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『鉛の時代』国家の心臓部へとターゲットを変えた『赤い旅団』と謀略のメカニズム

Anni di piombo Deep Roma Società Storia

73年、世界を襲った第一次オイルショック

イタリア全国で学生たちの大規模衝突が起こるなか、73年の2月にはレナート・クルチョとプロスペロー・ガリナーリが、トリノ、Cisnal (労働組合イタリア全国連盟)の書記、ブルーノ・レバーテを誘拐、5時間監禁、尋問して解放するという事件を起こしています。『誘拐』は許しがたい犯罪ですが、この頃の『赤い旅団』は、ターゲットを誘拐すると、ピストルを突きつけ、ポラロイド写真を撮った後に解放する、という具合で、他の過激極左グループと大きな違いはありませんでした。資本家、あるいは権力機構への嫌がらせというプロパガンダの域を超えておらず、工場労働者を中心に彼らに賛同する市民たちも多く存在していたと言います。

☆『赤い旅団』と、イスラエルを介して微妙につながるベルトリ

73年の5月には、ミラノ警察署で開かれたカラブレージ警部殺害の『一周年の追悼会』で爆弾が炸裂し、4人が死亡、52人が負傷するという大事件が起きています。その犯人として自称『アナーキスト』のジャンフランコ・ベルトリが捜査されましたが、事件後すぐにイスラエルへと逃亡し、行方が分からなくなっています。しかしながら、のち2002年にベルトリは、なんと軍部諜報SIFARのシークレット・サービスで、コードネーム『フォンテ・ネグロ』としてSIDに従属していたことが明らかになりました。つまり市民への無差別攻撃は、すべて極左グループに疑惑が向けられるように、周到に準備されていたということです。

ミラノ警察署爆発事件におけるベルトリの真の目的は、『フォンターナ広場』事件後、『緊張作戦』を担う軍部諜報、極右テロリストたちが熱望していた『非常事態宣言』を出さなかった69年時の首相ルモールを「見せしめ」のために殺害することでもありました。しかしベルトリが仕掛けた爆弾が爆発したのは、ルモール首相が追悼式を去った直後のことで、犠牲となったのは無辜の市民でした。

またこの頃、次のアクションを計画していたフランチェスキーニは、再びモレッティに疑惑を抱くことになります。6月に入って、『赤い旅団』はマリオ・モレッティ主導で、アルファ・ロメオの幹部ミケーレ・ミクッツィの誘拐を計画していましたが、その誘拐を巡り、コリエレ・デッラ・セーラ紙が掲載した『旅団』の警告のビラ写真を見て、フランチェスキーニは仰天したのです。というのも『旅団』のロゴが五芒星ではなく、六芒星、つまりイスラエルのシンボルである『ダビデの星』となっていたからです。

フランチェスキーニが「ロゴを間違えるとはどういうことだ!」と問い詰めると、モレッティはいつものように「間違っただけだ」と言い張りましたが、フランチェスキーニはモレッティのその態度に疑惑を深めます。さらにフランチェスキーニは、フェルトリネッリの死後、インターナショナルな連帯を失って途方に暮れていた『赤い旅団』に、ある日イスラエルの諜報 (!) から連絡が入ったことを思い出していました。

敵であるはずの国から支援の打診がある、というその尋常でない連絡は、73年から『赤い旅団』が発行しはじめた雑誌『Contro informazione – カウンター・インフォメーション』を編集していたトレント大学の社会学者、アントニオ・ベッラヴィータ、そして執筆者でもあったアルド・ボナーミを通じて行われたそうです。

イスラエル側は「わたしたちは君たちの存在に非常に興味があるのだ。君たちは君たちのやるべきことだけやればいい。資金と武器を供給してあげよう」と気前よく提案。その連絡が虚偽でないことの証明として、当時『赤い旅団』に紛れ込んだ3人のスパイの名を明示したそうです。『旅団』のメンバーがその3人を調べると、確かに『旅団』にスパイとして紛れ込もうとしていた工場労働者たちで、もちろん当時の執行部、クルチョ、フランチェスキーニ、カゴールは「イスラエルから援助を受けるなんてとんでもない」、とイスラエルの提案にははっきりと「NO」と答えています。

イスラエルからの伝言を伝えたベッラヴィータとボナーミという人物は、モサドであったミラノの医者、ローランド・ベーベアクアと親しく、極左でありながらイスラエルとも絆を持つ人物でもありました。『赤い旅団』が、さらに過激に世間を騒がすテログループに成長することが、イスラエルにとっては利益となる事情があったことは明らかですが、この時代、敵か味方かはっきりしないまま、グレイゾーンで動いていた人物たちが大勢いることには驚かされます。末端の闘士たちは極左も極右も明確な思想を持っていても、その周囲には、右も左もなくイエスでもノーでもない曖昧な人々の存在があり、結局のところ、そのグレイゾーンの人々が歴史を動かしている、と言えるのかもしれません。

ちなみにこの『赤い旅団』が発行する雑誌、『カウンター・インフォメーション』の執筆者は、レナート・クルチョはもちろん、トニ・ネグリや『フォンターナ広場事件』直後に数人の共同執筆として匿名で出版され、極左の若者たちのバイブルとなった暴露書籍『La strage di stato(国家の虐殺)』の中心執筆者、弁護士エドアルド・デ・ジョヴァンニ、GAPのメンバーでもあった伝説のパルチザン、ジャンバティスタ・ラザーニャと、錚々たるメンバーで占められ、発行当初からその内容の濃密さとレベルの高さで、たちまちのうちに有名になっています。また「カウンター・インフォメーション』という雑誌は『赤い旅団』が外部との情報をやり取りのための『システム』という役割をも担っていたのだそうです。

このような経緯がありましたから、ミケーレ・ミクッツィ誘拐事件の際、モレッティがビラに書いた『ダヴィデの星』はひょっとすると、「俺たちに実力があることはわかるだろう? 『赤い旅団』のコマンドは俺なんだ」というメッセージだったのでないか、と現在のフランチェスキーニは考えるようになっています。また、イスラエルと『赤い旅団』を仲介したアルド・ボナーミは、5月のミラノ警察署爆破の実行犯、自称アナーキスト、実はSIDのスパイであったジャンフランコ・ベルトリのイスラエル逃亡を幇助した人物(!)でもあったそうです。

☆マリオ・モレッティとプロスペロー・ガリナーリ

さらに72年の終わりには、シミオーニが去るとともに『赤い旅団』から消えたプロスペロー・ガリナーリが『旅団』に舞い戻り、前述したクルチョが主導したトリノの誘拐事件にも関わっています。そもそもガリナーリは、フランチェスキーニと同様、エミリア・ロマーニャの共産党青年部から派生した極左運動を出自とする、シミオーニの極秘精鋭武装集団「スーパークラン」のメンバーでもありました。

モレッティ同様、突然戻ってきたガリナーリに「今まで何処へ行っていたのか」と仲間たちが問うと、「労働組合の活動家たちと共にいた」と曖昧に答えていますが、その空白の間に何処に行方をくらましていたのか、正確なことはわかっていません。また、シミオーニとその他のスーパークランたち、つまり、76年にパリに移動し『ヒペリオン』という名の語学学校を設立、その中心人物となるヴァンニ・ムリナリス、ドゥーチョ・ベリオ、フランソワ・トゥッシャーらは、皆でヴェネトへと移動した、とその時ガリナーリは語っています。

ガリナーリにしても、モレッティにしても、舞い戻る理由が釈然とはしなくとも、その頃の『赤い旅団』の執行幹部は、創成期からの『Compagna-同志』である彼らを信頼し、受け入れざるをえないと考えていました。また、初期の『赤い旅団』にはこのように、「同志的な友情と柔軟性」という要素が随所に見られることを興味深く思います。

実際、各メンバーの著書やインタビューを読んでも、血塗られた残酷な悪党たち、というイメージはなく、それぞれにそれぞれの思いというか、思想というか、物語というか、『人間』の情感が迸り、文学的とすら言えるかもしれません。とはいっても、わたしはテロリズムを容認するわけではなく、そこにロマンを見出すわけでもありません。ただ、人間の脆さ、危うさを切なく思います。

さて、1973年という年は、世界的な経済危機が市民の生活を直撃した重要な年でもありました。10月に火蓋が切られた第4次中東戦争勃発に伴う、第一次『オイル・ショック』の一陣が世界を吹き荒れることになり、日本同様、原油価格の高騰による経済混乱がイタリアを襲い、最終的には2桁のインフレを引き起こすほどになっています。そして『緊張作戦』下にあるイタリアの『オイル・ショック』に続く厳しい緊縮政策に、市民の怒りは日々募り、やがてその怒りがマグマとなって『鉛の時代』のピーク、そして時代のシンボルとも言える「1977年の全国規模抗議行動」へと収斂されていくことになります。この『市民戦争』とも言える77年のムーブメントについては、のち、考察する予定です。

この第1次『オイルショック』で世界中がエネルギー危機に陥り、欧州経済は大きなダメージを受け、特にイタリアにおいては致命的な打撃となりました。ガソリンの値段が急騰し、日曜は車がまったく走らず、広告ネオンは22時で消され、街頭も消されて夜は深い暗闇となったそうです。車が売れなくなり、フィアットも危機を迎えています。この時代の映像を見ていると、時代を反映して、小銭の代わりにキャンディをお釣りにしている商店の様子に出くわすことがあって、微笑ましくもありますが、貨幣の流通そのものが滞っていたのかもしれません。

ところで何と言っても、この73年の『オイルショック』で思い出すのが、1969年の時点でコラード・シミオーニがクルチョやフランチェスキーニに語っていた計画でしょうか。「IBMのコンピューターを使った試算から(コンピューターでそんな試算ができるのかどうか、わたしには分からないのですが)、1973~74年には世界的な経済危機がおこるので、そこで大きな事件を起こそう。その時に優秀な人材を確保しつつ、あらゆる極左グループへと忍び込んで撹乱させ、『市民戦争』を起こすのだ」と、シミオーニはクルチョやカゴール、フランチェスキーニに、まるで予言するように話していました。

いずれにしても、この『オイルショック』期に『赤い旅団』幹部は、状況を理論的にアナライズ、資本主義の弱点を暴くチャンスと見なし、そこにマルキシズムの光を当てようと試みていました。大学生は、卒業しても職が見つからず、したがって将来の安定は望めず、若者たちの間には失望と怒りが渦巻いていた。また、サラリーが支払われなくなったせいで犯罪が増え、社会が殺伐と荒廃し、『赤い旅団』は、この状況を生んだ経済危機の中心にあるのは『巨大多国籍企業の専制』とみなし、『多国籍企業による帝国、その一端としての国家』打倒をスローガンに据えています。

目標にすべきは階級闘争革命のみならず、反帝国主義である共産主義へと向かうこと。その分析からやがて、彼らは闘いの場『工場』から『国家の心臓部』へと変化させていくことになるのです。そしてこれが、のちの『赤い旅団』の未来を決定的に運命づける、非常に重要なターゲットの変化となります。

音を立てて『赤い旅団』が変化しはじめた74年

74年は、それまでの『赤い旅団』のあり方が根底から覆されることになる年、と言ってもいいでしょう。もちろん、『赤い旅団』ははじめから、マルクス・レーニン主義を謳う武装集団であり、「民主主義によって世界を変えることはできない。『武装革命』、つまり国家との戦争によって権力を握るプロレタリアートの専制こそが唯一の共産主義国家のあり方」、と考えていましたから、放火や誘拐などの『テロ』というプロパガンダで存在感を誇示、目標に近づこうとしてきたわけです。しかし初期、つまり、この74年までに『旅団』が起こしたテロからは、1滴の血も流れることはありませんでした

さらに74年になると、なぜか『イタリア共産党は、アルベルト・フランチェスキーニとピエリーノ・マルラッキ (兄弟が共産党機関紙『L’unitàーウニタ』で働いていた) に近づき、『赤い旅団』を離れて、共鳴者である裁判官、デ・ヴィンツェンツォに相談するように、進言しています。と同時に共産党は、コラード・シミオーニの『スーパークラン』のメンバーで、共産党に通っていた時期があるドゥーチョ・ベニオとそのパートナーにも同様に、その裁判官の元へ行って極左のアクションから離れることを提案しています。このとき『イタリア共産党』は、『赤い旅団』の動きをすべて知り尽くし、さらには「スーパークラン」の存在をも知っていたそうです。

また、その頃の『イタリア共産党』は、例えばKGBか、あるいは自国の諜報か、何らかの諜報関係との繋がりで、今後の『赤い旅団』がエスカレートしていくこと事前に知っていた節があります。だからこそ、祖父が共産党結党メンバーのひとりであったフランチェスキーニをはじめ、共産党に関係のあるメンバーを、今後起こるであろうエスカレーションから引き離そうとしたのです。

『イタリア共産党』のこのアプローチは、もちろん共産党に縁のある彼らを助けたい、という意味合いもあるかもしれませんが、フランチェスキーニが「クルチョやカゴールを裏切ることはできない」と提案を一蹴すると「これから起こることには『イタリア共産党』、さらにCIGL(労働組合)は一切関わりがないし、われわれは何も知らないから。関係ないからね」と宣言された、とフランチェスキーニは述懐していました。つまりイタリア共産党は保身に回ったということでしょうか。

同時に、『赤い旅団』の存在をプラハが保護していることを知っていたイタリア共産党は、プラハにも『赤い旅団』との関係を断ち切ることを警告。おそらくイタリア共産党は、グラディオの詳細を知る『キリスト教民主党』、『イタリア社会党同様』に、イタリアが置かれた状況を知り尽くしていたのではないか、と推測されます。

68年以降、『キリスト教民主党』のアルド・モーロと密に対話をはじめ、選挙では躍進、政府議会で存在感を増したこの時期の『イタリア共産党』の立ち回りの背景を知ると、コリエレ・デッラ・セーラ紙にパソリーニが書いた75年の記事、『Io so – 僕は知っているのイタリア共産党批判が、やや明確になります。この年から『イタリア共産党』は、完全に『赤い旅団』の敵へと回り、激しく攻撃しはじめることになりました。

▶︎☆検察官マリオ・ソッシ誘拐事件

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