明かされても、ミステリーであり続ける秘密
ところで、一般的な「背景論ー陰謀論」に関して言えば、さまざまな事象に絡んで、日常的にSNSに流れてくる、裏付けがなく、あるいはあったとしても、それが信頼に値するとは思われない情報源の場合は、どんなにまことしやかに構築された「陰謀論」であっても、信用すべきではない、と考えます。ウンベルト・エーコが亡くなるまで言い続けた、ネット上に溢れ、繰り返し語られる、脅威的な「ミステリー」としての偽の情報(虚構)は、権力が人心を撹乱し、誘導するための手段になりうる、というロジックに共鳴するからです。
そのウンベルト・エーコは、2015年にラ・レプッブリカ紙に寄稿した記事で、「本物の謀略は、謎のままに残ることなく、たちまちのうちに暴かれる」と定義しました。その例として、ジュリアス・シーザーの暗殺、フェリーチェ・オルシーニのナポレオン3世の暗殺未遂とともに、1970年のイタリアで企てられたユニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼのクーデター未遂、そして1982年にリーチョ・ジェッリの邸宅で発見された、『秘密結社ロッジャP2』のメンバーリスト(962人)を挙げています。
しかしながら、意外なことに『モーロ事件』に関しては、『旅団』の背後に『Grande Vecchio(黒幕)』がいることを語り続ける人々を、エーコは批判的に論じてもいるのです。これはおそらく、司法で判決が出ているにも関わらず、何十年にも渡ってリサーチが続くことには発展性がない、とエーコが見なしているからでしょうし、『モーロ事件』に深く関わったとされる『秘密結社ロッジャP2』や、国内外の諜報が、そもそも本人たちが進んで真実を明かすことのない秘密組織であり、その、明かされることがないであろう秘密を追い続けることは徒労である、という意図かもしれません。
ただし、ロッジャP2の支配者であったリーチォ・ジェッリは、意外と秘密主義でもなく、亡くなる数年前のイギリスメディアのインタビューで、遺言ともいうべき『モーロ事件』に関する多くの暗示を残しています。晩年のジェッリは、国内外の政治経済権力による謀略の中枢に存在し、指揮をとった自らの人生をハリウッドに売り込みたい、と考えていたそうで、モーロがデザインした『歴史的妥協』に関して、強い反意を明かし、『モーロ事件』を巡る、それこそ「背景論ー陰謀論」をフィクションに仕立てた映画、『Piazza delle cinque lune(5つ月広場)』に、好意的に言及していることは、興味深いことです。
※2003年公開の『Piazza delle cinque Lune 』は背景論としての謀略でストーリーが展開されます。レンツォ・マルティネッリ監督、ドナルド・サザーランド主演。
さて、2021年の段階で「もはや何ひとつ謎はない」と言われる『フォンターナ広場爆破事件』同様、『モーロ事件』の各シーンの詳細も、ほぼ明らかになっている、と考えてもいいかもしれません。「この事件にはミステリーはない。あるのは秘密だけだ」とも言われますが、謎だと思われていた背景は堂々と語られ、知ろうと思えば、誰でもアクセスできる膨大な資料が残されているにも関わらず、真実は相変わらず秘密のまま、時の向こうに置き去りにされたままです。しかも、その各シーンの詳細をひとつに繋ぐ糸は、肝心なところでプツンと切れてしまう。
現在、司法の場において、オフィシャルとされる事件の再構成は、79年、まず最初に逮捕された『赤い旅団』のメンバー、ヴァレリオ・モルッチ、アドリアーナ・ファランダ(CIA、モサドとも付き合いがあったKGBの元スパイの教授の娘の家で、自首とも思われる不自然な経緯で逮捕)の自白が元になっています。その自白は、『キリスト教民主党』の機関紙、イル・ポポロ紙主幹の協力で、獄中で書かれた『メモリアル・モルッチ』と呼ばれる300ページほどの原稿が元となっていますが、さまざまな状況証拠と齟齬を起こすうえ、モルッチの供述記録を聴くと、最も重要なシーンの事実関係を尋ねられると「覚えていない。記憶にない。分からない」を繰り返しているのです。
そのモルッチを含め、ほとんどの『旅団』主要メンバーたちが何冊もの本を出版しており、「弱者のために」、と多国籍資本による帝国主義に支配された国家を転覆することを企てた若者たちが、自らの思いを饒舌に語る、それぞれの革命物語は、その専制指向、暴力性を強く否定したとしても、それなりにドラマチックです。しかしその、一種ロマンティックで南米の小説を彷彿ともさせる情緒的な感性は、『モーロ事件』の精度、完成度、残虐性とかけ離れすぎています。
レオナルド・シャーシャは、事件のわずか3ヶ月後に脱稿した『Affaire Moro(モーロ事件)』で、「自虐ではあるが、(わたしは)すべてが正確で、時間通り(に動く)、効率的なイタリア人を知らない。正確さ、几帳面さ、効率性は、一般的なイタリア人にとっては関係ない、あるいは価値のない、異質の、あるいは何かを保護するための異民族の性質と見なされている」と書きました。
「機能しない研究所、ひどい扱いを受ける、あるいはベッドが足りない病院、遅れる汽車、離陸しない飛行機、実現しないフェスタ。『これがコーザ・ノストラ(われわれなのだ)!』と叫ばれることになる。にも関わらず、少なくともたったひとつ機能する『コーザ・ノストラ』があり、いまやこの別称的な『コーザ・ノストラ』に(注意が)向けられるわけだ」(中略)
「『赤い旅団』は、完璧に機能する。しかし(ここでは、「しかし」が必要だ)彼らはイタリア人なのだ。これは7つの革命を遂行するか、諜報や外国の援助で成し得ることができる、コーザ・ノストラ(われわれの事件)でもある。また、個々人の付き合いはともかく、より伝統的で、効率的な、もうひとつの『コーザ・ノストラ』との(事件の)関係性における疑惑を深めたいわけではないが、このふたつには類似点がある」と、マフィアと『赤い旅団』の類似点をも指摘しています。
現代では、『モーロ事件』に、まさにマフィアの介入が存在していた可能性が、ほぼ明らかになっていますから、シャーシャの直感的分析には驚嘆するより他ありません。
なお、それぞれのシーンにおける詳細は調べ上げられてはいても、それらをひとつに紡ぐ糸が曖昧なことから、気持ちよく、すっきりとしたシナリオの物語が形成されることはありません。研究者やジャーナリスト、歴史家たちが、それぞれに「こうではないのか」、と、有力な証拠、証言を集めて、ひとつの流れを形成したとしても、それらはやはり、すべて可能性、あるいは仮説でしかなく、『赤い旅団』のメンバーが自白を翻す、あるいはフランスに逃亡中だったメンバーが、突如としてその経緯を語らなければ、真実とはならないのです。
そういうわけで、事件を追いかける多くの人々が、「Io so. Ma non ho le proveー僕は知っている。しかし確証がないのだ」と、1974年11月14日に、ピエール・パオロ・パソリーニがコリエレ・デッラ・セーラ紙に書いた「このクーデターが何なのか、僕は知っている」という、あまりにも有名な記事の言葉を引用します。
そして、パソリーニが「知っている」と書いた、そのクーデターこそが、ウンベルト・エーコが「たちまちに暴かれる陰謀」と定義した、イタリア軍部森林警備隊の支援を受け、ユニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼが率いる極右武装グループ「Xmas」が核となり、イタリア国営放送Raiを占拠。あわや「クーデター成立」寸前に、闇の中からストップがかかったクーデター未遂事件のことでした。
余談ですが、パソリーニが記事で言及した、グラディオ作戦下における無差別大規模爆発テロの黒幕のひとりとされ、裁判ともなった(無罪)SID(防衛省諜報局)の局長、ヴィート・ミチェッリ(P2メンバー)は、1974年の段階で「これからは極左グループがテロの中心となるだろう」と語っていたそうです。
▶︎『モーロ事件』の背景に蠢くもの