16歳のころから政治活動に身を投じたとは、ずいぶん早熟な少年だったんですね。
はじめて裁判にかけられることになったのは18歳かな(笑)。
そうそう、もちろん徴兵にも行った。そのころのイタリアには徴兵制があって、必ず軍の任務を経験しなければならなかったが、当時LottaContinuaには、徴兵に出かける若者たちをオーガナイズするPid (proletari in divisa:プロレターリ・イン・ディヴィーザ)というグループがあってね。僕らもそのPidに参加して、軍においても政治活動を継続した。イタリア軍部のあり方、兵士の兵舎での生活の向上を訴えるためにね。
その活動はあらゆる場面で軍に影響を及ぼしたから、重要ではあったんだよ。ストライキをオーガナイズしたり、ほかの兵士たちと共同でデモ集会を開いたり。もちろん兵士のデモなんていうものは禁止されていたが、76年には軍の内部に1万人の共感者を得て、ミラノで大掛かりなデモ集会も開いた。それまで兵士は自由に出かけることもできなかったし、欲しいものを気軽に買うこともできなかったが、われわれの活動のおかげで、多少の自由は実現したんだ。そのころの兵士たちはスポーツ新聞しか読んではいけなかったんだが、僕らは毎朝近所のエディコラ(新聞スタンド)へ行って、大量の新聞を調達して、兵士たちに配ったりもした。兵士が世の中の事情を知らなくてどうする、とね。もちろんとても深刻な問題、イタリア軍部がNATOに参加する政治的意義についても議論しあった。イタリアがNATOに参加する必要が、どこにあるんだ、とね。
そういうことを僕らは秘密裏にやっていたわけだが、さすがにすぐに見つかって、危険分子と烙印を押された僕は、13ヶ月の徴兵の間、十数回、次から次へと兵舎を飛ばされた。しかし飛ばされた兵舎でも、その日の夜中から活動開始、靴箱に並べてある兵士の靴のなかにこっそりビラ配りなどしていたね(笑)。言っておくが僕らは軍部のなかで、民主主義的に政治活動をしていたんだよ。いたって平和的に。しかしそれでも軍の内部で政治活動をするということは、はなはだしく危険なことで、ずいぶん乱暴な脅迫も受けた。しかし僕らのあのころの活動がなければ、警察官や軍に労働組合は生まれなかったろうね。ある意味僕らは、軍部の、幾分かの民主化に成功したってことだ。
たしかにあのころに比べれば、イタリアは変わったよ。ずっと民主主義的になった。それでも国家の傲慢さ、暴力的な対応は、実のところ、あまり変わっていないのかもしれないと常々思うんだ。今でもなんの罪も犯していない若者たちが、警官、カラビニエリに誤認逮捕され、拷問を受けることがあるからね。2001年7月、ジェノバで開かれたG8、抗議デモ集会における、警官たちの一連の、卑劣な暴行を知っているだろう?
デモに参加していただけのジュリアーノという青年が若い警官に撃ち殺され、Diaz(ディアツ)という学校に待機していた大勢の学生たちは、ひどい暴行を受けた(2015年、ストラスブルグの欧州人権監視委員会から、このときのカラビニエリ特殊部隊の学生への暴行は、陰惨な『拷問』とも呼べるものと指定され、状況再捜査、場合によっては制裁、と勧告された。Diazで起こった、カラビニエリ特殊部隊の異常な暴力行為はドキュメンタリー映画にもなって物議を醸しました)。
僕らがなぜ、38年も経った今、ウォルター・ロッシを追悼するイベントを続けているかというと、こんなことは絶対に起こってはいけないからだ。20歳の普通の青年が、通りでビラを配っていただけで、ファシストに殺害され、そこにいた警官たちに見捨てられるなんて、こんなひどいことは2度と起こってはいけない。われわれはそれを決して忘れることなく、常に記憶にとどめておく必要があると思っている。
今の政府、つまりレンツィ首相は、「70年代は、もうずっと昔、過去の時代だ。謀略の話には飽き飽きしている。もう終わりにしようよ。われわれはいい加減にそこから抜け出さなければならない」と言っています(2015年の時点で)。
そう、レンツィはそう宣言して、70年代のシークレットサービス、軍諜報のアーカイブの公開を命じたんだけれどね。アーカイブを開けてみると、もぬけの殻だった。当時の『イタリア共産党』がソ連から資金援助を受けていたという書類以外の何ひとつ出てこなかったんだ。そんな書類は、一連のテロ事件とは、なんの関係もないだろう。『イタリア共産党』がソ連から資金援助を受けたから、無辜の市民が大勢亡くなる必要があったなんて、道理が通らなさすぎるじゃないか。しかもアーカイブからは秘密警察、諜報関係の書類も、米国の資料も何も出てこなかったんだぜ。
いまやあの時代に何が起こったのか、誰もかも、何もかも、知っている。もはやミステリーでもなんでもない。しかし公には、つまり司法的には、何も解決していない。『フォーンターナ広場』、『デッラ・ロッジャ広場』、『イタリクス事件』(La strage dell’Italicus 1974年にボローニャの郊外で起こった汽車爆発事件)のどの事件にも有罪者がいないんだからね。(事件から41年後の2015年7月22日、ミラノの法廷で開かれた公判で『デッラ・ロッジャ広場爆破事件』の容疑者2人が『終身刑』判決を受けたが、容疑者側弁護人が、控訴検討を表明しています)
しかもこれらすべてのテロ事件の裁判は、すべて『国家機密』として進められたという経緯がある。それで司法官たちは、国家が機密指定した書類を調べることが一切できなかった。イタリア国家には『秘密保護法』というのがあるからね。国家がどの資料を「秘密」にするか、決定権を持っている。したがって当時の司法官たちは、資料を精査できないまま、長期に渡って不毛の裁判を進めなければならなかったというわけだ。国家はすべてのテロ事件の裁判で、『秘密保護法』を行使もしている。
62年に、ENI(イタリア主要エネルギー会社)の会長であったエンリコ・マッテイが飛行機事故を装って殺害された事件を知っているよね。ENIはいまや世界でも大きなシェアを持つ、原油会社だが、なぜエンリコ・マッテイの事件が起こったかというと、イタリアのエネルギー会社があまりに大きな力を持ち、他国のエネルギー会社を凌駕するまでに巨大化することをおもしろくない、と思う勢力があったからだろう。
エンリコ・マッテイの、この一連の殺害事件の経緯に注目して、パソリーニが最後の小説『原油』を書いたことは有名だが、もうひとつこの時期に書かれたコリエレ・デラ・セーラに書かれたパソリーニの記事で、重要なものがある。「Cos’è questo golpe? Io so(このクーデターが何なのか、わたしは知っている)」とタイトルがつけられた記事で、事件の核心である人物の名前はひとつも書かれていないが、われわれ若者たちには、すぐにそれが誰であるか、具体的にピンときた。僕らが集会に集まると、それらの名前が自然に囁かれていたしね。われわれ若者たちは、その謀略の作者とその意味を共有していたんだ。誰が何のために、どのように糸を引いていたかもね。パソリーニの記事は暗示的ではあったが、その暗示は、われわれのように背景を知っていた者たちにとっては、実体を持つものでもあった。
いまだって警察の上層部絡み、あるいは政治的大物絡みの事件が起こると、逮捕はされても、実刑を免れる人物が多く存在する。そういう意味では、イタリアは70年代から何も変わっていないとも言えるね。レンツィ首相が、70年代の機密書類のアーカイブ開示を命じたところで何もでてこない国なんだ。彼は40歳そこそこの人物だろう? 彼が生まれた年より古い、アーカイブ資料なんて、いくらなんでも、もう開示したっていいだろう。それなのに結局は開示されない。
それらの機密書類が開示されるまで、イタリアでは何も解決しない。解決しなければ変わることができない。アーカイブが開示されない、ということは、いまだに『何者か』『何らかの組織』がそれを阻止しているということだよ。若い首相と若い政府に、大きな「変革」を期待したが、残念ながら、その「変革」は先送りされそうだ。
何度もいうけれど、イタリアの70年代は、言語を絶する騒乱の時代だった。たとえばレッジョ・カラブリアで労働者、工員たちの大がかりな暴動も起こったことがあってね。その暴動は市民の共感を得、また労働組合はその応援に、何百、何千という工員をカラブリアへ送るための特別列車を企画した。ファシストたちはその列車にも爆弾を仕掛けたんだぜ。その爆発で何人かの工員が亡くなりもしている。
しかしその爆発のあと、列車は停車することもなく、人間が歩く程度に速度を落とし、ゆっくりゆっくりと目的地へと進んだ。その、のろのろ動く汽車の前を、工員たちが交代で、線路にほかの爆弾がしかけられていないか、「露払い」しながら先導してね。彼らはカラブリアへ、何日もかけてたどり着いた。ミラノ、ジェノバ、ボローニャからカラブリアに応援にかけつけた労働者、工員たちは、爆弾に脅されながら1000kmの道のりを、ただひたすら目的地まで歩いたんだ。
それが、われわれの成長した時代だ。そして僕らは彼らのスピリットに触発され、共感しながら成長した。結果的に言えば、僕らは敗北者なのかもしれない。しかし僕らの政治活動が、イタリアの多くを変化させたと自負もしているよ。いまでもイタリアの市民の力はとても強力で、市民中心の政治ムーブメントが数多くあるが、この市民の強さは、しかし70年代よりずっと以前から存在するものだ、とも僕は思っている。言ってみれば「パルチザンの精神」だ。
たとえば1945年、シシリアで土地を「占拠」してメーデーのフェスタを祝っていた農民たちをマフィアが銃撃したという事件が起こった。54年には不正な選挙法改変に抗議して、1年もの間、市民が広場を占拠。60年、サンパオロ広場に集まった市民が、政府から銃撃される事件も起こっている。70年代の騒乱は、どの時期よりもひどい混乱に陥ったが、つまり過去のイタリア市民の力強い抵抗の流れを、正当に受け継いだものだ。
この国で成長した僕らは、僕らがこの国を変えなければならない、そう決心して活動していたのさ。