superluogo ( 場を超越する場 )、MAAMとジョルジョ・デ・フィニス
こんな大成功を収めたMAAMの発案者、プレネスティーナ通り913番地で時々見かけるジョルジョ・デ・フィニスは、アクティブでありながら肩の力が抜けた自然体、という雰囲気を漂わせる人物。前々から、インタビューできると楽しいだろうな、と思っていましたが、実際話してみてもまったく印象通り、誰もが好感を持つであろう、軽やかな誠実さと、すがすがしい熱意と自信を感じさせる人物でした。
これだけ大規模にアーティスト、作品を引き寄せ、ドキュメンタリーを完成させ、朽ちかけた工場廃墟に美術館を実現すること(しかもそこには人々が普通に生活しているわけですから)は、並大抵なことではなかったはず。今回のカタログを含め、MAAMに関する書籍も次々に出版されているうえ、途切れることなくインタビューに応え、そのうえMAAM以外のアートプロジェクト(たとえばFormello市の美術プロジェクトなど)にも関わっていらっしゃるので、大変な忙しさだと想像しますが、それでもいつも軽いフットワークで、次へ、次へ、と未来への勢いを放ち続ける人物です。
フランス人文化人類学者Marc Auge(マーク・アウジェ)が、2016年12月に実際にMAAMを訪れ、「今までにこんな場所は訪れたことはない。大変に特別な経験だった」と語っていますね。
マーク・アウジェは、luogo-nonluogo(non-lieu) ー『場』・『場でない場』という概念を、長年理論化した文化人類学者なんだけれど、それを簡単に説明するなら、luogo(場)というのは、ルーツのある、つまり歴史、由来が明瞭な、その場独自の特徴を持つ場所を差し、一方 nonluogo(場ではない場)というのは、ルーツなく、歴史も由来もなく、近代の必要性から生まれた、ただ人と物が循環するような場所。たとえば高速道路、空港、ショッピングモール、港、映画館だと言っているんだ。その場そのものに魂がないというか、物語がない場所を差している。そのnonluogoというコンセプトを展開したアウジェは、MAAMを訪れて、superluogo (場を超越する場)と表現したんだよ。
最近、アウジェは、una doppia citta (二重の都市)、mondo città (世界・都市)、città mondo(都市・世界)、すべてのluogo(場)は二元的に、常に同じ『世界』を抱合している、という理論を展開してね。つまりグローバリズムに席巻された現代、どの都市に行ってもたいてい同じようなホテル・チェーンがあり、有名ブランドのブティックがあり、カフェテリアがある。また、世界中どの都市に行っても、マス・トゥーリズムに溢れているよね。都市の中に『世界』が蔓延している。コロッセオのような考古学的に重要なモニュメントにも、皆でツアーバスに乗って行き、チケットを買って、イヤフォーンガイドを聞きながら見物するわけで、どの都市に行っても世界共通の観光スタイルで旅が構成されている。
言ってみれば、コロッセオもエッフェル塔も、トゥーリストにとっては、この街を訪問するなら義務として、必ず見なければならない絵葉書のようなモニュメントだよね。同様に各都市にある美術館も、いまや観光地のひとつでしかないじゃないか。これは大きなパラドックスなんだけれど、コロッセオのような古代をそのまま遺す、本来、とてつもなくエクセレントな個性を持った場所が、グローバリゼーションで、そもそもの『自然』を失い、「無個性化される」という傾向のせいで、我々は少しづつルーツを失っているように思うよ。
一方、グローバリゼーションから見向きもされない、MAAMのある、こんなローマ郊外の場の方が、ヴァイタリティに満ち溢れていたりする。より『真性』の場というか・・・・というのも、この場所は、ここでしか起こらないことだけで構成されているわけだし。地球上のあらゆる場所がグローバル・ブランドで均一化してゆく時代、MAAMは何よりオリジナルだし、この場所にしか生まれないリアリティがある。そして僕は、こういう『生きた』場所の方が断然面白いと思うんだよね。
もちろんマージナル、という意味では、ここに住んでいる人々は住まいを失うほどの困窮と闘うためにここに住みはじめたわけで、いわば多国籍企業、ビッグブランドだけが利益を得る、グローバル経済から暮らしを押し潰されてしまった人々だ。しかしこの「オリジナル」な場所で暮らすことで、個々の個性が発揮され、占拠者たちの間にも互いの信頼が生まれる。住宅を得て日常を暮らせるという可能性、そしてここには自由がある。
MAAM構築する際の目標は◉占拠を守るバリケードをアートで構築する(作品は全て建物の壁か、工場跡内の設備に接続される)。この場所にある500作品を破壊することは、タリバンが行なったアフガニスタンの仏像破壊と同等になるほどの損害。作品群の市場価格をバリケードにすることで、反対に市場の力を搾取するというメカニズム。◉ MAAMは外界から隔離された閉じられた場所ではなく、ローマそのものがこの郊外までやってきて、アートを媒介に人々が出会う場所にする。◉今までにないモデルを持つ実験的な美術館、『人が暮らす美術館』を提案する。生命の躍動のない、非現実的な既存の美術館に対抗する『リアル』な、生きた美術館としての挑戦。◉ 工場跡そのものが作品であり、MAAMは多くのアーティストの作品をコレクションすると同時に、それら作品ひとつひとつがモザイクとなって構成された、一つの巨大な作品となる。(カタログから要約、抜粋)ということでしたが、ドキュメンタリーの制作を通じて、MAAMを構築する際、初めにお持ちになっていたイメージ通りの美術館となりましたか。
はじめから、さまざまな作品のモザイクとなるようなスペースを創るつもりだったし、僕らがイメージしたスペースに、近いものができたと思うよ。というより、当初持っていたイメージを、正直なところ、いまや明確に思い出すことはできないんだよ。すでにこの場所に出来上がった現実が、過去のイメージをリセットしてしまっているから。少しづつ身体に刺青を彫り込んで行くように、ユニークなこの広大なスペースに作品が集合し、巨大な一つの作品となっていった。アイデアは野心的、ちょっと錯乱して、かなり熱狂的だったけれど、それがうまく機能したのは、数多くのアーティストたちが、そのアイデアに共感してくれたからだよね。
つまり、僕らのアイデアとアーティストが幸福な結婚をしたってことなんだと思うよ。僕らが能動的にオーガナイズして実現した、というわけではなく、僕らのアイデアを受け取ってくれたアーティストたちが、それぞれにそれぞれの遺伝子を残した子供が生まれたってことだよね。僕らと彼らが一緒にひとつの巨大な作品を創ったということ。そして当然なことだけれど、彼らの創った作品ひとつひとつは自己完結しているし、また、そうでなければならない。
MAAMを訪問した人々は、この美術館のあり様に一様に驚き、感嘆の声を漏らしますが、MAAMの何がわれわれを歓喜させると思いになりますか。
その感嘆は、さまざまな要素から生まれてくると思うね。まずここは非合法な「占拠」スペースで、困窮にさらされて、やむなくここに住まざるを得なくなった人々が暮らす場所だということ。初源的な住まいのあり方というか、彼らは原始の人々が暮らした『ラスコーの洞窟』に住んでいるようなものだ、とも言えるかもしれない。さらには通常『占拠』スペースでは見ることのない、別の場所にあるはずのアートの作品群が、彼らの住居を巡り、隙間なく覆っている。
この両極端の要素が、一種の電磁場を形成していると思うんだ。洗濯物が並べて干してあるスペースに、誰でも知っている著名な作家の作品が展示されるという、予想もしていなかった両極の要素が一度に目に飛び込んできて、誰もがまずショックを受ける。もちろん、MAAMにある著名アーティストたちの作品を美術館で観る場合もあると思うけれど、作品の観え方は全く違うだろう? MAAMにある作品群は、やってきたアーティストに、この場所で創られ、描かれ、そしてこの場で『生きる』という運命にあるわけだから。
ところでなぜ、僕が『ラスコーの洞窟』を例に出したか、というと、原始の人々は、洞窟の中で食べ、眠り、そして壁を見上げると、壁画があったわけだよね。そこでは何もかもが自然発生的で、原始、アートは人間の生活の一部でもあった。現代ではアーティストは職業の一つになってしまっているけれど、本来「アート表現」は、われわれホモ・サピエンスという種が持つ本質的なキャラクターのひとつでもあり、生活から隔離された次元にアートが存在しているわけではないんだ。
イタリアに関して言えば、中世の人々が通う教会は全てフレスコ画で覆い尽くされていたわけだし、貴族の邸宅の壁という壁、天井に至るまでフレスコが描かれていたのだから。かつて人々の生活はアートと共にあった。だからMAAMを訪れることは、過去のアートのあり方、あるいはアートの起源というものを体験できることでもあると思うよ。それにそもそも、あらゆる全ての市民はアート、美とともに生きる権利を持っているんだ。
MAAMで暮らしているMetropolizの占拠者の人々は、自分たちの生活を巡るアートに満足しているのでしょうか。
それは一概に、一般論として「こうだ」とは言えないね。というのは、それぞれにそれぞれの美意識があって、好きな作品もあれば、嫌いな作品もあるだろうから。また、MAAMに抱くイメージもそれぞれに違うはずだ、とも思う。もちろん、ここで進行するプロジェクトは、住民たちとのミーティングを重ね、許可を得て進めているし、MAAMはあくまでもMetropolizの客人で、ここにある全てのアート作品は、住民の好意でプレスティーナ通りの913番地に展示させてもらっているということだからね。僕らは彼らに受け入れてもらえることを非常に嬉しく思っているよ。
また、僕らの存在が、彼らの「占拠」による闘いを助けることになれば、さらに嬉しく思う。アートの作品群がバリケードになって、彼らの住居を防御していると同時に、訪問する人々がMAAMに感嘆するのは、占拠をしている住民たちがここで普通に日常生活を送っているからだよ。僕はアートというものは、「流れる水が地面を掘り、やがてその地面に大きな流れを作る」のと同じように機能する、と考えてもいて、そもそもアートに全く興味のない人々を、アートのエネルギー、力で動かしていくことも可能だと思っている。そういう意味では、MAAMの存在を、ひとつの大きな実験であるとも捉えているんだ。
僕は『教育』という言葉は、もともと好きじゃないのだが、MAAMではこのスペースで暮らしている子供たちのためにワークショップを開くこともあるんだ。アートはもちろん「教える」ものではなく、そもそもそんな機能は持っていないが、アートの持つ魔力を、ここに住む人々、そして子供たちに体験してもらいたいと思う。アートは解釈も、説明も必要としないからね。実際、このスペースには常にアーティストたちがやってきて作品を創作しているが、住人の誰も、アーティストに「これは何なのか」とは尋ねない。尋ねなくても作品そのものが、アーティストが表現したいことを正確に語るから。作品には言葉を超える力がある。