ローマでは毎年夏になると、あちらこちらの広場や公園でコンサートやチネマ・アペルト(オープンチネマ)が開かれ、そのイベントの数々は夏の風物詩でもあります。しかし去年あたりからローマ市財政危機のせいか、夏のイベントもぐんと縮小。残念、と思っていたところ、トラステヴェレの広場で、素敵なチネマのフェスティバルが開催されました。
2015年6月の統計で、国内失業率12,7%、なかでも24歳以下の若者の失業率44,2%という、77年以来最悪の失業率を記録したイタリア。さらにローマ市は、積年の債務に加え、昨年12月、マフィアグループが、市政に入り込んで、職員たちを買収していたという前代未聞もマフィア・カピターレの発覚もあり、財政は日に日に悪化しています。
毎日来るはずの清掃車が来ない日が続いて街角がゴミだらけになったり、財政難に喘ぐローマ市営バスの車両が次々と故障して、交通網がまったく機能しなくなったり、郊外で右翼グループが乱暴な移民排斥デモ集会を開いて警察ともみあったり、と何かと不穏なニュースが多い毎日で、しかも文化予算の大幅削減で、かつてはあちらこちらで開かれていたEstate Romana(ローマの夏)のコンサートやオープンシネマも、いわゆる商業的なエンターテインメントが中心となって、夏だというのにローマらしくない、どこか閑散とした空気が漂ってもいました。
ところが、そんな晴れ晴れとしない気分を吹き飛ばすかのように、『Festival Trastevere Rione del Cinema」(チネマの街、トラステヴェレフェスティバル)がイキイキとして面白い、と主要紙地方版やSNS、ネットニュースでローマの街に、突如として広がったのです。このフェスティバルは、つい最近まで同じくトラステヴェレの歴史的な映画館、『チネマアメリカ』を「占拠」していた若い活動家たちが企画したものでした。
このフェスティバルがはじまる前は、「強制退去になったあともチネマアメリカの若い子たちは、まだ頑張っているんだね。よかったね」ぐらいの反応でしたが、フェスティバル開幕4日後、イタリア映画の重要なマエストロのひとり、今年84歳になるエットレ・スコーラ監督自らが89年に制作した『Splendor(スプレンドール)』をプレゼンテーション(エットレ・スコーラ監督は2016年に他界。イタリア全土で惜しまれました)。エットレ・スコーラ監督自ら、ローマの現在の『文化』の有り様に充分な理解を示さないローマ市長、さらにローマ文化評議委員に苦言を呈するという、話題をさらう出来事をはじめとするスペシャルなイベントが続いて、あっという間に大変な人波が押し寄せるフェスティバルとなりました。
さて、春夏秋冬、観光客で溢れかえるトゥーリスティックな街角としても名高いトラステヴェレですが、1本、2本と路地を奥に入ると、向かい合った建物の間に、いまだにロープを張って呑気に洗濯物が干される、いかにもローマの下町という風情のある街角が現れます。チネマアメリカの元占拠者たちが開催した、『 Festival Trastevere Rione del Cinema(フェスティヴァル・トラステヴェレ・リオーネ・デル・チネマ』は、レストランが並ぶ賑やかな中心からは少し離れた、そんな庶民的なリオーネ・トラステヴェレの一角、サン・コシマート広場が会場となりました。
ちなみに何代にも渡って、その土地に住み継いだ年配のRomani(ローマっ子)は、この「リオーネ」というローマの中心街を区分する古い呼び名にこだわります。たとえば「このQuartiere(クアルティエレ:標準的に使われる『地区』を指すイタリア語)は、最近ずいぶんモダンになりましたよね」などと、長くその地でバールを経営するおじさんに気軽に言うと、「ここはQuartiereなんて呼ばないんだよ。Rione、リオーネって呼ぶんだ。ここはリオーネ・トラステヴェレなんだよ」とすかさず修正されます。
「リオーネ」は、ローマの中心街をいくつかの地区に区分するregio( regio-ōnis ラテン語)という名称が通俗化、現代まで引き継がれた呼び名で、時代によって地区の区分は変わりますが、イタリア統一以降の22の区分が現在に残り、たとえばコロッセオ、フォロ・ロマーノ近辺のモンティはローマ第1のリオーネとしてリオーネ・モンティと呼ばれ、トラステヴェレはローマ中心街の13番めのリオーネとなります。
6月、7月の2ヶ月間に渡って、トラステヴェレで開かれたこのチネマフェスティバルを企画した若い活動家グループにより作成されたプログラムには、前述したエットレ・スコーラをはじめ、ジョゼッペ・トルナトーレ、ナンニ・モレッティなど、現代イタリア映画のマエストロ自らが自身の映画を紹介するというゴージャスなゆうべや、著名な映画評論家たちが、上映された映画の批評をするという魅力的なイベントが目白押しでした。
あるいはインディペンデントで活躍するアゴスティーノ・フェレンテが登場、最近の自らのドキュメンタリー『Le cose belle』について語り、俳優ヴァレリオ・マスタンドレアが、ヘビーなヘロイン中毒ワールドをコメディで描いて1983年のヴェネチア映画祭で特別賞に輝いた、クラウディオ・カリガーリ監督の『Amore Tossico(アモーレ・トッシコ)』、同じく俳優カルロ・ヴェルドーネがアンナ・マンニャーニへのオマージュとしてパソリーニの『Mamma Roma(マンマ・ローマ)』をプレゼンテーションしたりと、豪華なイベントが繰り広げられ、広場は、連日満員御礼でした。集まった家族連れ、若いカップル、お年寄り、アーティスト、子供たちが広場に用意された椅子ではまったく足りず、自宅から椅子を持ってくる人が現れたり、石畳に座り込む人々が道路にまで溢れ、賑やかに、アットホームな雰囲気で、深夜まで映画を楽しむという光景が広がったのです。
上映された映画も新旧多種多様で、懐かしいグランデチネマ(名画)もあれば、チャップリンの『モダンタイムス』、イタリア人が大好きなTOTòのコメディ、あるいはブラザー・コーエン、ウェス・アンダーソン、スピルバーグ、ロバート・ゼメキスのレトロスペクティブもありました。さらに土曜の夜は、子供たちのために『シンデレラ』『ジャングル・ブック』などディズニーの名作アニメの数々が上映され、しかもそれらはすべて無料、誰でも大歓迎という気前の良さです。そしてこの自由な空気こそが70年代から続くEstate Romana(エスターテ・ロマーナ)以来の、正統なローマの夏の風景といえるものかもしれません。じりじり暑い真夏の夜の60日間、それほど広くはないトラステヴェレの庶民が集うサン・コシマート広場に、広大なチネマの宇宙が広がったのです。
また、非常に興味深かったのが、映画が上映される前に流れるいくつかのコマーシャルで、それらはサン・コシマート広場近辺のジェラート屋さん、街角のバールやピッツェリアの、なかなか手の込んだオリジナル広告でした。というのも彼らが今回のフェスティバルにかかった費用をすべて負担したスポンサーたちなのだそうで、映画がはねたあとは、思惑通り、ジェラード屋さんにもバールにも、長蛇の列ができる大繁盛でした。
この経済循環のメカニズムもチネマアメリカの若いアクティヴィストたちの、「トラステヴェレというテリトリーにおける『映画』は、文化的、社会的な視点からだけでなく、商業的価値をも視野に入れるべきだ」というアイデアから生まれた、まさに「ローカリズム」とも呼べる精神でした。
ところで、彼らが2014年の夏まで「占拠」していた、Via Natale del Grande(ナターレ・デル・グランデ通り)の歴史的な映画館、『CINEMA AMERICA(チネマ・アメリカ)』は、1950年代にトリノの建築家アンジェロ・デ・カステロが設計した、歴史的にも、文化的にも、そしてある意味、政治的にも重要な映画館でした。しかし最後の映画が上演された1999年以来、経営が停止され、空き家のまま廃墟となってしまいました。
やがて閉鎖から7年が経過した2007年のこと、民間の所有であった「チネマ・アメリカ」に、映画館のある建物ごと改造して、38戸のミニアパートと82台の車を収容する二階建て駐車場を持つ商業施設にする、という計画が持ち上がります。その計画に憤然と反発した地域住民たちが、自分たちの街角を「投資的な動き」から守るために委員会を作り、改装プロジェクトが違法であることをローマ市に訴えたのが、そもそものはじまりでした。
そんななか、映画マニアの高校生政治活動家が映画館を占拠したのは2012年のことです。また、この占拠は、同じ時期に占拠されたテアトロ・ヴァッレ同様、ローマにおける最の重要な文化的占拠と捉えられています。13年も放置されたまま、埃にまみれ、荒れ放題だった古い映画館を、高校生たちが少しづつ掃除をして修復、整頓し、シンプルな内装ながら、24時間市民に開放される「文化的・社会的映画」スペース、いわばソーシャル・チネマとして生まれ変わりました。「リオーネ・トラステベレの心臓部、チネマアメリカに、投資目的のための建造物を作らせるわけにはいかない。このままでは映画は死んでしまう」
映画監督ナンニ・モレッティ、パオロ・ソレンティーノ、ジャンフランコ・ロージ、ダニエレ・ルケッティ、また、俳優ヴァレリオ・マスタンドレア、カルロ・ヴェルドーネを含めた錚々たる顔ぶれの映画人が、このチネマアメリカの占拠支持を表明。即刻立ち退きを迫る民間会社の「投資目的、利潤を最優先する」プロジェクトに反発します。
またMinistro di beni culturali(文化省大臣:2015年当時)、ダリオ・フランチェスキーニもその状況を重く見て、チネマアメリカを「歴史的にも、政治的にも重要な、知的文化財産」として建造物改装期限の延長を所有者に要請するなど、グループを支持。このように、次々と強力な支持を集める動きから、一時期は、そのまま彼らの「占拠」は継続するかのように見えました。しかしながら民間の所有者は、それらの支持を完全に無視、大臣の要請をも受け入れず、2014年の夏、映画館にたったひとりしか占拠者がいない時間を狙ったかのように、警官とともに映画館になだれ込んで「占拠」を強制的に終了させるという攻撃的な反撃に出たのです。
この暴挙に、支持を表明していたオスカー受賞監督ソレンティーノは「もしチネマアメリカを閉鎖するなら、ローマの名誉市民を捨てる(ソレンティーノは、オスカー受賞を機にローマの名誉市民を獲得しています)」と激怒、同じくオスカー受賞監督ガブリエレ・サルヴァトレスも「チネマアメリカを再開しなければ、オスカーを放棄する」とまで宣言しました。
「歴史的に重要な建築物にあるこの映画館は、ローマ市民のための文化的、また社会的成長の場である。投資目的の人々には渡せない」という主旨の手紙が、多くの映画人たちの連名でローマ市長宛に送られ、さらにイタリア全国映画協会の責任者もまた、文化省大臣、ローマ市長宛に抗議文を送ります。映画俳優ルカ・ジンガレッティの兄でもあるラツィオ州知事ニコラ・ジンガレッティも占拠支持を表明。そのうえ当時の大統領ジョルジョ・ナポリターノまでが、占拠者たちに「あなたたちの働きに、敬意を表する」とメッセージを送るという事態となりました。
「カンパを募って、チネマアメリカを買い取ろう」という動きもあるなか、あらゆる抵抗もむなしく、いまのところ「チネマ・アメリカ」再開のメドはたっていません。占拠していた高校生政治活動家グループは、退去ののちも「どこか他の場所があれば、いつでも占拠する用意がある」と勇ましく若々しい声明を出し、2015年に入って『ピッコロ・チネマアメリカ』という名のアソシエーションを立ち上げました。
チネマアメリカに変わる場所を提供すると約束していたローマ市は、多少時間はかかりましたが彼らのアソシエーション創立とともに、映画が上映できるほど広くはなくとも、あらゆる映画に関するイベントや企画の窓口にはなるであろう、こじんまりとしたスペースをトラステヴェレに用意。強制退去から約1年、若い活動家たちは、多くの映画人たちの支持をバックに、テヴェレ川に浮かぶティベリーナ島や、郊外のオープンスペースで映画を上演するなど、次の行方を模索しているところです。今回のラツィオ州、ローマ市が協賛してのサン・コシマート広場でのチネマフェスティバルもその活動の一環でした。
なにより、イタリアの多くの映画人たち、また元大統領を含める政治家たちが、庶民の文化としての映画を守ろうと活動する高校生の活動家たちを支えていることは、とても素敵なことだと思います。ジョゼッペ・トルナトーレ監督が描いた「ニュー・シネマ・パラダイス」のスピリット、長い時間に培われたイタリアの映画文化、観る人々を時空を超えた物語の世界に招待する作品の数々を、時を経てもなお愛し、大切に想う気持ちが、ピッコロ・チネマアメリカの若いアクティビストのグループにも脈々と息づいているようにも思います。「映画はあらゆるすべての人々に開かれた文化であるべきだ」という彼らの信念が、サン・コシマート広場に、広場を囲む、ローカルな小さいお店のビジネスにも貢献しながら、自由な空気をもたらしました。
わたしがフェスティバルに行った晩、1時間も前に到着したというのに広場に置かれた椅子はすでに満席。やっと見つけた最後部の座席に、人垣をかきわけてスルリと滑り込んだ瞬間、ポンポン、と予期せず肩を叩かれます。振り向くと、82、3歳と思われる背筋の伸びたおじいさんが座席の背後にすっと立ち、にっこり微笑んで「わたしは年寄りだから、その席を譲ってくれないかな」と静かに、しかしうむを言わせぬ口調で主張して、これでは抵抗のしようがありません。わたしは素直に「はい」と頷いて、そのおじいさんに席を譲り、若いカップルや、子供たちと一緒に石畳に座り込んでの映画鑑賞を決行することに相成りました。
ところがそれがなかなかよかったのです。石畳に座り込んで、知らない人々と群れあい、ときどき立ったり、座ったり、水を買いに行ったり、子供が遊んでいるボールを拾ってあげたりしながら、くつろいで観る映画は、映画館の指定席で見るよりも、数段楽しく、躍動感がありました。プロジェクターをコンピューターで操作している政治活動家たちは、見たところ20代の青年で、「あれ?」と言いながら、映画の出だしを間違ったりもして、そのいい加減な(いい意味で)手作り感に、皆がハハハ、と笑うのもなごやかな雰囲気です。なにしろタダですから、何が起こっても、誰もがはじめから得した気分でもあります。
こうして40年も50年も昔の名作や、数年前の話題作が、街角で再び人々に楽しまれ、監督や俳優、批評家たちに語られ、それぞれの作品に、さらなる新たな命が与えられました。
7月30日、マリオ・モニチェッリの『L’armata Brancaleone』(アルマータ・ブランカレオーネ)を最後に、フェスティバルは終わりを迎え、人々の熱い息吹きとざわめき、興奮を余韻に、サン・コシマート広場はそろそろやってきたヴァカンスの季節へ向かって、深い夜へと落ちていきました。そしてトラステヴェレの庶民が集まる街角は、いつもの静かな夏休みの風景へと戻っていったのです。
*7月14日に上映された、エドワルド・デ・フィリッポの戯曲を映画化したヴィットリオ・デシーカ監督『Matrimonio All’Italia』(邦題:ああ、結婚 )フルムービーがYoutubeから削除されているので、トレイラーをリンクしておきます。