ローマのユダヤ人と難民の人々 : Shoah ショーア

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カトリック教会との確執と迫害

ローマにおいて、キリスト教によるユダヤ教信徒への迫害が顕著になりはじめるのは、紀元6世紀頃のこと。その後のユダヤ人コミュニティの歴史は、ユダヤ人を敵と見なし、激しく差別するカトリック教会、時代時代の教皇たちとの確執の中で進んでいくことになります。それでも当時のユダヤ人コミュニティは聖書研究の分野で、カトリックに重要な貢献をしていましたし、「聖書の世界の真実」を伝え、キリスト教の正当性を証言する役割を担う民族でもありましたから、決してローマから追放されることはありませんでした。まだ迫害が緩やかであった中世の初期には、ローマのユダヤコミュニティは自らの伝統に忠実に日常を送り、聖書解釈、また科学の知識の流布に活動し、ラテン世界と、カトリック教会、イスラム圏の架け橋ともなっています。

その状況が大きく変化するのは紀元1000年頃。権勢を増したカトリック教会が、職人、職業協会制度を制定し、その協会に参加するためにはカトリックに信仰をもつことを条件としたため、この制度の発令をきっかけとして、ローマのユダヤ人たちは、あらゆる職種に就くことを禁じられることになります。例外として認められたのが、教会がカトリック信徒に許可しなかった唯一の業種、「金融」の分野のみで、カトリック教会のこの制度が、当時のローマのユダヤ人だけではなく、欧州全土ユダヤ人コミュニティ大きな変革をもたらすことになった。

つまり、欧州各国の経済循環に必要不可欠な金融業に携わることができるのはユダヤ人コミュニティだけだったので、この時期、その存在は迫害を受けながらも欧州のどの地域においても容認されることになりました。また、考えようによっては、教会のこの職人、職業協会制度が、現代の金融世界のシステムにまで影響を及ぼしていると言えるかもしれません。なお、ローマのユダヤ人コミュニティは、利子をとっての金銭の信用貸しのパイオニアとされていますが、ユダヤ人だけが扱うことができる信用貸し、あるいはユダヤの人々のネットワークを利用した為替のシステムを利用することで、当時の教会貴族商人達は、大きな恩恵を受け、を得ていたというわけです。

とはいえ、この時代のユダヤの人々は金融の仕事にだけ奔走していたわけではなく、彼らのアイデンティティである「律法」研究を基礎に、絶え間なくあらゆる分野の学問の研究を続けています。1165年には、 ベニアミーノ・ダ・トゥデーラ(スペインからチュニジアへ移住しユダヤ人地理学者)が、ローマのユダヤ人たちによるユダヤ教研究が大きく発展していること、またその研究がイスラム圏をも含める地中海沿岸哲学聖書解釈天文学医学数学の分野に大きく影響していたことを書き残している。また十字軍の時代には、スペインから追放されたユダヤの人々は、欧州から追放されたのち、地中海諸国に渡り、哲学、医学などの分野のアラブ語訳として活動、地中海沿岸の文化を携えてローマのコミュニティへと流れてきたという経緯もある。グーテンベルグの印刷技術が渡来した際には「カバラー数秘学」を、のユダヤ(ヘブライ)語の書籍としてローマで出版しています。

時代を追うにつれ、しかしローマのユダヤコミュニティは、教会に対して過大な税を負わせられるなど、いよいよ困難な状況に置かれはじめることになります。また、人類の歴史とともに経済システムが大きな変換を迎えた1492年(コロンブスアメリカ大陸発見の年)には、キリスト教への改宗か放逐かを迫られ、スペイン領から逃亡したセファルディム、スペイン系ユダヤ人たちがローマに多く合流しています。

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テヴェレ川に面した修復以前のローマのゲットー地区。neapolisroma.itより

ユダヤ人地域『ゲットー』

ユダヤの人々のカトリック教会による極端な迫害が決定的になるのは1555年教皇パオロ4世の時代です。今までは迫害されながらも、ローマの各地、特にトラステヴェレ、そしてアヴェンティーノ地区辺りに集まり、普通の市民と同じように暮らしていたユダヤの人々約3000人は、「ゲットー」、つまり「ユダヤ人の檻」と呼ばれる地域に、教皇の制定した法律により強制的に閉じ込められ、不自由な、まさに「檻」の中での生活を強いられるようになりました。なにより当時のゲットーは、テヴェレ川水位より低地にあり、湿気が多く、衛生環境が著しく悪い地域で、テヴェレ川が氾濫するたびに建物の3階にまで泥水が上がり、のようになる地域だったそうです。ユダヤの人々が「(神の)律法の下にすべての人々は平等」という強い信仰を持っていなければ、このような過酷な状況には耐えられなかったかもしれません。

その、マルチェッロ劇場裏からテヴェレ川の間の狭く、高い塀に閉ざされたゲットー地区のシステムは、夜明けとともに門が開かれ陽が暮れる門が閉じられるという門限があり、ユダヤの人々は、その門限に合わせてローマの街での用事を済まさなければなりませんでした。また、ゲットーから外に出ても一目でユダヤ人とわかるように、男性ベレー帽女性深緑色の服の着用が義務付けられ、ゲットー内では、古着商金融業以外の商売は禁止されています。さらにユダヤ人たちをカトリックへの改宗に導くために行われる、ゲットー地区近隣の教会でのミサに一定期間の参加をも義務づけられていました。しかしそれでもユダヤの人々は強く改宗拒み、そのため教会は、ユダヤ教からキリスト教に改宗した人々を使って、ゲットーの人々に何度も説得を試みさせています。

時が経つに連れ、ドイツやスペインから追放された同胞たちがローマのゲットーへ流れ込み、人口は4000人へと増加。その人口増加のせいで、ゲットーの居住環境はいよいよ劣悪となりました。そこでシスト5世教皇の時代には「キリスト教の隣人愛(?)」として3ヘクタールの増設が認められていますが、それでも人口に対して、極めて狭い地区には変わりなく、ゲットーの建物は上へ上へと増設され、7階、8階と高層化し、ローマ初の摩天楼が並ぶ地区となりました。また、ローマにはシナゴーグはひとつと定められ、当時存在したユダヤ教の5つの教派は、ゲットーの内部のシナゴーグにまとめられたそうです。

この時代、ユダヤの人々は常に社会のスケープゴートとされ、ユダヤ人の老人を闘わせて見世物としたり、裸で競争させられるなど屈辱的仕打ちを受け続けたという経緯もあったそうです。清教徒の「魔女狩り」同様、カトリック教会は当時の市民の社会不満はけ口として、ユダヤの人々の存在を、かなり利用していたと考えられます。

200年以上檻の中に閉じ込められるという、カトリック教会によるユダヤの人々への迫害が一息ついたのは、フランス革命とそれに続いてナポレオンローマに侵攻した時代です。1798年、時の教皇ピオ6世がローマから逃亡したのち、第1次ローマ共和国が宣言され、ユダヤの人々にも全ての市民と同じ平等の権利が認められることとなりました。しかしその自由も束の間、ローマに帰還した教皇ピオ7世は、以前にも増してユダヤの人々を迫害し、自由を得てゲットーの外で商売をはじめた人々には、その自由を剥奪しない代償として、破格の税金を要求。ナポレオンのローマ侵攻とともに開かれたはずのゲットーは再び閉ざされ、ようやく「檻」の外に出て、職を得たり、商売を始めたにも関わらず、税金が払えない人々はゲットーへと連れ戻され、学校からも、病院からも追放されています。

さらに1823年に選ばれた教皇レオーネ7世の時代に迫害は頂点を極め、レオーネ8世の時代には、ローマにはユダヤの人々のアイデンティティであるユダヤ教の中核を担う「ラビ」(ユダヤ教指導者)が存在しないという状態まで追い込まれています。ゲットーという「」からの真の解放は、1870年ガリバルディローマ教皇位廃止を決め、教皇の政治権力が終焉するのを待たなければなりませんでした。ここでようやく、長かったローマのユダヤ人ゲットー幽閉に終止符が打たれ、自由が認められると同時に、ローマのユダヤコミュニティの人々はトラステヴェレ川沿いの土地を購入、現在その地にあるシナゴーグ1904年に建造しています。

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1938年、11月11日、ファシスト政権下で発令された、ユダヤ人の市民権を剥奪する『人種法』を発表するコリエレ・デッラ・セーラ紙。この時からユダヤの人々は公共機関、学校、病院、また企業では働くことができなくなりました。

ファシズム下、ユダヤの人々の悲劇

キリスト教の政治権力の衰退とともに、ユダヤの人々への迫害がここで終わったならば、歴史はこれほどユダヤの人々に注目しなかったかもしれません。しかしユダヤの最も痛ましい悲劇は、いったんはゲットーから解放され、市民権を得たにも関わらず、それから一世代を待たないうちに起こることになります。1922年ムッソリーニ政権が樹立してからまもなく、ファシスト政権はユダヤコミュニティとみなし、多くの新聞が『アンチセミティズム(反ユダヤ)』を煽りはじめたのです。

実際、今も昔も、共同体と対立する仮想敵を仕立て上げることは、人々の日常の不満をはけ口へと誘導する最も効果的な方法です。自らの不幸、フラストレーションを敵意、憎悪にすり替える過程は一種のカタルシスであり、悪である敵の共同体から自らが属する善なる共同体を守るという、生き残りを賭けた闘争本能を刺激されればされるほど大衆は団結する。まさにFacio(ファッショ:束)を社会に構築するためには、それが幻であろうとも、敵の存在が必要不可欠なのです。

今頃になって、ムッソリーニはアンチセミティストではなく、ユダヤの人々にそもそも敵対してはいなかった、などという説も出てきていますが、イタリアのユダヤの人々が、アウシュビッツに送られたという歴然とした記録が残っている以上、敵意があろうとなかろうと、ムッソリーニがホロコーストに加担したことは、紛れもない歴史の事実でしょう。

そのムッソリーニのファシスト政権下、そもそも長い迫害に耐えてきたユダヤの人々は、ファシスト政権による反ユダヤの声が高まるなかでも、ユダヤの伝統的な生活を忠実に守り、政権による強い圧迫にも動ぜず、ラビたちも毅然とした態度で臨んでいます。しかし、自らを「イスラムの守護者」と名乗るムッソリーニは、いよいよ攻撃的な外交を行使、アラブ諸国、パレスティーナに武器を送り、当時英国に保護されていたユダヤの人々、シオニズムの聖地を脅かしはじめる。さらにムッソリーニとヒトラーの連帯が強まるほど、緊張は高まり、ムッソリーニはユダヤ人排斥を強く打ち出しています。

1938年、11月11日、ムッソリーニ政権による「人種法」(ユダヤの人々の公共機関からの追放、ユダヤ人との結婚の禁止など、実質的にユダヤの人々を完全に社会から排斥する法律)の制定が発表された当初は、その先に言語を絶する悲劇が待っているとは考えも及ばず、ローマのユダヤの人々は比較的穏やかに日々を過ごしていたそうです。また、「人種法」が制定され、状況が悪化した1938年から1945年までの間、移民が可能だった人々は、アメリカ、そしてパレスティーナへと移住、移民することができず、ローマに残ったユダヤの人々は、ヒトラーの迫害から逃亡してきた、数多くのユダヤ人たちを助け、匿っています。

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ローマのユダヤ・コミュニティの歴史において、決して忘れられない出来事が起きたのは、1943年10月16日夜明けのことでした。その日ローマになだれ込んできた何百人ものドイツ兵が、突然ユダヤコミュニティ地区を包囲1022人200人の子供も含み)のユダヤ人は、貴金属や手持ちの金銭を奪われたのち、有無も言わせず連れ去られ、アウシュビッツに連行された。そのうち生き延びることができたのはたったの17名だけだったそうです。

590万人以上とも言われる、ナチスによるホロコーストの犠牲になったユダヤの人々の正確な数については、現在でも議論が続いていますが、もちろん、ユダヤの人々だけではなく、ソ連兵捕虜300万人、ポーランド人200万人、ロム、シンティ(ジプシーの人々)55万人、身体障害者の人々25万人、フリーメーソン8万〜20万人、同性愛者5000〜15000人、「エホバの証人」信仰者2500〜5000人、思想犯100〜150万人、スラブの人々250万人という、途方もない数の人々が犠牲になっています。それもたったの70年前、つい最近の出来事です。そして、このホロコーストをなぞるようなジェノサイド、民族浄化は、民族を変え、国を変え、宗教を変え、その後も終わることなく、現在も世界各地で繰り広げられているのです。

ドイツ兵に連行されたイタリア全土のユダヤの人々は、イタリア各地にある強制収容所を通過点に数日過ごしたあと、ミラノへ送られ、ミラノ中央駅の地下にある21番ホームから、秘密裏にアウシュビッツへと運ばれました。そもそも郵便、荷物の集配など配送のために作られた、人間の輸送を禁止していたそのホームは、どんなに大声を出して助けを求めようとも、外には全く聞こえない厚い壁に覆われた厳重な構造となっていました。

※巨匠エットレ・スコーラによる1943年ー97年をテーマにした短編。まさに現代を見通すスコーラの慧眼には驚きます。

▶︎難民の人々に解放されたミラノ中央駅21番ホーム

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