バオバブ・エクスペリエンスとスパドリーニ広場
場所さえ把握していれば、メトロの駅から10分もかからない「駅裏」にも関わらず、バオバブの活動拠点であるスパドリーニ広場へはじめて行った日は、いったん駅を出て、ぐるりと大きく一巡り、人気のない林と廃屋に囲まれた一本道をただひたすらに歩き、1時間以上もかかって探さなければなりませんでした。Google Mapにもその広場の名前はまだ登録されておらず、駅を行き交う人々、バール、駅員さん、タクシーの運転手さん、と誰に聞いてもスパトリーニ広場が駅のすぐ裏にあることを知らず、人に尋ねるたびに全く違う方向を示されるからでした。
途中、「もうこれは無理」と諦めたその時に、ようやくその広場に到着。広場で数人の難民の青年たちと話していたボランティアの若い女性を見つけて「道ゆく誰もこの広場を知らず、ここに来るのは非常に大変でした」と言うと、「そう、この広場の名前はまだ一般的ではないから、はじめはみんな迷うのよ。みんな、ここまで辿り着くのは大変」となかなかシンボリックな答えが返ってきます。というのも市民だけで構成するこの難民サポートグループ、バオバブのボランティアシステムを頼りに一縷の望みを抱いて、この広場に来る難民申請を希望する人々も紆余曲折、さまざまな道のりを経て、ようやくこの広場に辿りつくからです。
今にも雨が降り出しそうな厚い雲に覆われ、冷たい風が吹き荒れるその日のスパトリーニ広場は、広々としながら閑散としていました。難民の青年たちとボランティア以外にはほとんど人影もなく、数少ない本数のバスが発着する停留所があるだけの、無機的な打ちっ放しのセメントで囲まれた広場です。大通りを隔てた向こうには、わたしがひたすら歩いてきた、舗装もされていない泥だらけの一本道が通る、うらびれた風景の小高い丘が広がります。ふと、どんよりとした雲が垂れ込める空を見上げると、頬にポツリと水滴が落ち、やがて本格的に雨が降りはじめ、広場にいた我々は一斉にバスの停留所の狭い庇(ひさし)へと駈けることになりました。
青年たちを見渡すと、なかには途方に暮れた表情の人物が幾人かはいても、その他の青年たちは塀の上に座って、イヤフォーンで音楽を聴いていたり、ボランティアの人も混じって数人のグループで冗談を言い合って笑ったりと、それぞれ自由に行動し、想像していたよりも伸びやかな雰囲気です。その後何度かその広場へ行って気づいたのですが、ほぼ毎日交替でやってきて、彼らの話し相手をしたり相談事を聞く若いボランティアの男女の存在は、明らかに彼らの大きな心の支えになっているようです。ここでは誰もが友達であり、ボランティアたちはただやさしいだけではなく、彼らの間で問題が起こればハッキリと厳しく指摘し、一緒に解決策を考え、嬉しいときには抱き合って喜びます。
深刻な眼の病気を患い、医者からの処方箋を手にした人物の周囲では、ボランティアの女性と通訳の男性が、処方箋を訳し入念に説明し、不明な記述があれば、医者に電話をして確認をとります。そのうち、寄付された洋服や靴を大きな紙袋に入れたボランティアが現れ、タオルや洗面道具の入ったキットも配布されました。こうして一日じゅう、ボランティアがひっきりなしに入れ替わり立ち替わり現れて、彼らだけが広場に置き去りにされることはありません。「私たちのコミュニケーションにとって、まず言葉が一番はじめの壁なの。それに色々ひどい状況に直面して来た人々だから、信頼を得るのはとても難しい」との声も聞きましたが、私の見る限り、青年たちはバオバブの人々に全幅の信頼を置いているように思えました。
現在、公共のオープンスペースである、このスパドリーニ広場を起点に活動しているバオバブは、市民が自発的に形成した難民の人々をサポートするアソシエーションです。一般市民、医師、看護師、学生、アーティストなど、50人から100人のボランティアが、中継点としてであれ、滞在地としてであれ、ローマを訪れる難民の人々のために常時活動しています。この広場には現在、スーダン、エチオピア、ソマリア、エリトリア、イラク、パキスタンなどの国々から渡ってきた30人から35人ほどの人々(その多くは若い青年たち。また、日によって人数が増えます)が、夜は舗道にテントを張って生活しているそうです。その中には少数ですが若い女性の姿もありました。
バオバブは、そもそもティブルティーナ地域のVia Cupa(クーパ通り)の古いガラス工場を占拠していたグループが、市民の完全自主管理に基づく、ローマを通過する難民の人々のためのサポートセンターをはじめたのが由来だそうです。近年になって、トランジットでローマを訪れる難民の人々が増えるにつれ、「ローマを通過する人々に、できるだけトラウマを作らないように」とデリケートな気配りと、責任を持って活動するこのグループが大きく注目され、イタリア国内主要紙だけではなく、ニューヨーク・タイムス紙も報道しています。(英語ですがNYT紙が製作した動画はこちらから)
クーパ通りにセンターがあった頃のバオバブは、何ヶ月もサハラを歩き、リビアでは牢獄に入れられ、拷問を受け、死をも覚悟して地中海を渡って来た人々に、温かい食事とベッドを提供するだけではなく、ローマの市街地を散歩したり、サッカーの試合を開催したり、と人間同士の温かい抱擁で迎えていました。ローマに滞在する難民の人々に必要な食料や医薬品、衣類は全てローマ市民有志が寄贈したもののみで賄われてもいました。つまり一切国家の介在なく、市民の善意のみで円滑に機能していたわけです。
そのバオバブが「占拠している場所を所有者に戻せ」と2015年12月、アンチテロリスト特殊部隊まで導入され強制退去となった際には、主要各メディア、多くの市民から「国家の予算を1ユーロも使わず、市民で構成した素晴らしいボランティア救援センターの例であったにもかかわらず、そこに国家が介在する余地がなかったから、目障りだったのだ」と大きな非難が巻き起こり、ネット上でも議論となり、いくつかの抗議デモも開催されました。
市民の善意で集まった大量の医薬品、食料、衣類をも当局が押収。さらに当局は、着の身着のままでイタリアにたどり着いた難民の人々が所持していた数少ない持ち物、彼らを自らの土地と結びつける心の支えであろう、家族の写真や御守りまで持ち去っています。バオバブのボランティアたちが継続的に当局に抗議し、難民の人々の所持品を取り戻した時には、多くの人々はすでにローマを立ち去った後だったそうです。そしてあらゆる『占拠』の強制退去の例にもれず、「所有者に戻す」という名目での退去から1年以上が過ぎても、クーパ通りの建物は、閉ざされたまま廃墟となっています。
強制退去後のバオバブのボランティアたちはしかし、場所を失っても活動を中断することはありませんでした。いくつかの場所を模索したのち、2016年の10月から、名称もバオバブ・エクスペリエンスと改め、現在のスパトリーニ広場に緊急の難民中継センターを設置。連絡事項はFacebookの非公開グループのページに頻繁に更新され、そのページを訪ねれば、活動の予定が分かるようになっています。
もちろん確実な場所を構え、トータルに難民の人々をケア、サポートするという当初の計画からは大きくかけ離れていますが、それでも現場に行くとボランティアの人々の無駄のない、プロフェッショナルな、しかし人間味溢れるサポートには目を見張ります。この広場を訪れる、何らかの理由で公的機関であるSprar の保護を受けられなかった難民の人々の心理的なサポート、医療サポート、難民申請のための法律的手続きのサポート、食料、衣料、文化、娯楽サポートと、屋根のある建物からオープンスペースのテントに変わったこと以外、内容的にはクーパ通り時代のバオバブとほぼ同様のサポートが行われています。