時間、空間を超越して拡大する『ミクロコスミ』、クラウディオ・マグリスの宇宙へ

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 中欧(mitteleuropa)の痛手

多くの著作を持つマーティン・ポラックは、基盤となる調査、その情報量の豊かさと筆力で、多くの言語で翻訳が出版されるオーストリアの作家です。

歴史を構成した出来事、人々をリサーチし、潜在的想像力を駆使した、正確で、研ぎ澄まされた強い文体は、イタリアでも多くの人々に愛されている、とマグリスはまずポラックを紹介し、文化的に、そして政治的にもラビリントのような中欧の国々を、ともに旅した友人であることにも触れています。

ちなみに中欧とはオーストリア、チェコ、ドイツ、ハンガリー、リキテンシュタイン、ポーランド、スロヴァキア、スロヴェニア、スイスを指します。またポーランドから続くウクライナ周辺は「インターヨーロッパ(Zwischeneuropa)」と定義され、その領域には、この対話の核となる、ポーランドとウクライナにまたがる、非常に広い地域であるガリツィア地方も含まれます。

わたしは著作を読んだことはないのですが、ポラックは中欧のみならず、という境界に縛られず、インターヨーロッパであるガリツィア地方を横断しながら、空間的に、文化的に、それぞれが分離したその地域の有り様を述べているそうです。

wikipediaの地図によると、ガリツィアと呼ばれる地域は、イタリアの半分ほどの面積があるようで、かなり広範囲にわたっています。Wikipediaより。

ふたりの作家の対話は、マグリスがポラックをインタビューする形で進められますが、まず最初の問いは、「現在、われわれが直面しているウクライナの状況は、さまざまな(民族と文化の)出会いと混合の場として、たびたび悲劇に見舞われたインターヨーロッパの歴史に重なるのか、ウクライナはインターヨーロッパと呼ばれる有り様が集中している場所なのか」、というものでした。

ポラック「現在の過酷な戦禍は、その土地における激しい転換地点となるでしょう。(ガリツィア地方は)第一次世界大戦まで、多くの人々、種族のグループ、ポーランド人、ウクライナ人という、それぞれに異なる民族の混合であり、ハプスブルグ帝国の時代には、彼らは『ルテーニ(ruteni)』、ヘブライ人、ドイツ人と呼ばれていましたが、それ以外に小さいエスニックの種族、たとえば『フズリ(huzuli)』と呼ばれる、ウクライナ人と緊密な縁続きにある種族が住んでいたのです。しかしながらすべての種族は、それぞれ固有の文化で成立しており、他にもアルメニア人、ロム、シンティの人々が住んでいました。しかも彼らは他の多くの種族の一例に過ぎません。後世、それぞれの種に属する人々はそれぞれの国籍と調和しながら生きていた、とわれわれは考えがちでも、その読解は歴史の分析と一致しないのです」

「19世紀、ナショナリズムが頭をもたげたとき、その地域もまた、あたりまえにそのムーブメントが通り過ぎ、国家を熱望し、血塗られた紛争は頂点に達しました。たとえば、(オーストリア・ハンガリー帝国の解体時の)、ポーランドーウクライナ戦争では、その地に住んでいた「ルテーニ/ウクライナ」人は、そのガリツィア地方を自分のものにしようとする新しく生まれたポーランドに抑圧されたのです」

マグリス「それは昨日の歴史です。今日、その土地(ガリツィア)は、信じられないほど大胆で激しい攻撃に晒され、一国だけでなく、世界のすべてを破壊しようとする異民族のバリケードになっているように見えます。ジョセフ・ロス(オーストリアの作家)が大切に思っているルテーニは、他の民族、たとえばウクライナ人に嫌がらせをするためのハプスブルグの発明と言われていますが、民族の数を増やすことによって中央権力に対する、おのおのの民族性を弱めるために作り出されたものなのでしょうか?」

「さらに今日、ガリツィアというと、まずポーランド文化を思い浮かべますが、ガリツィアの文学、フランツォース(Karl Emil Franzosーオーストリアの1900年初頭の作家、現ウクライナ出身)やザッハー・マゾッホ(Leopordo von Sacher-Masoch 1800年代のオーストリアの作家、現ウクライナ・リヴィウ出身)の短編は、ほとんどドイツ語で書かれています。あなた自身も、ガリツィア、レオーポリ、チェルノウィッツへのご自身の旅について書いた本の中で指摘しているように、多くのポーランド人作家が(ドイツ語で書いているため)ドイツに広がったのです。さらにポーランド系ユダヤ人の偉大な文化である、イーディッシュ文学ーふたりのシンガー(Isaac Bashevis Singer?もうひとりは不明)、その他アレイヘム(Sholem Aleichem 1800年代のウクライナの作家)、ペレツ(Isacco Leyb Peretz 1800年代のポーランドの作家)が生まれました。今日、(現在進行中の戦争によって)八つ裂きにされた土地に、このような多様性は残っているのでしょうか?」

ポラック「実際、ルテーニというのはハプスブルグの官僚が、管理しやすいように正確な名前にこだわって、便宜上名づけたわけですが、実はルテーニという名称はハプスブルグ以前より存在していたのです。ウクライナ人たちは彼らをRussyny、あるいはRussnakyと呼び、それはだいたい、ルテーニと重なる人々でした。彼らの言語はRusskyjであり、ロシア語ではなくルテーニ語、あるいはウクライナ語でした。域内では混乱がありましたが、それほど心配な状況でもなかった。というのも、(その域内に住む)人々には、(自分たちが生まれた)小さいコミュニティ、村、地帯が大切だったからで、たいてい彼らはそれ以外の場所を知らなかったのです」

「ハプスブルグが、ガリツィアの人々にのみ、ルテーニという名称を使い、他の民族に使わなかったのは、ウクライナ人としての国家感情呼び覚まさないための政策でした。この地方の豊かさは、彼らの多様性であり、ガリツィアの人々は言語、文化の豊かさ、文化的多様性を持つ、貧しい人々だったのです。ガリツィア人の悲惨な状況は、19世紀に諺のように語られ、大量移民を引き起こします。移民先は主に北アメリカでした」

ポラックは、色彩豊かで悲劇的なガリツィア地方に学生の時から魅力を感じ、この地方から、多くの偉大な思想家、作家が生まれたと同時に、第一次、第二次世界大戦、ホロコーストで回復が不可能なほど破壊されたことに興味を抱いたのだそうです。さらに、また再び欧州に、価値観、民主主義、多様性を覆そうとする、血まみれの戦争の悲劇が訪れたことを深く憂いています。

マグリスは、ポラックの作品を、その地方が持つ歴史が構成した自然のレントゲン写真だ、と定義し、そのアイデンティティと文化の万華鏡のなかで、国籍の違いを見出すことができるのか、それぞれの名前の違いが、現実的にそれぞれのアイデンティティに対応しているのか、そして中欧からインターヨーロッパに移行する地点を見出すことができるかどうか、を問います。

ポラック「それぞれのアイデンティティと文化の間にはっきりとした境界線を引くのは、ほとんど不可能だと思うんです。たとえば、(今回の)流血の戦争が、ウクライナ人とロシア人を明確に分けることになったのは、この土地の悲劇です」

「今までこの地を過ぎ去った歴史の嵐は、民族だけでなく、それぞれの家族をもかき混ぜて、アイデンティティを消し去りました。カルパチアの村々で会った人々に、『あなたはどの民族に属していると思うか』と尋ねると、非常に混乱した様子で、自分はトゥテイスキーだが、地元の人、村とその周辺、教会が自分の所属を決めている、と戸惑いながら答える人に会ったことがあります。これもまた、わたしにとっては中欧の表現でもあり、この曖昧さ、キャパシティのなさが、近代的な国民、という概念の中で自分たちを認識することができないことを表しています」

「彼らには、国民という概念は必要なく、戦争に駆り出されて初めて、自分たちがどの国旗に仕えているのかを発見し、どの国家が自分たちを兵士として、屠殺用の肉のように要求しているのかを知ることもしばしばあるのです」

マグリスは、最後に、この地方に関する偉大な研究家であるカール・シュレーゲルが「空間に、流れた時間を読むことができる、それは消失することなく、その空間に堆積している」と言っているが、今日、戦争で破壊された空間に、どんな時間を読むことができるのか、と問います。

ポラック「カール・シュレーゲルは、この土地の歴史のコンテクストに関する、最高のエキスパートのひとりであり、彼はただ研究し、それを語っただけではなく、本当にその土地を愛していました。シュレーゲルが、攻撃され、苦しめられているウクライナのことを心から悲しんで話しているのを見ると、本当に胸がいっぱいになります。この土地は今、本当に転換期を迎えていると思います。どこに向かうかは、いまだ明確ではありませんが、転機であることは確かです。トラウマとなる日々が続き、現実には、これらの出来事から、たとえ何もポジティブなことが引き出せないとしても、ウクライナが自分自身を見つけ、アイデンティティを確固なものとしていることは、ある意味、慰めでもあります」

つまり、今この時も破壊され続けているのは、物理的な街や建物、美術館や劇場だけでなく、さらに国土でもなく、長い歴史から生まれた小さなコミュニティの魂としての独自の文化であり、言語であり、精神性であり、歴史が堆積した空間でもあるのです。

この対話を読んだ後、攻撃を受けたウクライナの国境に暮らす老人が、瓦礫となった自宅の前に呆然と立ちすくみ、「昨日まで、わたしたちは国境の向こう、隣町の人々と普通に行き来して暮らしていたんだよ。親戚もいる。国境なんて考えたこともなかったのに、突然こんなことになるなんて。何が起こったのか、さっぱり分からない」とおろおろ話しているドキュメンタリーを見ながら、この老人が自宅とともに失ったのは、今まで平和に生活していた地域のかけがえのない小さいコミュニティ、全世界なのだ、と胸に突き刺さりました。

時代が混沌とする今この時、われわれはもう一度、はたして自分はいったい何をアイデンティティとしているのか、だいたいアイデンティティなどというものを自分は持っているのか、熟考する必要があるのかもしれません。

このような経緯で、国境を描いた『ミクロコスミ』を読むことは、現在何が起きているかを知る道標になる、と考え、「今」に直結するマグリスの宇宙を、ぜひ旅していただきたい、と思う次第です。

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