事件前夜
ファーニ通りで「モーロ誘拐事件」が起こる直前、『イタリア共産党』が戦後はじめて(正確には戦後から1948年まで続いた大連立政府以来)、政府の信任投票で賛意を示す1978年3月16日の『歴史的妥協』を控え、社会には期待とともに、『キリスト教民主党』を支持する保守派、『イタリア共産党』を支持する急進派の間には、不信感、激しい対立による緊張が高まっていました。それでも合意が成立し、状況に慣れることで、その敵対が少しずつ解消されれば、市民の73%の支持を得る、安定した政府が樹立する予定でした。
しかし問題は国内の緊張よりむしろ、連合国からの反意であり、1月12日には、ワシントンから「われわれは欧州の国政にコミュニストが参加することには、まったく賛成できない」とオフィシャルに遺憾が表明されることになります。そしてその翌日の13日には、なぜか諜報機関、Sismi(軍部諜報局)、Sisde(内務省諜報局)の幹部が、コッシーガ内務大臣の腹心である人物に総入れ替えとなりました。
なお前述したように、その時に任命された諜報局幹部たちが、『モーロ事件』のタスクフォース(Comitato poritico-tecnico-operativo)を担う、のちに発覚した『秘密結社ロッジャP2』のメンバーでもありますが、このタスクフォースは国家が運営していたにも関わらず、議事録は結成時のみ、とたったひとつしか残していないそうです(セルジォ・フラミンニ)。
また、モーロが教授をしていたローマ大学サピエンツァには、学生としてKGBのスパイが潜入していたことが判明しており、その人物は事件の当日に、ふわっと消えることになります。そのスパイの身分証明書は、のちに検察官フェルディナンド・インポシマートの著書で明らかにされることになりました。
さらにはベイルートに駐在していた、モーロと親しかったSisde(軍部諜報局)の大佐、ステファノ・ジョバンノーネが、事件の1ヶ月前から、「最重要である政治家を狙った、『赤い旅団』及び国際テログループの攻撃予定がある」と注意を喚起していたことに、2017年、『政府議会事件調査委員会』の委員長ジュゼッペ・フィオローニが言及しています。
ジョバンノーネはパレスティーナと強い繋がりを持ち、ローマのPFLPメンバーから密に連絡を受ける、国際テロ情報を熟知する中東エキスパートでしたから、信憑性の高い情報でしたが、イタリア当局は具体的な対策をとってはいないうえ、この情報を受け、機密文書を廃棄しなかったカラビニエリの大佐が自殺(暗殺?)するという事件も起こっています(ジェーロ・グラッシ)。このときパレスティーナ側は、モーロと交わした密約「ロード・モーロ」を維持するためにも、モーロの身柄を保護する意図があったようです。
ところで、レオナルド・シャーシャの82年のレポートには、この頃からモーロの周囲には緊張が高まっていたことが明らかにされています。モーロの運転手であったカラビニエリのドメニコ・リッチ、そして警護責任者のオレステ・レオナルディは、その心配を家族にたびたび話していたそうで、尾行されることが多くなったレオナルディは、事件の前には痩せるほどに心配し、「以前とはまったく違う状態だ」と夫人に漏らしていたそうです。その状況を、たびたび上司に相談していましたが、その上司は相談を無視し続けました。
モーロ夫人も、「警護を担う若者たちには、特別な訓練ができておらず、軽機関銃は車のトランクに入れたままで、咄嗟の攻撃には対応できなかった。警護に関しては、いつも議論されていて、訓練を受けた人材を警護に加えるべきだということを何ヶ月も話し合っていた」と証言しています。
防弾車に関しては、以前からモーロがリクエストしていたにも関わらず、一向に届く気配はなく、一方、ジュリオ・アンドレオッティの車はすでに防弾が施されていたそうです。
事件前夜には、サヴォイア通りにあるモーロの個人事務所に、警察幹部、検察官、Digos(特殊警察)幹部ドメニコ・スピネッラが訪ねており、3月17日(事件の次の日)から、さらに警備を厳重にすることを、モーロに約束しています。
なお、ここで大きな疑問として強調しておきたいのは、16日の朝、前日にモーロを訪れて警護の強化を約束したDigos幹部、スピネッラが、事件現場に9:20にはすでに到着していたことでしょうか。当局に事件が報告されたのは、どんなに早くとも9:05より以前ではないはずですが、Digos幹部はその朝、8.8km離れた場所にいて、しかも交通量が多い渋滞の時間、そんな短時間に現場に急行することは、どう考えても不可能にも関わらず、誰よりも早く現場に到着しています。
この疑問に関しては、2017年の『政府議会事件調査委員会』で、「スピネッラの要請で、われわれはすでに8:40から8:45あたりに、トリオンファーレ(ファーニ通り方面)に向かって出発した」と、スピネッラの当時の運転手が証言することになりました。ファーニ通りの急襲は9:02に起こっていますから、その時間にはもちろん、まだ何ひとつ事件の予兆はありませんでした。(マルコ・ダミラーノ)。
ちなみにスピネッラは、「モーロを安心させるために自宅へ行くつもりだった」という理由でトリオンファーレ方面に向かった、ということですが、モーロは毎朝教会に礼拝に出かけますから(事件当日は教会へは寄っていませんが)、8時40分に出発しても、モーロはすでに家にいないことは分かりきったことでもありました。
つまり、最もシンプルに考えるならば、ジョヴァンノーネの注意喚起ののち、攻撃に備えた武器が使える特殊訓練を受けた警護官を加え、ただちに防弾車が用意されていたならば、イタリアの歴史を変えてしまうような、こんな衝撃的な悲劇は起こらなかった、ということです。モーロが使用していたエレガントなフィアット130 blueはたった120秒の間に蜂の巣になっています。
また、『イタリア共産党』のエンリコ・ベルリンゲルも、イタリア独自の融和路線に軌道を修正し、『キリスト教民主党』政権に近づいたことで、米国だけではなく、ソ連からも危険人物と目されていました。
1973年にはブルガリアのソフィアで暗殺未遂と考えられる自動車事故に巻き込まれ、その際、運転手と通訳が亡くなり、ベルリンゲルは奇跡的に一命を取り止めます。その場で病院に運び込まれそうになりましたが、当時の東欧の病院が、一種の「墓場」控室であることをよく知っているベルリンゲルは、ソフィアでの入院を拒み、外務大臣であるモーロに直接国有機を要請。そのままイタリアへ戻っています。この自動車事故の一件は、現在でも事故説、暗殺説と意見が分かれますが、このような事件もあった、ということを記しておきたいと思います。
戦後30年にわたり、長期政権を担っていた、その頃の『キリスト教民主党』内部は、政治システムが錆びつき、右、中央、左と分裂して、互いが互いを憎み合うような状況でもあったそうです。モーロが『イタリア共産党』との連立政府をデザインしたのは、自らが率いるその政党に生命を与え、『イタリア共産党』をさらに民主主義システムに近づけながら、まず第一に、市民の主権を守るためでもありました。『歴史的妥協』は、経済的にも、心理的にもエマージェンシーだった、当時のイタリア社会にとっては、どうしても必要な平和的再構成だったのです。
マルコ・ダミラーノによると、『歴史的妥協』政権の首相として、閣僚を率いることになったジュリオ・アンドレオッティは「モーロに、わたしは閣外でも閣内でもいいので、あなたが首相をしてくださいと何度も言ったが、断固として拒否された。閣外にいた方が、貴重な支援ができたと思うのだが」と1978年、3月6日の日記に綴っているそうです。しかしモーロは、米国を安心させるためには、親米派であるアンドレオッティこそが適任である、と考えていたわけです。
他方、『歴史的妥協』政府の閣僚リストを見た『イタリア共産党』の議員たちには、その顔ぶれが、前政府からまったくイノベーションされていないことに「エリートによる少数独裁政治になるのではないか」との不満が渦巻き、「われわれはもちろん、有権者たちも許すはずがない」と造反が起こりそうな雲行きとなっています。『イタリア共産党』最後の書記長となったアキーレ・オッケットも、2018年のインタビューで、「賛成票を投じない予定であった」ことを明かしていました。誰もが、最後の最後に騙し討ちにあうことを警戒していたのです。
他に例のない、冷戦下における『イタリア共産党』の外部政権参画(Appoggio esterno)という『歴史的妥協』を前に、騒然とした状況下、最後の自由な1日となった3月15日、モーロはサヴォイア通りの個人事務所で、1ヶ月前、極秘で約束を取り交わしたベルリンゲルと連絡を取り合い、さらには不穏な空気に包まれる『イタリア共産党』幹部に、その合意を保証することを誠実に約束し、16日の信任投票が無事に通過するよう、全力を尽くしています。
▶︎3月16日 9時2分