今だからこそ、あえてシルヴィオ・ベルルスコーニという人物について考察する

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政治力という観点からは、もはやその権威は消滅しつつあるように見えたシルヴィオ・ベルルスコーニ元首相の訃報が流れた瞬間から、TVを含め、あらゆるすべてのメディアがベルルスコーニ一色に染まったことには、正直、非常に驚きました。しかも、生前のあらゆるスキャンダルと失言暴言、さらには70件もの脱税汚職未成年売春などに関する裁判、過去のマフィアとの親密な関係の可能性を、誰もが知るところであるにも関わらず、その評価のほとんどが「時代を牽引したスーパー・シルヴィオ」という称賛であり、過去のスキャンダル、違法行為、特にマフィア関連の事象に詳しく触れたメディアは、主要紙以外の2、3紙にしか過ぎません。世界でも指折りの大富豪であるベルルスコーニ元首相が、支持者にとっては確かにカリスマではあっても、国営放送Raiを含め、所有する民放局以外のTV局、新聞及び各種メディアに、これほどの影響力を持っていたとは想像しておらず、多少興醒めした、というのが率直なところです(タイトル写真は、Il Foglio紙に掲載された写真を加工しています)。

戦後ポピュリズムの先駆け

米国にトランプ元大統領が現れた際、その型破りすぎる独善的な立ち居振る舞いに「まさか!」、と世界中の多くの人々が驚きましたが、ベルルスコーニ元首相に馴染みのあるイタリアの人々は意外と冷静で、嘆き悲しむ米国の人々のSNSに「大丈夫。いつか必ず終わりが来る。イタリアはすでに学習済み」とコメントする若者を見かけたことがあります。今回の訃報を巡るイタリア国内の報道においても、ベルルスコーニ元首相こそが、その後現れる、たとえばトランプ元大統領、ブラジルのボルソナーロ元大統領など、世界を揺るがす戦後ポピュリズムの先駆け、と捉えられていました。

一代で築き上げた、約70億ドル遺産を家族に遺した、イタリア有数の大実業家であるこの元首相は、炎上狙いとも思われるギョッとする非常識な言動、滑稽な立ち居振る舞いで、イタリアのみならず海外にも知れ渡り、日本語のWikipediaにも詳細が述べられていますから、多くを語る必要はないとは思います。ただ、シルヴィオ・ベルルスコーニというたったひとりの人物が、イタリアの価値観倫理観美意識のメインストリームを大きく変えた、という特異な現象は特筆しておくべきことかもしれません。

今回の訃報に際して、主要各紙は、かつて度重なるスキャンダルであれほど大騒ぎしたにも関わらず、「善悪を超越した時代の寵児」、「偉大な人物」といった論調で、ベルルスコーニ神話を大々的に増幅させました。しかしわたしの周囲の人々は「国葬なんてとんでもない」「こんなに騒ぐなんてどうかしてる」という意見が大半で、特にシチリアマフィア「コーザ・ノストラ」と親密な関係にあり、1992-93年に「コーザ・ノストラ」が起こした大規模連続爆破・テロ事件関与した可能性があることを、強く批判する人も存在します。

もちろん、亡くなったばかりの人物をやみくもに批判することは、あまりエレガントなことではない、と百も承知しています。しかし90年代前半、イタリアを震撼させ、人々のマフィアへの恐怖と憎悪を頂点に導いた「大規模連続爆破・テロ事件にベルルスコーニが関わった」という、かなり濃厚な可能性は、事が事だけに厳粛に受け止めておきたいと思います。

実を言えば、この「コーザ・ノストラ」による大規模連続爆破・テロ事件までの流れは、のちに詳細を調べる予定にしていますが、今の時点では、訃報を機に掲載された記事などを参考に、あえてベルルスコーニに関する疑惑のみを、この項の3~5ページに、ざっくり、なるべくシンプルにまとめることにしました。

というのも、このような重たい疑惑がまったく払拭されていないにも関わらず、メディアが総がかりで元首相を称賛し、1980年、シチリアの州知事であった年長の兄弟を、マフィアに殺害された経緯があるセルジォ・マッタレッラ大統領が参列しての大仰な「国葬」の有り様に、不条理を感じたからでもあります。大統領の国葬出席に「Pacificazione(和平)」とタイトルをつけた新聞もありましたが(ということは、ベルルスコーニ=マフィアということを認めたこと?)、そもそも大統領が国葬に欠席するなどということはありますまい。

しかし、よくよく考えてみれば、TVの画面、新聞の紙面を通じて流れてくる、ある種、作為的に作られた悲しみの熱狂こそが、常にショーマンであった「メディア王」ベルルスコーニらしい最期だった、と言えるのかもしれません。

さて、ミラノ郊外に1974年に建設した高級住宅街、Milano2の大成功で経済界に躍り出て、イタリア初の全国ネットの民放3局を開局。あれよあれよという間に新聞、大手出版社を買収し、映画制作配給会社、さらにはACミランを獲得。そのすべての個人資産の持ち株を「フィニンヴェスト」で管理しながら、若くして財を成した大実業家であるベルルスコーニが、『フォルツァ・イタリア』を結党して政界に進出したのは1994年のことです。

その時のベルルスコーニは、といえば攻撃的な「反共産主義」をスローガンとして掲げ、「自由」「民主主義」を謳い、まったく新しいタイプの富豪政治家として、衝撃的に、華々しく総選挙に打って出ました。冷戦期の『鉛の時代』を経て、そもそも左派、右派の間に激しい確執があったイタリアは、ベルルスコーニの政界登場でいよいよまっぷたつに分裂することになるわけですが、その分裂は、左派、右派というよりはベルルスコーニ派アンチベルルスーニ派と呼ばれることのほうが多かったように思います。

とはいっても、「ベルリンの壁」はすでに1989年崩壊し、1921年結党の伝統的な『イタリア共産党』は1991年解体していましたから、市民の間に、そのムードがノスタルジーとして色濃く残っていたとしても、1994年のイタリアでは、もはや「共産主義」の中核は消滅していました。

しかも、当時ひたすらベルルスコーニが攻撃した「共産主義」は、旧ソ連モデル独裁的武装共産主義であり、早々と武力革命の旗を下ろし、民主主義における、選挙での支持拡大を目指すユーロコミュニズムに舵を切った『イタリア共産党』のあり方とは、根本的に違います。が、今にして思えば、ベルルスコーニが、もはや幻想と化した共産主義を揶揄し、それを懐かしむ人々の神経を逆撫でし続けたのは、市民の二極対立(bipolarismo)を生むためのレトリックであった、と考えられます。

晩年はともかく、全盛期のベルルスコーニにおいては、自身のどのような発言、行動が市民の心を捉えるか、あるいは強烈な反感を煽るか、その直感的なマーケティング能力には目を見張るものがありました。

ともあれ、今回の怒涛の報道における新しい発見はと言えば、1994年当時、『イタリア共産党』が解体し、新しく結成された『左派民主党』は保守(!)と捉えられ、ベルルスコーニが結党した『フォルツァ・イタリア』こそがアンチシステムと、一般的に位置付けられていた、ということでしょうか。冷戦が終わったばかりのイタリアは、前述の「コーザ・ノストラ」による大規模連続爆破・テロ事件、さらに政治家400人を含める3000人もの逮捕者を出した、大汚職事件(Tangentopoli)で大揺れに揺れており、荒れ果てた政界は、新しい政治の顔を必要としていました。

そこに疾風のように現れた、実業家ベルルスコーニが盛んに主張する「自由!」という魔法の言葉が、たちまちに人々を魅了することになるわけですが、ベルルスコーニの言う「自由」とは、いわゆる新自由主義であり、倫理や常識を無視して、アナーキーに、エゴイスティックに利潤追求する、という意味における「自由」です。また、法律、そして社会倫理や常識、マイノリティを無視するという自由でもあり、その新自由主義思想は、元首相が運営する民放各社のTV番組にも反映され、やがてその傾向は国営放送Raiの一部の番組にも広がっていきました。

個人的にはイタリアにやって来たばかりの頃のこと、日曜のお昼にふとTVをつけると、ショーガールと呼ばれる水着姿のグラマーなお嬢さんたちが踊ったり、歌ったりのセクシー番組が繰り広げられていて、ええ!っと度肝を抜かれたことを懐かしく思い出します。もちろん、練りに練られた秀逸な番組も多くありましたが、その頃は過剰と思えるほどに広告が入る、思考停止が起こりそうなエンターテインメント番組が、現在よりもずっと多かったように思います。そして80年、90 年代に生まれた子供たちの多くは、ベルルスコーニ時代の、それらのTV番組を観ながら成長したわけです。

と同時に、政治そのものが、ベルルスコーニの『中道右派』と左派政党で構成された『中道左派』の二極対立を強調しながら、互いが互いを攻撃し合う一種のショーと化した、という印象もあり、稀代のショーマンであるベルルスコーニが、要所要所で面白おかしく議会を盛り上げ、そのたびに野党が激昂するとともに、右派、左派メディアの報道合戦がかまびすしい毎日が続きます。

ウンベルト・エーコは生前、Euronewsのインタビューに「ベルルスコーニはコミュニケーション能力に優れた魔術師だった。TVを観ている中高年を魅了したが、やがて過半数を失い、常に30%か40%の支持率で議会をコントロールできる選挙法を構築した」「長い間だったが、幸運にも(ベルルスコーニを支持しない)人々が抵抗し続けてよかったよ」と話していました。写真はstudentitop.itより引用。

もちろん、ベルルスコーニの在任中は、ウンベルト・エーコをはじめとする左派知識人や文学者たち、ナンニ・モレッティなど映画人が、ベルルスコーニを常に辛辣に批判し続け、大がかりなアンチベルルスコーニ運動をも巻き起こりましたが、結局それらは対立に拍車をかけただけに終わったように思います。なお、2012年イタリア債務危機でベルルスコーニが失脚したのちも、マテオ・サルヴィーニ、ジョルジャ・メローニと主人公が変遷しただけで、市民の二極対立は継続したままで、「もはや政治では何も変わらない」と愛想をつかせたのか、あれほど高かった投票率が、近年ではぐんと下がり(1976年93.4%、2022年63.8%)、特に若者政治離れが顕著です。

こうして、若くして巨万の富を獲得したうえに政治権力の頂点に立ち、一大帝国を築いたベルルスコーニ元首相は、「誰でも自分のようになれる」と自らがイタリアンドリームモデルとなり、理論的な背景がまったくない長続きしない政策(例えば年金の増額など)と、誰にでも分かるシンプルな表現で、人々の目先の欲望、あるいは憎悪をコミカルにくすぐりながら、いわゆるベルルスコニズモ(ベルルスコーニ主義)と呼ばれる、一大ポピュリズムを形成することに成功したわけです。

任期中には、あらゆる違法行為に首相免責をフルに活用して、うやむやのうちに自身を正当化。さらには自らの巨大ビジネスに有利となる法律を、与党一丸となって粛々と成立させ、その数は60に上る、とも言われます。当然のごとく、「ベルルスコーニはイタリアを私物化している」との批判が巻き起こり、攻撃的な左派メディアからは容赦なく不祥事が暴かれ続け、年がら年中裁判、という状況でしたが、支持する市民たちはそれでも常にベルルスコーニに夢中でした。

総選挙ともなると、『フォルツァ・イタリア』の旗をなびかせ広場に集まり、その群集が「シルヴィオがいて本当によかった」とベルルスコーニを讃える歌に涙を浮かべて陶酔する姿は、カルト宗教の集会に似ていたかもしれません。

❷嘘つきシルヴィオ ❸コーザ・ノストラ ❹沈黙を守った居候  ❺シチリアを忘れたのか

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