ジプシーの人々ーここでは、そもそもの彼らの民族の名『ロム(Rom)』と呼ぶことにします。『盗み』『物乞い』というネガティブイメージがあまりに根強く、社会から顧みられることのないロムの人々、子供たちが、これ以上社会から排斥されないよう、地域の学校と協力、ロムと社会の間に接点を見出す活動に 20年近く関わり、 彼らと交流しながらその状況を書き続ける作家ヴァニア・マンチーニに、さまざまな話を聞いてみました。
イタリアに、15万〜17万人いると言われるロムの人々は、イタリア語では一般的に、ネガティブな意味合いを込めてZingari(ジンガリ)と呼ばれる、現代もなお放浪し続ける民です
停止することなく急回転する都市の循環から弾き飛ばされ、大抵はローマの郊外の、荒れ果てた土地の過酷なキャンプ居住区に暮らす、その人々について書くことは、日本人であるわたしにとって大変難しいことであり、街で見かけることはしょっちゅうでも、日常では接したことはなく、改めて考えてみれば、彼らと普通に会話をしたことすらありません。
したがって彼らのコミュニティがどのように成立しているか、どんな精神性を持つ人々なのか、まったく基礎知識がないのです。ローマにやってきて、多くのイタリア人に「ジンガリにはくれぐれも気をつけなきゃいけない。彼らはまったく働かない怠け者で、盗みと物乞いだけで生きている無法者だ。隙があれば狙われる。しかも何をしでかすか分からない危険な者たちなんだから」と、ことあるごとに忠告された経緯もあります。実際、地下鉄ではバッグを切られたり、すられそうになったこと、あるいはすられそうになっているトウーリストに忠告して、足をグイッと踏みつけられたことが何回もあります。
また、イヤフォーンを耳に普通に街を歩いているところ、急に音楽が聞こえなくなった、と思ったら、風のように走りゆく数人のロムの子供たちが、笑いながらうしろを振り向き、今までポケットに突っ込んでいたはずのわたしのデバイスを片手に、ピョンピョンと小躍りしながら瞬く間に消えてしまった、という経験もありました。そのときのわたしはといえば、あまりに急な出来事で、怒ることも忘れて耳にイヤフォーンを差したまま、飛び跳ねながら逃げる子供たちの背中を、「すごい技だなあ」となかば感心しながら呆然と見送るしか手だてがありませんでした。
あるいは地下鉄で盗みを働いて捕まったロムの少女が、痩せたちいさい身体をジタバタさせながら発する金切り声は、うす暗い地下をかき乱す、とてつもない声量で、その勢いが周囲の人々をすくませもしますし、このように、ローマの地下鉄やバスで、ロムの子供たちと乗客、駅員の人々、あるいは警官の格闘を見かけることは、そう珍しいことではありません。さらには生まれたばかりの赤ちゃんを大きな布で体にくくりつけた、ロムの若い母親が片手を差し出し近づいてきて、どんなに早足で歩いても、何十メートルも「お恵みを」「お恵みを」とつきまとわれることもあり、しかたない、と1ユーロを掌にのせると、「たったこれだけ?」と恨みがましい顔で、「もっとお恵みを」と催促されたりもします。
そういうわけで、なかなか手強い人々ですから、ロムの人々を美化するつもりはまったくないのです。ないのですが、この、ロムの人々が、がんじがらめに世界を覆うシステムにまったく順応することなく、社会から完全に排斥されながらも、独自のコミュニティを頑なに守る有り様に、きわめてミスティックな血の濃さ、アルカイックな生命力を感じ「何もかも、誰もかもが時とともに移りゆくのに、いったい何が彼らに変化を拒ませているのか」と興味をかきたてられる、というのが誠実な気持ちでもあります。
長い欧州の歴史において、倫理、法律、土地の慣習を無視して自由奔放に生きるロムの民族、その特異な存在感と神秘にロマンチシズムを見出し、作品にシンボライズした作家、詩人、画家たち、映画監督、たとえば有名なところではカラヴァッジョ、メリメ、サラサーテ、レオンカヴァッロ、新しいところでは、クストリッツァなど、数多くのアーティストが存在します。もちろん「ロムのリアリティはそれほどロマンティックなものではない」ということを分かっていても、かつて多くの芸術家たちが、ロムに魅了された気持ちも理解できないわけではないのです。
華やかな色彩の長いスカートを纏い、野生の匂いを漂わせながら、鋭い目をして群れ歩くロムの娘たち(驚くほど端正な顔をした少女もいて)の、街の人の目をまるで意識しない傍若無人な態度は、「管理と服従には根っから無縁である」と、われわれと同じ世界に存在しながら、違う次元に生きる人々のようです。
迫害、あるいは侵略により住む土地を追われ、世界にディアスポラした他の民族、例えばユダヤの人々、チベットの人々、そしてアラブ、アフリカからの移民、難民の人々は、独自の民族性、宗教性、精神性を保ちながらも、訪れた国の社会の規範、システムに抵抗することなく、「郷に入れば郷に従い」そのライフスタイルに馴染んでいくのが普通の光景です。もちろんロムにもいろいろな人がいて、社会に順応して服飾デザイナーになって活躍したり、音楽家として頭角を表す人もいますが、通常街で見かけるロムの人々は、近代社会システムなど一向に気にしている風はなく、ライフスタイルを変える様子もなく、世界の「掟」ではなく、ロムの「掟」で生きているように思えます。
そこで、インタビューの前に、少しだけロムの歴史を調べてみることにしました。何より、当のロムの人々が、自分たちが、一体どこからやってきたのか、気の遠くなるような長い放浪の間にすっかり忘れてしまっているという事実は興味深いことです。このルーツの忘却が、彼らに「放浪」をやめさせない理由かもしれない、とも思うのですが、基盤となる文化ルーツがなく、移動しつづけているのに、何世紀もの間、ライフスタイルを変えない強固なアイデンティティは、何かの魔法にかけられているようでもあり、謎に満ちています。
そのため2世紀ほど前までは、ロムの人々はどこからやってきたのか皆目見当のつかない、まったくの「エニグマ」とされてきましたが、現在では彼らが話す言語の分析研究から、発祥は北インドであると推定され、なんらかの理由で北インドからペルシャに移住、それから少しづつ欧州にディアスポラしたことが、ほぼ確実であるとみなされるようになりました。しかしそのディアスポラの理由は、いまだ定かではありません。
ペルシャの詩人が書き残している伝承では、「ペルシャの王、Scià BahramVが、インドの王に国民を楽しませるためにリュートの楽団を送ってほしいと願い出たところ、1万人の歌舞をよくする男女がペルシャにやってきた。Bahramが彼らを気に入り、彼らが居残るように、財宝、ロバ、また定住に必要な農耕をはじめるために小麦の種を授けたが、農作業をしたことのない彼らは、その小麦の種を畑に蒔くかわりに、すっかり食べてしまう。Bahramはそんな彼らの怠惰に怒って、財宝、楽器、ロバを取り上げ『働く気がなければ、二度と帰ってくるな』と彼らを追い出した」と、その起源を仄めかしています。
また、別のペルシャの詩人は、当時、lùriと呼ばれていたその放浪の民を「常にエレガントな服装をして、音楽の才能に溢れていた。彼らの肌の色は、まるで夜の暗さのように深く、謎めき、人々を幻惑した」とも書き残しています。現在でも、世間の常識から捉えれば「働かない、怠け者」のロムの人々の音楽性の豊かさ、舞踏のセンスは周知のことですから、この伝承はロマンティックすぎるとはいえ、まったくありえない話ではないかもしれません。
そのロムの人々が欧州に登場するのは15世紀になってからであり、当時、三々五々と欧州に流れてきた彼らは「この人々たちを保護するように」という教皇の手紙(真偽は明らかではありません)を携え、当座のお金、住居、食べ物を求めてその街の権威者を訪ねてきたそうです。あるいは「この者たちが、盗みを働いても罪に問わないでほしい」とのハンガリー王の手紙(こちらも真偽は明らかでありません)を携えてきた者もいたそうです。
欧州にディアスポラしてきたロムの人々は、ほとんどがカトリック教徒で、ヴァチカンへの「巡礼」を目的に欧州に流れてきていますが、彼らはビザンツ帝国時代に改宗したのではないか、と推測されていますが、ディアスポラした場所によっては、プロテスタント、イスラム教に改宗したグループもいるようです。当時の記録によると、彼らは街の人々に宗教的な物語を語る「語り部」でもあり、予言、占いにも優れ、馬の商いなどには、縁起をかついでロムの人々を連れていくという慣習もあったそうです。また盗みを働くという偏見は、このときからすでに資料に多く散見され、例えばカラヴァッジョの「女占い師(ジプシー女」』、ジプシーの女が手相を見るとみせかけて、おっとり育ちのよさそうな青年騎士から、こっそり指輪を抜き取っている絵は有名です。
しかし彼らの放浪は、ちょっとした詐欺、騙り、盗みに彩られる謎とロマンに満ちた、自由奔放な旅では、もちろんなかった、ということを強調しなくてはならないでしょう。ロムのディアスポラの歴史は、同時に迫害の歴史でもあり、どこへ移住しようとも『ロム』というアイデンティティを捨てず、社会に同化しない、あるいは施政者から当時の社会に適応するよう配慮されても従わない、などの理由で、欧州各国から激しく弾圧、排斥され続けたという歴史をもくぐり抜けています。特に16世紀、真の欧州モデルが確立するころには(大航海時代、アメリカ大陸への侵略がはじまり、欧州の価値基準こそが「絶対」という欧州的普遍主義が定着した)、「危険で、魔術を使う、悪魔的な人々」と見なされ、社会の規範に従わなければ追放、絞首刑という極刑を課した国も現れます。また周知の通り、ナチスのホロコーストにおいては、ユダヤ人とともに強制収容所へ送られ、多くの犠牲者を出しました。
戦後は、この迫害の歴史に終止符を打つべく、世界ロム会議なども開かれ、ロム民族自身による人権活動も盛んになってきましたが、今度は時代の急速な変化とともに、ロム独自のノマディックな生活も、経済的に立ち行かなくなります。つまり市場経済主導で循環している現在の世界は、異質な経済スタイルを持つロム・コミュニティの存在を許さない構造となり、彼らは困窮を強いられるようになる。
もちろん住む地域によって、それぞれ事情は異なると思いますが、欧州に彼らが現れて500年以上が経つうちに、次第に社会の管理が進み、規制がいよいよ厳しくなり、人々の心に緩みがなくなるにつれ、「管理されることのない無法者たちである」ロムの人々への社会の偏見、憎悪は、いよいよ悪化しているかもしれません。ローマにおいては、彼らの住居は都市の生活から完全に隔離され、人々からは、ただロムというだけで疎ましがられ、猜疑の視線が注がれます。
当然のことですが、ロム・コミュニティにもさまざまな人間がいて、盗みや物乞いだけではなく、マフィアと癒着して大金を動かしたり、大がかりな犯罪に関わるグループが存在することも事実です。しかしメディアも人々も、事件が起こるたびに負の側面だけに焦点を当て、ロムの人々に近づこう、交流して理解を深めようとする姿勢を示さないことにも問題があるようにも思います。今や数年前のことですが、ローマ市当局が、ロムの人々を飛行機に乗せてルーマニアに送ってしまおうという乱暴な計画が持ち上がったこともありました。またロム居住区が放火されたり、最右翼のグループに嫌がらせを受けることはしょっちゅうです。
さて、今回インタビューさせていただいたVania Mancini(ヴァニア・マンチーニ)は、なかなかこのようなエネルギーを持った人物には出会えない、と思わせる奇抜な個性を持つ女性です。知的でありながら感情豊か、気まぐれそうに見えながらひたむき、大胆でありながら繊細、ワイルドに、周囲を怖れることなく弾ける火花のように行動し、そのとめどない勢いと正直さに周囲の人々は、ちょっとした目眩を覚えることがあるかもしれません。しかしその作為のない、止めようのない迸りが彼女の求心力でもあり、魅力です。なお、活動家、作家である彼女が、さらにタクシーの運転手でもあることを知り、わたしはえっと驚くことになります。ローマで、こんな個性豊かでユニーク、話題も豊富な女性が運転するタクシーに乗り合わせたトゥーリストは幸運。インタビューには、低音でハスキーな声、あふれるような早口で、一気に答えてくれました。