難民の人々に解放されたミラノ中央駅21番ホーム
ミラノを出発してアウシュビッツへ向かったまま、二度と帰ってことなかった片道の汽車。イタリアのユダヤの人々には、決して忘れることのできないその記憶を今日に伝える、ミラノ中央駅21番ホームは現在、当時、人々をアウシュビッツに運んだ木製の汽車をそのまま展示するホロコースト記念館となっています。
ホームの内部はモダンに改装されてはいますが、絶望の記憶は風化することなく、沈黙しながらミラノ中央駅の地下に横たわっている。そして、なにより特筆すべきことは、そのホロコースト記念館が2015年から現在まで、欧州にとって最も重大な課題である、中東、アフリカからの難民の人々のために解放されているということです。21番ホームの一角が、混乱を極めるシリアの戦禍、あるいはエリトリアの圧政から命を賭けて欧州へ逃れてくる難民の人々のために、生活に欠かせないシャワーや洗面所も完備した、まさに臨時の「難民センター」となっています。1月27日付のコリエレ・デッラ・セーラ紙が、 Web上で短い映像とともに、そのセンターの様子をレポートしていました。
ユダヤの人々にとって、重要な意味を持つその21番ホームを、現在、海を渡って欧州にやってくる難民の人々に、どうしても解放したいと切望したのは、「ミラノ・ホロコースト・メモリアル協会」の副会長であるロベルト・ジャラック氏なのだそうです。さらにその、21番ホーム難民センタープロジェクトには、サンテエジディオ(Sant’egidio)・コミュニティが共同参加している。サンテエジディオは、ローマで発足した、僧職ではないカトリック信者による、世界平和に貢献するワールドワイドなボランティアグループですが、最近もシリアのアレッポから、行き場なく、途方にくれていた多くの難民の人々を飛行機でローマに輸送することに成功しています。
こうして、ユダヤの人々とカトリックの信徒たちが、協力してオーガナイズするミラノ中央駅21番ホーム難民センターは、現在までに26カ国から訪れた7500人の難民の人々を受け入れています。また、ここではイスラム教徒である人々もボランティアとして力を合わせて働いているそうです。
また、このミラノ中央駅にある難民受け入れセンターの実現のために多くのミラノ市民が援助を惜しみませんでした。さらにたくさんの若い世代の人々がこのプロジェクトに関わっており、いくつかの学校も参加して、地中海を渡ってきた難民の人々と学生たちの対話も実施しています。 WEB上の短い映像の中で感銘を受けたのは、26歳のハッサンという名のパキスタン人のボランティアの言葉ですが、祖母に勇気づけられ、タリバンの支配から逃亡してきた彼は、自分と同じ境遇である難民の人々が英語もイタリア語も話せないため、彼らのコミュニケーションを手伝うというボランティアをしているそうです。「僕にとっては非常に有益な経験だったと思う。この場所では皆が一緒に生活し、互いに助け合うんだ。神は Unicoー唯一なんだから」
ローマ:昨日の船、そして今日の船
ところで、1月27日、ホロコーストのメモリアルデーに、1900年以降の歴史を振り返り、批判も含めて熟考する、というコンセプトで活動しているローマ市営の図書館 Casa della memoria e della storia(記憶と歴史の家)で開かれたイベントでも、ミラノ中央駅の地下、21番ホームの壁に刻まれた「 Indifferenzaー無関心」という言葉が盛んに聞かれました。
このイベントは1944年、「 Pentcho」と名付けられた、設備の整わない粗末な船で、パレスティーナを目指して欧州から逃亡する途中、ギリシャで難破した540人のユダヤの人々の物語と、現在、船に乗って欧州へ渡ってくる難民の人々の状況をシンボリックに重ね合わせ、実際に、現在地中海沿岸で難民の人々の救助にあたる、イタリア海兵隊の沿岸警備の大佐を招き、繰り返される歴史の悲劇を討論するというものでした。このイベントは世界中の人々の平等を目指してプログレッシブな活動を行なう Beth Hellelというユダヤ人コミュニティにより開催されたものです。
実を言えばそのイベントに出かける前、多少の「暗鬱」な空気を覚悟していました。しかし実際に行ってみると、参加者は皆イキイキと活発に討論しあい、沿岸警備隊の大佐への矢継ぎ早の質問に会場は熱気に包まれていた。なにより参加者たちの(意外なことに、10代と思われる若い世代も多く)難民の人々への強い想いに驚きました。沿岸警備隊の大佐は、「船に乗って来る難民の人々を助けるためにレスキュー隊は厳しい訓練を受けているが、それでもどうしても助けられないケースもあり、その時の無念は言葉にしようがない」と唇を噛み締め、また、救助に当たるレスキュー隊そのものが難破に巻き込まれるリスクの大きさをも詳細に説明、難民の人々の救助の現場を知る貴重な経験となりました。
また、このイベントで、シリアから来る船長のいない「幽霊船」の存在についても初めて知りました。というのも、法外な料金を難民の人々に要求して、違法に地中海を渡ろうとする船の船長は、確実に沿岸警備隊に逮捕されるため、難民を乗せ、シリアを出発する時点でイタリアへと向かうように自動制御された船が多く来るようになったのだそうです。大佐は、沿岸警備隊の仕事は、もちろん地中海上の安全を保証する、という役割に則っての警備だが、難民の人々を助けるのは、人間として当然の義務だと考えている、ともおっしゃっていました。
そしてそのイベントで、なにより印象に残ったのが、「歴史は、ホロコーストという事実を突きつけているのに、難民を排斥する動きが、世界の各地で起こっているのを見て、絶望的な気持ちになる。人間というものは変わらないのだろうか」という参加者の意見に、主催者のパネラーが語った言葉です。
「わたしたち家族は44年にスイスに亡命した家族です。当時わたしは9歳で、家族全員で冬山を渡り、スイスの国境まで歩いていった。国境の兵士たちが『何人だ』と聞くので、父が『ユダヤ人だ』と答えると、『ユダヤ人をスイスに入れるわけにはいかない。後に戻れ』と突き放されました。その時、父は、このまま家族全員で死のうとまで考えたそうです。ところが一旦は入国を拒絶した兵士たちは、震えて立っているわたしたち子供をしばらく見つめると、目を伏せて、『いいから急いで通りなさい』と一言だけいうと、兵舎へと立ち去って行きました。わたしたちは本当に運が良かった。他の多くのユダヤ人家族は、国境で拒絶され、連行され、命を落としたのだから・・・。『ユダヤ人』というだけで差別されるなんて、そんな理不尽はもう2度と起こってはいけない、とわたしは強く思います。それなのに世界はまた同じことを繰り返そうとしているように思える。そう、人間は変わらない。変わりません。今の状況を鑑みると、そうとしか言えない」
欧州にいて、世界が大きく動くのを感じています。ホロコーストを経験した家族を出自に持つ、娘婿である有能なユダヤ人実業家を大統領上級顧問に据えながら、まさにホロコーストのメモリアル・デーに発令された米国大統領の「イスラム圏7カ国の市民、難民の入国禁止制限」は、耳を疑う暴力的な出来事でした。ワシントン州連邦地裁の大統領差し止めの判断が、このまま混乱なく効力を持続させることを願いますが、まさか米国の大統領が、こんな大統領令を発令する日が来ようとは、ゆめゆめ想像していなかった。
一方欧州では2月4日、イタリアーリビア政府合意のもと、欧州ーリビアの首脳陣がリビアから難民の人々を乗せた違法な船を出発させないという協定をマルタで結んだというニュースが報道されています。発表された同日には、シチリアに1600人の難民の人々が上陸。その中には家族を伴わない18歳未満の子供たちもいて、その数は次第に多くなっているそうです。そのマルタで署名された協定に「残酷で偽善的。ヨーロッパの首脳はリビアで現在繰り広げられている、きわめて非人間的な状況を理解しようとしない。いかに人命を助けるか、ということを真剣に議論していない」と、国境なき医師団をはじめとする多くの人権団体からの大きな反発があります。実際、テレビニュースのインタビューでは、シチリアにたどりつく難民の人々が、連行されたリビアの刑務所で過酷な暴力を受けたという証言をし、身体中に残る傷跡を見せる様子が報道されます。この合意は、政府が複数存在する現在のリビアの政情を省みるなら、書類上の約束だけに終わる可能性もありますが、それでも静かに欧州が国境を閉じようと動きはじめた気配が漂います。
難民の人々は、戦禍を、圧政を逃れ、命を賭けて砂漠を渡り、銃で脅され、幾つもの危険を犯して地中海沿岸に辿りつく。そしてその最後の難関、地中海で命を落とすこともあります。
確かにこの状況下において最も冷酷な対応は、世界の現実を見ようとしない『無関心』かもしれません。いずれにしても、恐れと怒りという感情、テロ、スピード、インパクトが、簡単に大衆を煽動するツールとなることは覚えておきたいと思っているところです。