パソリーニの『蛍の記事』とシャーシャの『Todo Modo』
では、その時代の左派知識人たちの目にアルド・モーロはどう映っていたのか、と言えば、残念ながら、その多くが批判的なものばかりです。
というのも、マーシャルプランの恩恵を受け、「奇跡」と呼ばれる復興が進んだ戦後のイタリアの政治を担った『キリスト教民主党』は、確かに都市部を裕福にはしましたが、富が行き渡らなかったイタリア南部、都市部周辺の郊外に、甚だしい貧困を生むことにもなり、社会には不満が渦巻いていたからです。
この時代、南イタリアから仕事を求めて都市部へと移民する人々は、ボルガータと呼ばれる郊外の新興地で不法バラックに住まざるを得ず、非正規労働でようやく食いつなぐという状況でした。
国内の産業化が進み、貧富の差がいよいよ開いた69年には、不定期採用の工場労働者、農民、失業者たちが自らの権利と保障を求め、68年(フランスの5月と同時)にイタリア全国に巻き起こった学生運動と共闘し、「多国籍企業による、米国型資本主義経済に占領された」社会を破壊する『革命』を目指す「熱い秋」が勃発します。
78年の『アルド・モーロ事件』の実行犯となる『赤い旅団』も、この学生運動から生まれるわけですが、イタリア共和国建国の経緯同様、彼らの思想もまた、パルチザンのレジスタンスの流れを汲んでいるという事実は興味深いことです。実際、この時代の学生運動のモデルは、野山を駆け巡ってファシストと闘った、荒くれたパルチザンたちであり、フィデル・カストロやチェ・ゲバラとも親交があったジャンジャコモ・フェルトリネッリという、若き日にレジスタンスに加わった大富豪が、学生たちを資金面でも精神面でも支えるパトロンでもありました。
なお、イタリアには基本、共産主義に負のイメージはなく(右派を支持する人々はともかく)、時代とともに消滅した『イタリア共産党』に並々ならないノスタルジーを抱き、アントニオ・グラムシ、そしてエンリコ・ベルリンゲルを英雄視する若者たちが、非常に多く存在することは注目すべきことです。
もっとも68年の学生運動の主人公たちは、『キリスト教民主党』のみならず、穏健路線へ向かった『イタリア共産党』までをも、ファシスト、右翼と捉える極端な武装革命思想を持っていたわけですが、まったく庇うつもりはなく、その暴力性を強く否定したとしても、イタリア建国の流れや時代背景を鑑みたうえで、「あまりに不平等で不正に満ちた社会を破壊し、再構築したい」という欲動に駆られた10代、20代の青年たちの想い、そのユートピア幻想を理解できないでもありません。
一方、その68年の学生運動を「中産階級の子供たちの革命ごっこ」と手厳しく批判したピエール・パオロ・パソリーニは、1975年、自身の殺害事件の9ヶ月前、コリエレ・デッラ・セーラ紙に「権力の空洞化、すなわち蛍の記事」と題された、まさにその時代の政治を分析した記事を書いています。
その記事でパソリーニは、『キリスト教民主党』を「戦後10年間、純粋に、そして単純にファシズム体制を持続させた」とし、それから「何か」が変わり、その後「完全に新しい何かが生まれた」、「60年代はじめから、水の汚染のせいで蛍が消えはじめ、それはあっという間の出来事だった。それから数年の間に蛍はすっかり消えてしまった。『何か』は10年前に起こったのだ。それを私は『蛍の喪失』と呼ぼう」と書きました。
パソリーニは、戦後から75年までの『キリスト教民主党』が政治を掌握した社会の状況を「蛍が消える前」、「蛍が消えつつある時代」、そして「蛍が消えた後」と分けて分析しているわけですが、「蛍が消える前」の『キリスト教民主党』による政治は、完全にファシズム時代の継続であると定義。そしてこの定義が、当時の左派知識人、そして学生たちと労働者に共有される『キリスト教民主党』への評価でもありました。
「教会、祖国、家族、服従、規律、秩序、節制、道徳」という、アルカイックなイタリアの農村の価値観を国の価値観とした、『キリスト教民主党』の「順応主義におけるエリートたちの田舎臭さ、無教養、無知は、ファシズム時代と同質である」とし、「蛍が消えつつある時代」は、イタリアの中に『イタリア共産党』が率いる労働者と農夫たちが、もうひとつの大きな国を創りはじめていた時代であったが、「前衛的で批判的な知識人でさえ、この時、蛍が消えつつあるのに気づいていなかった」と、パソリーニは言うのです。
そして、『イタリア共産党』率いる労働者たちが、イタリアに実現しなければならない、(産業の)発展による「よりよい生活」のために声を上げたその時代が、マルクスの『共産党宣言』を大量虐殺した「蛍が消えつつある時代」だと断言します。
つまり、この「蛍が消えつつある時代」は、アルド・モーロが『キリスト教民主党』のリーダーとして、63年〜68年の長期政権を率いていた時期、そして『イタリア共産党』が大きく躍進した時期と重なるということになります。さらにパソリーニはこの時期、『イタリア共産党』の議員たちの、まるでブルジョアのような振る舞いや言動、また69年以降、イタリアを襲った連続テロに、何の意思表示もしない状況を非難していました。
「蛍が消えた後」は、アルカイックな農村の価値観である「教会、祖国、家族、服従、規律、秩序、節制、道徳」の偽造はもはや意味のないものとなり、「農村や手工業とはまったく異なる新しい文明の価値観へと置き換えられた」と続き、60年代に強烈に進んだ産業化で、「少しの期間に、人々は滑稽で異様に、犯罪的になった」、「その人々を愛すべきだとは思うし、ー残念ながらー今までその人々を真剣に愛してきたが、人々の良識は消費され、取り返しがつかないほどに悪化している」と社会を痛烈に批判します。
『キリスト教民主党』の権力者たちは、「この数ヶ月の間に有権者が好みそうな、信用できない誠実さで、常に瞳を輝かせて微笑み、陽気に振るまうという、いかにも不吉に思えるマスクを被るようになり、行動することなく、ただ、だらだらと無駄話をするだけで、彼らはもはや骨と灰の塊と化している」と酷評。「今日のイタリアの現実は、権力の悲劇的な空洞化だ」と断じます。
産業化が進んで「蛍が消えた後」の『キリスト教民主党』は、『消費』に権力を奪われ、国民投票における『離婚法』(70年)の成立で敗北し(カトリックは本来離婚を認めていませんでしたから、完全な敗北です)、もはや何者でもなくなっている、とパソリーニは分析しているのです。
そして、ここではじめてパソリーニはアルド・モーロの名を出します。「権力者たち、特にアルド・モーロは完全に新しい表現(ラテン語のような理解できない表現)を使いはじめた。現在まで、とりあえず権力の座にいるモーロは、69年から今日まで(75年)オーガナイズされた、数々の酷い出来事すべてにはまったく関係がないように見えるが」と、直感的にモーロの立ち位置を見抜き、それでもパソリーニにとっては「謎めいた存在」であるモーロを含む『キリスト教民主党』全体を、まったく効力のない権力と捉えている。
つまりパソリーニは「蛍が消えた後」、イタリア中に産業化が進んだ10年というもの、顕在化されない真の権力は彼らなしで進行している、と政治不在を糾弾しているわけです。
その頃のパソリーニは、真のファシズムは『消費主義』であり、ファシストたちすら変えることができなかったイタリアの風景を、『消費主義』はあっという間に破壊した、と訴えてもいます。もちろん、戦後の短期間での産業化による、この環境破壊が、現在の地球温暖化にも通じる、熟考すべき歴史であることに、疑問の余地はないでしょう。
一方、レオナルド・シャーシャは、「パソリーニとともに、パソリーニのために」書いたという78年の『モーロ事件』の序文に、この「蛍の記事」を引用して、もはやこの世には存在しないパソリーニへのレスポンスとして、事件後明らかになった『キリスト教民主党』におけるモーロの存在とその動きを分析します(後述)。
そのシャーシャは、といえば、自らの同名の小説『Todo Modo』を、エリオ・ペトリ監督とともに1976年に映画化。共産主義を感染病と捉える(さらにはその時代に吹き荒れたテロリズムをも暗示)『キリスト教民主党』とアルド・モーロ、そして聖職者たちを、うしろ暗く、病的で、徹底的にグロテスクなストーリーで表現しました。その『Todo Modo』は、『アルド・モーロ事件』直後、まるで事件を予言していたようだと糾弾され、長期に渡って上映禁止となっています。
地下教会のカルトな儀式に集う、ダークスーツに身を包んだ権力者たちの秘密結社的な群れ(ロッジャP2をも彷彿とします)の、謎に満ちた相関関係と非人間性を描いた、その政治ノワールを観たのは、ごく最近のことですが、パソリーニの映画監督デビューとなった『アッカットーネ』で、ルンペンプロレタリアートの青年を演じたフランコ・チッティが、ストーリーの重要な役柄を演じたことにも、時代のメッセージを見出しました。延々と続く、不安と苦悶と血みどろのシーンに「これはひどい」と思いながらも、『キリスト教民主党』を巡る、左派知識人の怨念を、何となく理解できたように思います。
なお、シャーシャが「死の世紀」、「シロッコの世紀」と呼ぶ、テロの嵐がイタリアに吹き荒れた『鉛の時代』、真相はいまだ闇の中でも、当時の左派知識人、若者たちは、当局、すなわち『キリスト教民主党』の関与を深く疑っていました。そのような時代に、政党の中枢にあり、象徴的な役割を担い続けたアルド・モーロが、矢面に立たされ批判を浴びる対象となったのは、ある意味、しかたがなかったのかもしれません。それに、まだこのときは、『モーロ事件』の予兆は何ひとつなかったのです。
マルコ・ダミラーノによると、シャーシャは『Todo Modo』の制作について、「70年代、戦後30年もの間、政権の座に居座る、滑稽で収賄に満ちた政党が国であるかのような状況を破壊したいという欲動に突き動かされた。カタルシスとしての表現であった」と語っていたそうです。
いずれにしても、シャーシャは『モーロ事件』ののち、「アルド・モーロが人生を変えた」とまで言っており、『Todo Modo』の原作者としての責任を感じ、事件を徹底的に、正確に分析しています。そして『キリスト教民主党』を、あれほど暴力的な表現で糾弾したシャーシャが、事件が起こった際、モーロの「友達」であるはずの同僚政治家たちの誰よりも、モーロの尊厳を守り、人間的な、そしてどのメディアより、卓越した視線で経緯を捉えることになるわけです。
また、証拠が何もないままに想像をたくましくすることが許されるならば、ー『モーロ事件』が巷間で断言され続けるように、プランニングされた事件であると仮定してーそのテーマである「滅びゆくべき古い権力」をモデルにプランされたのかもしれない、と思うほど、『Todo Modo』の抽象性は、事件の経緯を彷彿とさせます。
さらに、やはり何の証拠もないままに、想像をさらに逞しくすることが許されるならば、パルチザンである『ガリバルディ旅団』がムッソリーニを人民裁判にかけて『死刑』に処した、イタリア解放のきっかけとなったイベントを、パルチザンをモデルとして形成された『赤い旅団』に踏襲させるプランが練られたのかもしれない、とも、ふと考えました。
ただしアルド・モーロが、ファシストとは真逆の考えを持つ人物だったことを、時代はまだ、まったく理解していませんでした。
※『Todo Modo』の一場面。トレイラーはこちらから。
▶︎時代を覆う不安に共鳴したパソリーニとモーロ