「民主主義VS.権威主義」の二項対立
ウクライナの状況は、われわれが普段忘れそうになっているイエメン、リビア、アフガニスタン、シリア、エリトリアなど、現在世界で継続する50以上の紛争、戦争の現実でもあるのだ、と思います。
ひょっとすると、われわれがリアルタイムで知ることができない、それらの国の状況は、もっと過酷、残忍きわまるものなのかもしれません。必要な食糧や薬品の支援はなかなか届かず、その戦禍を逃れ、命をかけて欧州にたどり着いた人々は「難民」として認定されず、長い期間、クランディスティーニ(違法滞在者)のまま、過酷な労働が強いられるケースもあります。また、長い戦争で、そもそも食糧難で苦しんでいる、たとえばイエメンなどの国が、ウクライナ危機の影響で、さらなる食糧危機に陥る可能性があることを、FAO(国連食糧農業機関)が警告しています。
ただ、今まで潜在的にくすぶっていた世界の分断と葛藤を表面化させ、みるみるうちに「民主主義VS.権威主義」あるいは「ロシアVS.NATO」のシンボルとなった、ウクライナ危機ほど、メディアが大々的に報道しないため、われわれは、中東、中央アジア、アフリカで長期間に渡って継続する紛争、戦争の現実を知る由もありません。NGOの報告や、戦地に赴いたジャーナリストが書いた記事、命からがら欧州に渡ってきた難民の人々の告白から、戦争の過酷さ、飢饉、人々の貧困と飢餓状態を散発的に知るにとどまります。
なお、ある時期から、ウクライナ危機において、メディアが急にoccidente-西側、oriente-東側とまるで『冷戦』時のように、世界を分割する表現を使いはじめたことには、多少の違和感を感じました。ここ数年、イタリアの『鉛の時代』をリサーチしているわたしにとって、西側、東側という表現は聞き慣れた言葉ではありますが、現代の欧州ではむしろ、南北(欧州VS.アフリカ大陸)の分断が顕著であったため、みるみるタイムスリップしたような気分にもなりました。日本でも、つい最近までは確か、旧西側諸国、旧東側諸国と表現されていたはずです。
このように「東、西」という表現が普通に使われはじめ、世界がいつの間にか『冷戦』時の敵対、憎悪の気分に逆戻りしたのは、ウクライナが、いわば思想なき『新冷戦』における、まさに西側が謳う『民主主義』の象徴となったからに他なりません。
ゼレンスキー大統領もまた、「この戦争はウクライナのみならず、欧米の『民主主義』を守るためのレジスタンス」でもあるのだから、「もっと武器を! さもなくば、ロシアは(NATO加盟国である)バルト3国、ポーランドまで攻め込むつもりだ」という主張を繰り返します。つまりウクライナは、自国を襲う侵略者と戦うのみならず、われわれが住む西側諸国のために、欧米から次から次に送られてくる武器による「代理戦争」を戦っている、ということです。
とはいっても、際限なく武器を要求するゼレンスキー大統領に疑問を感じているわけではなく、大切な市民と国土を陵辱され続ける、若く、エネルギッシュでコミュニケーション能力が抜群に高い大統領が、欧米に助けを求め、全力で国を守ろうとするのは当然だと思います。現在イタリアでは、元コメディアンのゼレンスキー大統領を一躍カリスマにした「国民の僕(Servant of the people)」が放映されているのですが、そのコミカルさ、軽さが、残酷なリアリティとあまりに乖離しており、フィクションと割り切れず辛くなるため、結局観るのをやめてしまいました。
問題は、米国、英国をはじめ、欧州の国々が、際限なくウクライナに武器を送るだけで、ロシアとの交渉の仲介に少しも積極的ではないことなのです。真摯に交渉の場を設けようとしたのは、初期にイスラエル、そしてトルコのエルドガン大統領だけでした。
また、イタリアを含め、欧州各国がウクライナに武器を送り続ける、ということは、すでに欧米諸国が戦争に加担していることと同義であり、考えようによっては、すでに第3次世界大戦ははじまっている、と定義できるのかもしれません。それでもNATOは、ロシアの核兵器、化学兵器、生物兵器の使用による、戦争の「エスカレーション」を回避する、さらには戦火が米国、英国、欧州各国に及ぶのを阻止する、という理由で、実戦にはたったひとりの兵士も送らず(オフィシャルには)、ウクライナの兵士たちと市民が、毎日犠牲になっているという状況です。
現在キーフでは、英国軍とウクライナ軍による共同演習が行われており、さらにはポーランド、エストニア、モルドバなど、ウクライナ周辺の加盟国(*モルドバはNATO加盟国ではなく、平和のためのパートナーシップ国)に、NATOは次々と軍を送って、特殊軍事訓練を含む共同演習を繰り広げています。
さらに米国は、2016年以来、バルト3国、ポーランドに兵士を送り続け(NATO加盟国20カ国に2万人)、ウクライナの周辺国に130以上の戦闘機、200以上の軍艦、15000の対空ミサイルを設置していたそうです(Rai3)。ロシアの標的が、モルドバまで向きはじめた理由としては、このような事情もあるのかもしれません。
もちろんそんな事情を、われわれ市民は、ウクライナ危機が起こるまでまったく知らなかったわけで、それをロシアが「挑発」と捉える心理も理解できないではありません。また、今回のロシアのウクライナ侵攻に関係しているのかどうかは定かではありませんが、そういえば、欧州でコロナ感染が拡大しはじめた2020年、突如として2万人余りの米軍が欧州入りしたことがあり、「感染症の真っ最中に、なぜ突然、米軍が欧州にやってくるのだ」、と話題になったことがありました。
戦争がはじまった頃、ウクライナが再三求め続けたNo Fly Zone(飛行禁止空域)の設置を、NATOは「ウクライナはNATO加盟国ではないうえ、世界的な核戦争を巻き起こす可能性がある戦争に、ダイレクトには関わりたくない」と、現在に至るまで断固として拒絶していますが、実際のところNATO、特に米国は、ソ連崩壊から現在まで、必要以上にウクライナに関わってきた経緯があります(後述)。
しかしこのNo Fly Zoneというのがかなりの曲者で、かつて米国、英国、NATO加盟国によって実際に施行されたイラク、ボスニア、リビアに、現在に至るまでの政情不安、禍根を残したことは、知っての通りです。したがってウクライナがNATOからNo Fly Zoneを拒絶されたことは、実は不幸中の幸いだったかもしれません。
「父や母が息子たちを埋葬し、それが誰かを知ることもなく、人間同士が殺し合う死の場である戦争を強く拒絶しなければならない。権力者たちが決定し、貧者は死にゆく。今、(各国が)軍備を増強するなんて狂っているとしか思えない」「戦争が不可避であるべきではない。われわれは戦争に慣れてはいけない」
この、フランチェスコ教皇が訴えた「権力者たちが決定し、貧者は死にゆく」との言葉に改めて共感し、現状に落胆すると共に、「われわれはすでに第3次世界大戦を生きている」という、かねてからのシンボリックな教皇の発言を、現実として実感しています。そして少なくとも、経済の次元においては、ずいぶん前から戦争ははじまっていた、と言ってもいいのではないか、とも思っています。
思えば未知のウイルスが現れた2年前も、SFじみた「非日常」が「日常」にすり替わったことを感じましたが、さらに戦争という「非日常」が「日常」に二重にすり替わったことに愕然とした、という他はありません。
うららかな春が訪れたローマの日常の風景には、今のところさほどの変化はなくとも、その風景のなかを歩くそれぞれが、不安にかられていることが会話の端々に現れ、中には「いつでも逃げられるように、家族全員のパスポートを早めに更新した」という青年にも出会いました。また遠目からは、なごやかにバールで話しているように見える人々の、それぞれの会話に耳を傾けると、決まってNATOのこと、ウクライナのこと、核弾頭に関する自らの意見を述べている、という具合です。
▶︎平和主義はロシア擁護主義なのか