見え隠れするグラディオの影
生涯、『鉛の時代』を調査し、機密書類、モーロ夫人が集めたモーロのパーソナルな記録を含める、公文書、裁判記録、マフィア、諜報関係のあらゆる資料を集めたセンター「アーカイブ・フラミンニ」を創設した、元『イタリア共産党』上院議員、セルジォ・フラミンニは、その朝、事件現場の反対車線(バール・オリヴェッティ側)に、逆進行方向に駐車されていたミニ・クーパーに注目しました。
現場の検証結果から、フラミンニは、このミニ・クーパーの影に隠れ、『旅団』コマンド以外の複数のキラーが存在していた可能性に言及し、現場で通行者によって目撃された、弾倉が長いミトラー軽機関銃を持っていた男が、120秒の間に49発を撃ったのではないか、との仮説をたてているのです。
「正確に、落ち着いて武器を操り、(その男が)銃撃の完全な主導権を握る様子が強く印象に残っている。手袋をした左手で銃身を抑え、右手に軽機関銃を抱え、やるべきことがすべて分かっているかのように、狙いを定めていた」
事件直後、目撃者はカラビニエリにそう証言していますが、その男が誰だったのか、その武器がどこへ消えたのか、現在も正体が分かっていません。
つまり、『旅団』の4人のコマンドが犯行時、わざわざ飛行機の乗務員のユニフォームを着ていたのはショー・アップするためや、彼らが供述するように、仲間同士で間違って銃撃するのを防ぐためではなく(彼らはもちろん顔見知りであり、当日は顔を隠していませんでしたから)、『旅団』以外のキラーから間違って銃撃されないためだった、と考えられるのです。このことについては、モーロの実弟であるカルロ・アルフレド・モーロ検察官も指摘しています。
しかし2017年の『政府議会事件委員会』で、改めて現場の科学的な検証が行われた結果、49発を打ったスーパーキラーとされた男から発射された弾丸は、ほとんど向かいの住宅に飛び込んでおり、6発のみがアルファロメオに乗っていた警察官に当たった、という結論が出されました。
また、この検証で、モーロが乗っていたフィアット130blueの運転手リッチと、レオナルディは、モレッティの車に遮られる前、まだ車が動いている時に銃撃された、という新たな可能性にも言及されることになりますが、いずれにしても、特殊訓練を受けたプロフェッショナルなキラーが存在したには違いありません。
ところで、フラミンニが言及したミニ・クーパーは、現場からほど近い、ファーニ通り109番地の建物の住人の所有で、70年にクーデター未遂を起こしたユニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼの極右グループ「Xmas」の元幹部という経歴を持つ、そもそもパラシュート部隊に属していたモスカルディという人物の車でした。この人物はグラディオーステイ・ビハインドの戦闘員としてフィレンツェに派遣されていた、という経緯もあるそうです。
そのうえ、この人物が住んでいた建物は、軍部諜報局の社宅としても使われており、その98%を、NATO基地でグラディオ戦闘員を訓練していたストッキという大佐の妹が所有。残りの2%をその夫が所有していました。モスカルディが、なぜ事件当日、自宅付近の道路ではなく、自宅バルコニーから見下ろすことができる、「バール・オリヴェッテ」前に、わざわざ逆方向にミニ・クーパーを駐車していたのか、捜査されることはありませんでした。
「ありえない」偶然は続きます。ちょうど事件があったその時間、現場をSismi(軍部諜報局)の大佐(P2メンバー、NATO基地でグラディオの戦闘員を指導していた経歴を持つ)が歩いていたことが、かなり時間が経ったのち、明らかになりました。大佐はその理由を聞かれて、「同僚の家に昼ごはんを食べに行く途中だった」と答えていますが、いくらなんでも朝9時から昼食に出かける人は非常に稀なうえ、同僚という人物も「自分はそんな時間に昼食などしないが、突然やってきたので一緒にコーヒーを飲んだ」と答えたそうです。
また、いつも花屋のトラックがあるはずの場所に駐車され、モーロの車の行く手を遮るために、故意に駐車されていた(と見られる)ブルーのオースティン・モーリスは、ふたつの役割を持っていた、と考えられています。ひとつはモーロと警護官たちが乗る車2台が咄嗟に歩道に乗り上げて、前方へ逃げるのを遮るため、もうひとつは別のキラーを隠すためであり、銃撃と同時に大きく振り返り、モーロを守ろうとしたカラビニエリのレオナルディ、そして後方の車に乗っていた警護官ひとりは、このキラーに右側から射殺された、との仮説があります。しかし『旅団』コマンドは皆、左側から銃撃した、と供述しているのです。
もちろん、このオースティン・モリスにも驚愕する背景があるわけですが、所有者はSisde(内務省諜報局)の不動産を運営する(諜報局には財産所有が認められないため)不動産会社(Sisdeのオフィスがある建物の同じ階にある)であり、なんと、その会社が、のちに発覚することになる『旅団』のマリオ・モレッティの隠れ家であった、グラドリ通り96番地のアパートの建物の、ほとんどの不動産を管理していたのだそうです。しかも、その不動産会社は当時、P2のメンバーでもあった警察分署長の恋人であった女性が運営していました。
さらに事件の直後、アパートの窓から急いで写真を撮ったカメラマンが存在しましたが、そのフィルムを恋人である通信社で働くジャーナリストの女性に託したところ、人から人へと渡るうちにいつの間にか消滅することになっています。
ところがそれから38年経った2016年に、その時の写真が、文化、政治、経済、地政学ニュースなどを深く掘り下げるサイトFormiche.netに突然現れることになりました(マルコ・ダミラーノ)。そして公表されたその写真には、マフィアグループ「ンドゥランゲタ」と近しい、冷酷非常な殺人鬼として恐れられたジゥスティーノ・デ・ヴォノに非常によく似た男が写っていたのです。
軍事ジャーナリストのミーノ・ぺコレッリは、1978年、3月28日(モーロの誘拐中に)、自身が創刊した軍事ジャーナル『OP』に「ファーニ通りで殺戮を行った犯人たちは、さらに酷いことを行うだろう。アルド・モーロを誘拐したのは、最高レベルの戦闘特殊訓練を受けたプロフェッショナルたちだ。『キリスト教民主党』のリーダーの車を襲撃するキラーとして送り込まれたのは、広場でリクルートされた肉体労働者たち(『赤い旅団』)かもしれないが、これは心に留めておく必要がある」と書いています。
あわせて、モーロが殺害された後には、「殺害者は、『デ』と肉屋のマウリッツィオとは言わずにおこう」と、ペコレッリは、まるで暗示のような言葉を残してもいます。マウリッツィオが、マリオ・モレッティの非合法活動における戦闘名であることは、すでに周知のことですが、『デ』というのは、実はデ・ヴォノを指していたのではないか、とダミラーノは推測しているのです。
というのも、モーロの解剖写真を見た司祭を含める、何人かの証言者が、遺体に残された、特殊なサインを認めているからでもあり、それは心臓の周囲にバラの花のように弾丸を打ち込んで、出血多量によって、少しづつ命の灯火を消すデ・ヴォノ独特の暗殺の方法で、この殺人鬼が残すサインとして知られていました。
しかしながら、デ・ヴォノは、すでに1994年に病死していることを『政府議会事件調査委員会』が明らかにし、裏付けが取れない状況となっています。なお、別の事件後の現場写真には、2015年に亡くなった、アントニオ・ニルタという『ンドゥランゲタ』のボスに非常によく似た人物も写っており、おそらく彼らは「バール・オリヴェッティ」の常連だったと見られます。
また、これは事件当初から言われていたことですが、現場でドイツ語、あるいはドイツ語アクセントの英語を聞いた、という多くの証言があり、ファーニ通りの急襲に、Raf(ドイツ赤軍)と思われるドイツ人テロリストが関わっていた可能性が指摘され続けています。
事実、『旅団』と明らかに繋がりを持つ何人かのドイツ人テロリストが、事件の数日後、3月21日に、ローマ近郊のヴィテルボで逮捕される、という経緯があり、しかしそのテロリストたちは完全に黙秘権を行使して、ひとことも喋ることなく釈放となっています。いずれにしても、『赤い旅団』が、Raf、PFLPなど、海外のテロリストたちともコンタクトがあったことは明らかです(ジュゼッペ・フィオローニ)。
こうして現在では、「これは9人とか11人のレベルではない。現場には、おそらく関係者が40人ぐらいはいたはずだ」と考えられている現場は、いわば「グラディオエリア」とでも言うべき状況で、もちろんこれらすべての調査の結果は、もしかしたら本当に、ただの偶然なのかもしれませんが、ここまで偶然が重なるのはやはり異常事態です。
では、以上の調査の方向性が間違っていなかった、と考えて、アルド・モーロという国家の頂点にある人物の誘拐事件の中核に存在し、国家に戦争をしかけ、革命を起こすはずだった『赤い旅団』という欧州最大の極左テロリストグループとはいったい何だったのか、という、きわめて大きな疑問が残ります。
創立メンバーたちも、マリオ・モレッティも「赤い旅団は、真正である」と強調しますが、知らないうちに操られ利用されたのか、スパイが紛れ込んでいたのか、それとも謀略を知っての共謀だったのか、『赤い旅団』の存在意義が問われる局面です。
そもそも『モーロ事件』のコマンドたちは、それぞれが農民の息子であったり、工場労働者であったりと、その時代、甚だしい格差を生んだ多国籍資本帝国主義経済システムに義憤を募らせ、『武装革命』を起こそうと非合法活動に身を投じた若者たちです。その若者たちが、それから43年を経て、十分に年齢を重ねても、いまだに説明のつかない証言をし続けている。
ただひとり、アドリアーナ・ファランダが、「だいぶん時間が経って、ひょっとしたらわたしたちは操られているのかもしれないと考えた」と語っていますが、彼女の証言にも齟齬があり、どの部分が真実なのか釈然としません。
『旅団』メンバーは当初、モーロが毎朝礼拝に行くサンタ・キアラ教会での犯行を考えていたと言いますが、他の市民を巻き込む可能性があるため計画を変えた、と供述しています。しかし人通りはファーニ通りのほうが断然多く、しかも教会の中ならレオナルディのみの警護だったため、本人たちも危険を犯しながら、5人もの警護の方々を犠牲にする必要もなかったのではないか、との疑問が残ります。
考えられるのは、目撃者が多いであろうファーニ通りの方が事件のインパクトが大きく、ショッキングなシナリオとなった、ということでしょうか。
『旅団』のメンバーがアルド・モーロを連れ去って、ストレーザ通りを左折して逃亡したのち、現場に当局者、メディアが急行し、9:28分、テレビ、ラジオで第一報が流れた途端、イタリア全土が今までに体験したことがない異様な緊張と恐怖に包まれました。その時代を生きた人々なら、その瞬間の衝撃を覚えていない人はいないほどです。
9:23分には、犯人が乗り捨てたフィアット132が、現場から100mしか離れていないリチアーノ・カルヴォ通りで発見され、武装した男女の若者が徒歩で逃げるのを目撃されています。このリチアーノ・カルヴォ通りのすぐ傍のマッシミ通りには、ヴァチカン(P2と強固な絆を持つ、ポール・マルチンクスが総裁をしていたL’Istituto per le Opere di ReligioneーIOR)が所有する建物が存在し、なぜか『モーロ事件』の後、『旅団』のコマンドのひとり、プロスペロー・ガリナーリがその建物内に寄宿していたことが判明しています。
『旅団』のコマンドたちは、ヘリコプターが飛び交い、あらゆる街角で尋問がはじまる中、要所要所で車を乗り換えながら、人民刑務所として準備していた、モンタルチーニ通りのアパートまでモーロを運んだ、と供述しています。しかし、朝の渋滞時間に誰にも見られることなく、車を交換しながら逃げた、というこの供述もいたって不自然で、実は、現場のすぐ傍にあるマッシミ通りのヴァチカン所有の建物内に、諜報の支援を得て、いったんモーロとともに滞在したのではないか、という言説が後を断ちません。
レオナルド・シャーシャは、モーロが誘拐された55日間、ローマで6296ヶ所(全国で72460ヶ所)が封鎖され、6933件(全国で6413713件)が家宅捜査され、167409人(全国では6413713人)が監視下に置かれ、96572件(全国で3383123件)の車が捜査され、150人逮捕され、400人が勾留されたことに触れ、このオペレーションのために、毎日ローマに4300人(全国で13000人)の警官、カラビニエリが動員され、大仰な捜査が行われたことを、まったく意味がなく、間違っていたと糾弾しました。
モーロ事件が起こった日は、ローマだけではなく、イタリア全国、シチリアからヴァッレ・ダオスタまで、何が目的なのか判然としないまま道路が封鎖され、しかも、ローマに4300人もの警官、カラビニエリを動員したにも関わらず、尾行調査ができるエージェントをリクエストした警察には、たったの12人ほどしか増員がなかったそうです。当時、ローマの検察局長であった大佐の「あの時のオペレーションは大捜査というよりも、パレードだった」という発言にも、シャーシャは触れています。
そしてこの、「パレード」と表現された、まったく効果がなかったそのオペレーションはつまり、『旅団』に見せつけるためではなく、事件を強調し、新聞、TV、ラジオというメディアで拡散するためだった、と言うのです。
11:30分には、内務大臣フランチェスコ・コッシーガの采配のもと、防衛省、警察、軍部安全保障諜報Sisde,、Sismiなどの幹部が招集され、内務省内に事件を解決するための、件のタスクフォース(Comitato politico-tecnico-operativo)が、P2メンバーで構成されましたが、今までアンチテロリストのエキスパートとしてテロリストの捜査に関わっていたメンバーたちは、その時すべて排除されたことに、多くの人々が疑問に感じた、と答えています。
なお、このタスクフォースに米国から招かれたのが、日本の連合赤軍を含む極左国際テロリストによる誘拐事件に関わった経緯がある、当時アンチテロリストのエキスパートであり、のちにベストセラー作家ともなった、優れたストーリーテラーのスティーブ・ピチェーニックでした。
夕刻、コッシーガは22人のテロリストたちの手配写真をメディアに公表しますが、そのうちの2人はすでに収監されており、ひとりはフランスの住人(ここで唐突に現れるのが『ヒペリオン』校長フランソワ・トゥッシャーの夫、サルヴォーニ・イノチェンツォの写真です)、もうひとりは何も関係のない人物だったそうで、早速捜査を撹乱しています。
事件の1時間後には、イタリア最大の労働組合CIGLがストライキに入ると同時に、断固としてテロを糾弾する大集会を開き、ローマの街中に『イタリア共産党』の赤い旗と『キリスト教民主党』の白い旗が同時に舞ったそうです。『歴史的妥協』が決定したのちも、常に反目しあっていた、『イタリア共産党』と『キリスト教民主党』の支持者は、皮肉なことに『モーロ事件』を通じて、はじめて団結することになりました。
同時に、ローマ大学サピエンツァでは、『旅団』を支持する学生たちが100人ほど集まって、シャンパンを開けて祝杯を交わしています。
夕刻、アンドレオッティは、『イタリア共産党』を含む過半数を得て政権を樹立させ、テロリストとの交渉には一切応じないFermezza(断固とした拒絶)における一致団結を確認しました。しかしRaiのニュースで報じられた、この『断固とした拒絶』は閣僚の賛意を得ないまま、アンドレオッティ首相の、ほぼ独断で発表されたものでした。
そして残念ながら、この『歴史的妥協』は、事件が終わった後、レオーネ大統領の辞任とともに、事実上崩壊することになります。
To be continued…..その後のイタリアを変えた55日間