
余談ですが、モーロのこのイタリア共産党への接近は「Strategia dell’attenzione (配慮作戦)』と呼ばれます。この言葉の並びと音感から、すぐに連想するのは、グラディオにおけるイタリア撹乱作戦、「Strategia della tensione (緊張作戦)」ですが、グラディオの存在を当然知っていたであろうアルド・モーロの作為的な命名、一種の牽制だったのかもしれません。
この、モーロの柔軟なアプローチが、『武装革命の魂』を内に秘めながら躍進し続ける『イタリア共産党』の強行姿勢を、やがて軟化させることになったわけですが、前項にも書いたように、『イタリア共産党』の武装の放棄、与党との融和姿勢への方向変換が、パルチザンを含む、すべての伝統的マルクス・レーニン主義者たちを激怒させることにもなりました。彼らはいつか『共産党』が労働階級を率いて武装革命を繰り広げ、プロレタリアートによる専制を実現するのだ、と夢見ていたのです。
ともあれ、それから40年後のいま、思想もプラットフォームも主張もまったく違っても (イタリア共産党は途中、思想の方向転換をしたとしても、マルクス・レーニン主義は本来、民主主義を容認しないわけですし)、主な労働組合層が支持する『5つ星運動』という、直接民主主義による平和革命を謳うオンライン市民運動が、悲願であった政権の一端を担う、という現象が起こったことは興味深いことです。
フェルトリネッリを失ったのちの『赤い旅団』
さて、イタリアにとってはきわめて忌わしい、血塗られた時代の思い出が刻み込まれた、『赤い旅団』という極左武装集団の動きを追って行くことで、世界には、普通の日常を送るわれわれが「預かり知ることができない、そして直接的には一生関わることもないであろう」秘密の謀略の存在があることが、何となくぼんやりと浮き上がってきます。と同時に、そのオペレーションの複雑なメカニズムにも光が当たりました。
それはもちろん、イタリアの多くの司法官、ジャーナリスト、政治家や学者たちが長い時間をかけて書類を調べあげ、多数の容疑者の公判記録を綿密に照らし合わせながら、執拗に追ってきたからに他なりません。そして少しづつ、内容が明らかになるにつれ、このような謀略は、イタリアの『鉛の時代』だけに限定される特殊なオペレーションだとは一概に言えないのではないだろうか、という感想すら持ちます。
もちろんわたしは、あらゆるタイプのテロ集団が謀略で操られている、とはまったく考えていませんし、『赤い旅団』は冷戦下、東西謀略合戦における格好の前線部隊として利用された特殊な例ではあるだろう、と思います。しかしながら時代が変わり、状況が変わり、情報のあり方が大きく変化したことで、工作のテクニックや潜入のタイプが変わっても、混乱のある国、地域には、権益が絡む勢力の工作が施される可能性がおおいにあるのではないか。出来すぎたストーリーは、まず疑うのが常識ではないだろうか、とイタリアの近代史を知るうちに考えるようになったことをも告白しておきたいと思います。
とはいえ、ネットに蔓延する、科学的な調査なく、根拠も証拠もまったく提示されない、誰の利益になるのかわからないような陰謀論には、ちょっと辟易もしています。何らかの謀略を語るのであれば、やはり確固とした証拠が必要になるわけで、いまだに謎に包まれる部分が多くあるにしても、『鉛の時代』に関するリサーチのように、何百人という司法官、ジャーナリスト、政治家が挑んだ『芸術的なパノラマ』とでも表現できるような緻密なリサーチ、証言、証拠の集積を、注意深く分析し、結論を導こうとする試みが必要なのではないでしょうか。
さて、それはさておき、本題を追っていくことにします。
前項でも書いたように、『赤い旅団』の場合には、結成される以前から、元イタリア社会党員であったコラード・シミオーニという謎に満ちた人物がメンバーたちを懐柔していた、という経緯があります。シミオーニは『赤い旅団』がいまだその名を持たない68~69年、『ジエ・ロッセ(赤いおばさんたちー女性による精鋭武装集団)』『ラ・ディッタ』『スーパークラン』と名づけた秘密精鋭武装グループを、選り抜きのメンバーたちから、秘密裡に(創立メンバーにも知らされないまま)構成していた、という経緯があります。
後述しますが、この『スーパークラン』のメンバーの一部(ヴァンニ・ムリナリス、ドゥーチョ・ベリオ、フランソワ・トゥッシャーなど)が、76年にシミオーニとともにパリへ渡り、74〜75年以降の後期『赤い旅団』の真の黒幕と考えられるパリの語学学校『ヒペリオン』を創設しています。また、イタリアに残り、後期『赤い旅団』の執行幹部として『モーロ事件』の主犯となった、マリオ・モレッティ、プロスペロー・ガリナーリもまた『スーパークラン』のメンバーでした。
この項は、70年初頭に「やつはきっとCIAに違いない」とコラード・シミオーニと決別し、自分たちだけで『赤い旅団』を創設した初期の執行部、レナート・クルチョ、マラ・カゴール、アルベルト・フランチェスキーニの同志、経済的支援者であるとともに精神的支柱であった大富豪の革命家、ジャンジャコモ・フェルトリネッリを突然失うことになった『赤い旅団』の、72年以降を追っていこうと思います。
ジョヴァンニ・ファサネッラによるアルベルト・フランチェスキーニのインタビュー『赤い旅団とはなんだったのか』(BUR)、ロッサーナ・ロッサンダ、カルラ・モスカによるインタビュー『赤い旅団ーマリオ・モレッティ ひとつのイタリアの物語』(Oscar Storia 改訂版)、シルヴァーノ・デ・プロスポ、ロザリオ・プリオリ共著の『誰が赤い旅団を操っていたのか』(Ponte Alle Grazie)、セルジォ・ザヴォリ『共和国の夜』(Oscar Mondadori)を軸に、過去の新聞記事、信頼できるネット上の情報、ドキュメンタリー、ウイキペディアなどを参考に時代を遡ります。
この項では途中、その年にイタリアで流行った国内外の曲の動画をリンクすることにしました。また、文末にはBBC1992年制作の『グラディオ』に関するドキュメンタリーをリンクしました。
▶︎歯車が狂いはじめた1972年