三番目の本、『Dannate Esclusione(地獄の排斥)』というタイトルは?
やっぱりこの本のタイトルもバスコ・ロッシからいただいたもの。社会的な排斥というのは、どういう条件であっても、レイシズムのひとつの形だと思うのよね。たとえば都会育ちの子供たちが、地方の山の村から引っ越してきた子供を「田舎者」とからかうのも、レイシズムの芽生えを象徴する行為かもしれない。バスコ・ロッシは、山の村からボローニャという大都市に越してきた子供の辛い経験を歌にしているんだけれど、その歌詞のテキストからいくつかメモをとって、そのメモからそれぞれの章を発展させてみた。ロムの居住区、そこでの彼らの生活がどれほどひどい条件であるかということを書いたのよ。
そもそもロム居住区には電気も水もない、家族、グループが、少しの間だけ滞在することのできるキャンプであるはずなのに、定住するための住居が見つからないから、彼らは結局次の世代まで居住区に住まなければならず、社会から隔離されたまま、衛生状況もひどい場所で暮らしている。本来なら暫定的なエマージェンシーであるべき住居に、永遠に、何世代も住まなければならないの。それは彼らが身分を証明するドキュメントを持っていなくて、社会的に存在が全く認められていないからよ。存在が認められなければ、正当な住まいはどこにも得られない。わたしたちの学校プロジェクトに参加した子供たちのなかにも、いまだに身分を証明するドキュメントを手に入れることができない子たちがたくさんいる。
このような問題を突きつめていくうちに、第2次世界大戦ちゅう、イタリアにも強制収容所があったことを発見した。それもわたしの出身地、今でも家族や親戚が住んでいるモリーゼ州に! わたしはピエトラアボンダンテというちいさい街の出身なんだけれど、強制収容所はそのすぐそば、いつも通りかかる場所にあって、わたしたち家族は、強制収容所のことなんか、少しも知らなかったから、その事実を知ったときには一様に衝撃を受けたわ。
1930年代、40年代のイタリアでは、その存在は政府から周到に隠され、収容所のことは完璧に極秘にされていた。隠されたその場所に、秘密裏に集めて来られた人々は、ひどい条件で幽閉されていたそうよ。その時代、イタリアの内部を移動しながら生活していたロムの人々も、モリーゼにあった5つの強制収容所に、うむも言わせず連れてこられた。その事実を知ったわたしたちは、その近所に住む老齢の人々でその様子を憶えている人々に、インタビューをして証言を集めることにしたんだけれど、今もまだ健在の90歳を過ぎたその人々は、鎖に繋がれ連れて来られた人々が「一体何者か、まったく知らなかった、泥棒か犯罪者だと思っていた」そうよ。
その強制収容所の環境は劣悪で、衛生状況もひどく悪く、日々の食物も、ほんの僅かしか与えられなかったから、収容所で亡くなった人も多くいる。そして信じられないことに、60年、70年もの間、イタリアではそんな非人道的な強制収容所が存在していたことが、ひたすら隠されていたのよ。30年ほど前から、「ひょっとしたら」という噂が語りはじめられ、やっと今、その事実が明るみに出ることになったところ。
最近になって、ようやくモリーゼのセルニャ市がオフィシャルに、民族、異人種を社会から抹殺しようとしたこの収容所の存在を認め、収容されていた人々のリストを発表。そのリストには「強制収容所」というスタンプがくっきりと押されているわ。その収容所が、いったいどういう状況だったのかをリサーチするために、わたしたちはその時代、強制収容所に幽閉されていたロムの老婆をやっとのことで探し出すことにも成功し、その収容所での経験を彼女に語ってもらったの。歴史の真実の証人としてね。そしてその証言の詳細を、本に書いたというわけよ。
彼女、90歳だけどまだ元気なのよ。彼女は家族と一緒にローマのテスタッチョに住んでいたんだけれど、最近、信じられないことに「強制退去」になってね。90歳にもなる老婆が強制退去で追い出されて家を失って彷徨わなくてはならない、なんてまったくひどい、残酷な状況だと思わない?
しかも去年、マフィア・カピターレがローマで発覚して、ロム居住区を担当していた市の評議委員が、本来ならロムたちの生活の向上に使われるはずだった文化予算を、マフィアと共に横領していたことが明らかになったでしょう? そのお金の行方は今でも曖昧になったままなのよ。それにマフィア・カピターレの発覚とともに、プロジェクトの予算は完全にブロックされ、ロムの生活状況は、一気に悪化したとも言えるわ。現在ローマ市評議委員たちの裁判が進行ちゅうだけど、捜査が継続され、何もかもが明るみに出て、わたしたちのプロジェクトが再開されるのを待っているところなの。
そもそも何故、ロムの人々をサポートしようと考えたんですか?
かつてメキシコに旅をして、「チャパス」の原住民の文化に興味を持ったのが、ソーシャルな活動をはじめたきっかけ。彼らは度重なる侵略で住む場所を奪われ、ジェノサイドの危機に陥っている。その「チャパス」の原住民をサポートするグループと、旅の途中に知り合いになり、そこでいろいろと学んだことから、ソーシャルな活動に関わっていこうと決心したの。それからわたしの出身地であるモリーゼにはイタリアで最も大きいロムのコミュニティー彼らは「シンティ」と呼ばれる500年以上イタリアに住んでいる人々なんだけどー子供のころから、わたしたちの社会とはまったく違うスタイルで生きる、その人々の存在に大きな好奇心を持っていたのも理由のひとつ。
わたしたちは社会が望むように、いわば社会の規範、システムに生きていかなくてはならない。青春時代のわたしは、そのシステムが息苦しくて、我慢ならず、社会そのものを拒絶するような心理状態に陥った。みんなと同じように、大学に入って、結婚して、子供を産んで、という人生を考えること、社会が要求する人間を装うことが、ひどく重荷に感じた。自由に生きること、つまり他人と違うことを表現すると差別され、除け者にされる傾向が、現代の社会システムにはあるからね。そしてそのシステムこそが、そもそものレイシズムの発端よ。青春時代のわたしは、自分のぶつけどころのない心理的危機感をバスコ・ロッシの歌を聴いて癒していたのよ。そして彼の歌から、自分の持つ他人と違う部分こそ「豊かさ」であることを学んだの。わたしはだから自分とは全く違う文化を持った人々を助けたいと思った。なぜなら彼らこそが、わたしたちの人生に違う色彩、多様性をもたらしてくれる人々なのだから。
何かこころに残るエピソードはありますか?
私のもうひとつの仕事、タクシーの仕事をしていると、大勢の人がわたしのプロジェクトに興味を持って、助けてくれる人もいてね。ちょっと驚いたのは、コートジボアールの大司教がわたしたちのプロジェクトに賛同して、ローマに来るたびに大使館やカトリックの大学の生徒とともに、広めるのを手伝ってくれること。人とたくさん会うことによって、自分のプロジェクトが豊かになるのを感じるわ。
ロムの子たちに関するエピソードでは、この何年間かを共に過ごしたロムの子供たちのなかに、ひとり、耳がまったく聞こえず喋ることもできない青年がいるの。ロムのなかでは「頭がおかしい」と邪魔者扱いにされていた子なんだけれど、わたしたちのプロジェクトに参加した子たちのなかでは、ものすごくよく勉強する子でね。17歳から勉強をはじめて、数年のうちに高校の卒業資格を取った。そのあと大学に入学しようと頑張っているんだけれど、残念ながら、彼もドキュメントがなかなか認められなくて、大学に願書を書くこともできない。
すぐに「市民権」は無理だとしても、少なくとも「滞在許可証」は出してもらわないと大学には入学できないからね。そこで現在、わたしたちは彼のためにあれこれ動いているところ。今頃になってイタリア政府は、両親が外国人であっても、イタリアで生まれた子供にはイタリアの「市民権」を与えるという法律を議論しているところだけれど、すみやかにその法案が通過して、ロムの子供たちがよりよい人生が送れることになるように願っているわ。でなければ、ロムの人々は何代も前にイタリアに移住して、2世代、3世代はイタリアで生まれているというのに、パスポートも滞在許可証もまったくなく、何の権利も主張できないまま暮らさなければならないのよ。
そしてやっぱり、ロムの子たちがイタリアの社会に溶け込むのは、なかなか難しいことなの。ここ数年レイシズムがいよいよ激しくなって、彼らに対する風当たりも強くなっている。残念ながら、それは負の側面を強調して報道するマスメディアのせいとも言えると思う。マスメディアの人々が、ロムに関する事件を差別的に、スキャンダラスに過剰報道することもあって、市民をロムへの敵対させる方向に誘導することもあるからね。わたしたちが路上に出向いて、ロムの子供たちと話し合ったり、あるいはロム居住区へ出かけて、子供たちを学校へ招こうとしているというのに、メディアはまったく協力してくれない。
それに、わたしたちが20年近くかけて築き上げてきたロムの人々の信頼と、イタリア社会へなんとか協調しようとする彼らの努力を、北部同盟とカーサ・パウンドがぶち壊そうともしているわ。彼らのロム・ネガティブキャンペーンのせいで、ロムの人々も不信感を募らせて、捨て鉢になってネガティブな方向へ動こうとする。カーサ・パウンドは子供たちが学校へ行こうとするのを、わざわざ居住区までやってきて、阻止したりもするのよ。彼らの喧伝するレイシズムは、ただ社会を不安に陥れ、事態を悪化させるだということを、まったく分かっていないの。わたしたちと一緒に勉強してきた子供たちも、今のネガティブキャンペーンの状況に不満を募らせ、フラストを起こし、イタリア社会を憎むようになってくる。憎悪による「分離」は、イタリアの社会、ロムのコミュニティ双方にとって不利益でしかないわ。
今後の本のプロジェクトを教えてください。
タクシーのことを書きたいわね。タクシーの運転手をしている女性たちのこと。その女性たちから見たローマ中心街から郊外、 Parioli(パリオリ:高級住宅地)からTorre bella monaca(トッレ・ベッラ・モナカ) までのことをね。彼女たちの視線から、ローマのすべてを書いてみたいと思っているわけ。タクシーの運転手を女性が担う、ということは女性たちのちょっとしたemancipazione(エマンチパツィオーネ) ー解放ムーブメントでもあって、数年前までは女性の運転手なんて数えるほどしかいなかったのに、いまでは1000人もいるのよ。つまりローマのタクシーの運転手の10%が女性。
それをわたしは女性の勝利だと思っているわけ。いまではたとえばイギリス人とか、ブラジル人とか外国人も多く働いていて、タクシーの運転手をしながら、ローマの社会に溶け込んでいく外人女性も多い。そもそも男性の仕事だったタクシーの運転手という業務に女性が参入し、彼女たちの目から見たローマ、彼女たち自身の物語を綴るのは、面白くて、新しい発見があるんじゃないかと思っているわ。
そしてわたしがタクシーの運転手になろうと思ったのは、出身地であるモリーゼの影響でもあるのよ。ローマのタクシーの運転手の半分、つまり4000人がモリーゼ出身者なの。ローマに走った最初の馬車を率いたのはモリーゼの人々で、ローマに移住してくる人々はみな、時代が変わって、その馬車を車に変えた。仲間同士でその免許を取ることを助け合い「許可証」を得て、タクシーの運転手になる。わたしも試験を受けて、その「許可証」をとったんだけれど、英語もスペイン語も話せたし、ソーシャルな活動のキャリアもあったし、3つの学校の卒業資格も得ていたから、わりと簡単に合格できたかもしれない。もちろん、タクシーの運転手をするのは、ソーシャルワークと作家だけでは、経済的に安定することは難しいから、という理由もあるけれどね。
タクシーの仕事は毎日とても面白いわ。ローマのようなトゥーリスティックな街では、いろいろな人種、多彩な文化を持つ人々に出会えるから。世界中のあらゆる国、インド、中国、アラブ、知らなかった伝統、習慣、そして考え方は勉強になるし、豊かさをもたらす。常に異文化交流をしている状態というのは、なかなか刺激的よ。プロジェクトを助けてくれる人も現れるしね。毎日が旅、というところだね。
*タイトルに使った写真を撮影した際、馬車につながれた馬に「疲れているね」とヴァニアが近づくと、馬は自然に頭を垂れ、彼女の手に顔をすりつけて、まるで両者がエネルギー交信をしているかのように、しばらく沈黙したまま動かない様子が、印象的でした。