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『鉛の時代』国家の心臓部へとターゲットを変えた『赤い旅団』と謀略のメカニズム

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☆検察官マリオ・ソッシ誘拐事件

74年の5月、『赤い旅団』は78年の『アルド・モーロ事件』の布石ともなる、ジェノバの検察官『マリオ・ソッシ誘拐事件』を起こしています。この事件は、フランチェスキーニが核となったアクションで、73年にアナーキストグループ『10月22日』グループが起こした殺人事件に『無期懲役』の判決を下したマリオ・ソッシを誘拐、アナーキストたちの解放を要求するというものでした。フランチェスキーニは、この事件は明らかに『アルド・モーロ事件』のモデルであり、このケースの詳細を調べることは、『モーロ事件』の全容を突き詰めることに役にたつはずだ、とも言っています。

また、この『マリオ・ソッシ誘拐事件』は、今まで工場労働者の敵であった資本家から、検察官という国家機構の一端を担う人物へと、テロのターゲットが明らかに大きく変化した誘拐事件でもあります。のち、誘拐に関わった『旅団』のメンバー18人は全て身元が明らかになり、逮捕され裁判にかけられていますが、フランチェスコ・マッラというミラノの魚屋という触れ込みだったメンバーだけは、この時まったく名前が出ることがありませんでした。フランチェスキーニによると、このマッラという青年は、武器の扱いがプロ並みで、テロリストとしては非常に優秀だったそうで、ガンビザッツィオーネという、足を狙って一気に何発も銃を撃つと被弾者が一生歩けなくなる、という残酷なテクニックをメンバーに教えています。

フランチェスキーニは長い間、このマッラだけが身元が割れなかったことを不思議に思っていましたが、自らの裁判のためにあれこれと資料を読むうちに、誘拐事件のメンバーだったアルフレド・ブオナヴィータが、マリオ・モレッティはソッシの誘拐に何も関わっていないというのに、マッラが担ったパートの部分を「モレッティがやった」、と自供している箇所を見つけ、奇妙に思った、と言います。「ブオナヴィータは何かを知っていて、マッラをかばいたかったのでは? あるいはかばわなければならない事情があったのでは?」と、咄嗟に思ったそうです。

その、魚屋であるはずのフランチェスコ・マッラの正体が判明したのは、98年の別の事件での取り調べの時でした。彼はそもそも内務省の諜報として、長期に渡って『赤い旅団』に潜入していたカラビニエリで、パラシュート部隊の一員だったのです。マッラ本人はといえば、フランチェスキーニに、その事実を糾弾されたあと、「自分はフランチェスキーニのことは知ってはいたが、『赤い旅団』に潜入していたことはない」、と、わざわざラジオ番組に出演して語っています。マッラはその後、『イタリア共産党』上院議員らの調査に基づき、カラビニエリ大佐やフランチェスキーニが証人となり『赤い旅団潜入』で裁判にかけられることになりましたが、2001年に無罪の判決が出ています。

いずれにしても、ソッシを誘拐していた34日間、『赤い旅団』のメンバーは意外にも、毎日彼のために料理をして、まるで仲間のように家族的に、手厚く扱っています。ソッシは自分の命を守るために『』が『旅団』の要求を呑んでアナーキストたちを解放し、自分が監禁されている『人民刑務所』と呼ばれるアパートを探すのをやめて欲しいと願い、妻や弁護士に手紙を書くうちに、やがて『旅団』のメンバーに協力しはじめ、知っているすべての事情を告白するようになりました。

そうこうするうちに、アレッサンドリアの刑務所で突如として暴動が起こり、犯人と人質にとった全員7人が銃殺される、という事件が報道されます。もちろん、この事件は『赤い旅団』とは何ら関係のない事件でしたが、「監禁されている場所さえ分かれば、お前たちもこうなるのだ」というメッセージだとメンバーたちは感じたそうです。

事実、これはその後長期に渡って、カラビニエリ・アンチテロリズム部隊の核となり、『赤い旅団』壊滅の総指揮を執るカルロ・アルベルト・ダッラ・キエザ大佐が企てた刑務所暴動で、『赤い旅団』、そして人質であるソッシへの『死刑宣告メッセージでもありました。ソッシもまた、そのメッセージを瞬時に理解しています。ダッラ・キエザ大佐はのちに不幸な結末を迎える、『秘密結社ロッジャP2リストに名前が上がっていた人物ですが、このダッラ・キエザ大佐については後の項でも触れることになると思います。

正確なこの事件の背景は、ヴィート・ミチェリ(70年の黒い君主、ボルゲーゼのクーデター計画、ネオファシスト・テログループ『薔薇の風』との関係から74年に逮捕された軍部諜報SIDの幹部)が、アデリオ・マレッティ(『フォンターナ広場事件』をはじめ『緊張作戦』における極右テロの背景に暗躍したSID、カウンター諜報部D所属)に、カラビニエリとともにアジトに乗り込んで、ソッシもろとも『赤い旅団』の皆殺しを指示していたのだそうです。

というのも、ソッシという検察官は、SIDの内情に通じており、ヴィート・ミチェリはその秘密を喋られることを阻止しようとしたわけですが、ソッシ及び『赤い旅団』のメンバーたちは「僕らは同じ船に乗っている。皆殺しになるか、全員助かるかのいずれかだ」と話し合い、共に解決策を練って行くことになります。ソッシは自分が軍部諜報SIDに関わっていることを『赤い旅団』に告白。また、SID幹部のふたりの大佐が、アフリカの国々と通じ、武器とダイアモンドの取引をしていることを明らかにし、その取引には警察署長が加わっていると、洗いざらい『赤い旅団』に話しています。

また、ソッシの身柄との交換とした、受刑者『10月22日』グループのアナーキストたちの釈放要求は、『キリスト教民主党』のコラード・コルギが仲介し、ヴァチカンを通じて行われたそうです。アナーキストたちは「釈放されたならばキューバへ亡命したい」と強く希望していました。しかしながらフランチェスキーニは、この時カストロにひどく失望し、キューバ神話を打ち砕かれた、と語ります。というのもカストロは、青年たちの受け入れを承諾する交換条件として、フィアットのトラクターが50台必要だ、と要求してきたのです。キューバ社会主義国は、革命闘士の亡命受け入れに、タダでは応じませんでした。

こうして、交渉はほとんどうまく進むかに思えたのですが、担当の検察官であるフランチェスコ・ココがアナーキストたちの釈放に大反対し、交渉を阻止、結局取引は失敗に終わります。取引の失敗が明らかになり、『旅団』ではソッシを解放するか、それとも『死刑』にするか議論となり、マリオ・モレッティは「殺すべきだ」と一貫して主張しましたが、クルチョもフランチェスキーニも「人質」とはいえ、しばらくの間でも寝食を共にしたソッシに手をかけることができず、捜査のヘリコプターの音が近づいてきた際、慌ててソッシを解放することになりました。

 

☆ブレーシャで起こったデッラ・ロッジャ広場の爆発

5月22日に解放されたマリオ・ソッシ事件の6日後の5月28日、ブレーシャではデッラ・ロッジャ広場爆破事件が起こっています。この事件は2018年現在、いまだ裁判が続いている爆破事件で、デッラ・ロッジャ広場で行われた労働組合の集会に爆弾が仕掛けられ、8人が死亡、100人が重軽傷を負う、という極右グループが関与したテロでした。この事件に関しても、前述した、『ペテアーノ・カラビニエリ事件』「を起こしたヴィンチェンツォ・ヴィンチグエッラが、『デッラ・ロッジャ広場爆破事件』の主犯カルロ・マリア・マッジ、実行犯デルフォ・ゾルジらについて詳細を語っています。

6月には、パドヴァで『赤い旅団』による、はじめての殺人がMSI(イタリア社会運動)のオフィス襲撃で起こっています。犠牲者はMSIの支持者である企業家グラツィアーノ・ジラルッチと、元カラビニエリでMSIに加盟しようと訪れていた年金受給者、ジュゼッペ・マッツォーラでした。『旅団』のスザンナ・ロンコーニという女性闘士と、フランチェスキーニ、ガリナーリと同郷のエミリア・ロマーニャ出身のロベルト・オンニベーネの犯行でした。

8月には、ボローニャの地方都市サン・ベネデット・ヴァル・ディ・サンドロで列車が爆発12人が死亡、48人が重軽傷を負う惨事となりました。これは『秘密結社ロッジャP2』から資金を得た極右グループが企てた事件で、俗に『イタルクス事件』と呼ばれます。この汽車に乗っていたアルド・モーロ元首相が秘書から「重要書類のサイン」を理由に呼び戻され、ローマの次の駅で下車したことで、爆発に巻き込まれなかった、という経緯があり、その背景が調べ尽くされた事件です。

このように、毎月毎週、極右、極左ともにテロの応酬が続き、緊張が高まる74年の9月、ついに『赤い旅団』の創設者であり執行幹部、レナート・クルチョ、アルベルト・フランチェスキーニが逮捕されることになります。それもアンチテロリスト部隊長のアルベルト・ダッラ・キエザ大佐が、少し前から『旅団』に潜入させていたスパイ、南米の革命シーンで活躍した伝説の闘士シルヴァーノ・ジロットー(通称:フラーテ・ミトラ-軽機関銃修道士)と、『赤い旅団』が会う約束をした場所で、警察に取り押さえられる、というものでした。

クルチョ、フランチェスキーニ、そしてモレッティは、それまで「伝説の」フラーテ・ミトラ、ジロットーと何回か会い、写真まで一緒に撮って『仲間』だと信頼していましたが、ジロットーはといえば「クルチョとフランチェスキーニがやっているのは革命遊び。もっと真剣にやらねばならない」などと言っていたそうです。いずれにしても逮捕の日、モレッティにだけはなぜか「危険だから、待ち合わせには行くな」という、誰からか判然とはしない電話があったと仲間から伝言があり、モレッティはそれを、クルチョにもフランチェスキーニにも伝えてはいませんでした。また、ジロットーと一緒に撮った写真は、モレッティが写っている箇所だけ削られていたそうです。

一方、クルチョとフランチェスキーニの逮捕時の事情に関して、マリオ・モレッティは、仲間のひとりが警告の電話を受けたので、急いでクルチョがいるはずの場所まで、その仲間とともに伝えに行ったが、玄関を叩いても返事がなかったと言っています。そのまま朝方まで家の前で待ったが、クルチョはその日予定を変えたのか、結局その場所にやってくることはなく伝えられなかった、と非常に残念そうな素振りをも見せているのです。

「フランチェスキーニが、ひとりだけ約束の場所に現れなかったモレッティを糾弾しているが、どう思うか」、と、マニフェスト紙のロッサーナ・ロッサンダに質問されると、「あの日、フランチェスキーニはローマに行くはずで、クルチョと一緒に車に乗ってジロットーに会いに行く予定ではなかった。誰も彼にそうしろ、とは言ってないからね。ローマに行かずにトリノに行くとは・・・。『赤い旅団』は個人の行動をリスペクトするが、ローマに行くはずの彼が、なぜ800キロも離れたトリノに行ったのか、説明すべきだよ」とモレッティは答えています。

モレッティは、『赤い旅団』を脱退した改悛者であるフランチェスキーニだけがたったひとり、自分を糾弾している、とも苦々しそうに話していますが、モレッティとフランチェスキーニは、そもそも互いが互いをあまりよく思っていなかったのかもしれません。いずれにしても、この時点でのモレッティへのフランチェスキーニの不信は、個人的な感情を巡る「思い過ごし」、と考えられるかもしれませんが、『アルド・モーロ事件』の詳細を見るうちに、モレッティを巡る説明のつかない状況、明らかな嘘、出来すぎたストーリー展開から、おそらくフランチェスキーニの当時の勘は正しいのではないか、とわたしは推測します。レナート・クルチョも逮捕されたのち、「モレッティはスパイだったね」と呟いたそうです。

シミオーニ、スーパークランからヒペリオンへ

さて、この年にはもうひとつ、『赤い旅団』の背景に蠢く怪しい事実が明らかになります。

フランチェスキーニとマラ・カゴールが、エドガルド・ソーニョの事務所に忍び込んで書類を物色していた時のことです。ソーニョは軍部クーデター計画の影には必ず存在する、君主専制主義パルチザン出身のファシストで、グラディオの隠れた立役者でもあります。物色中、突然マラ・カゴールが、「あれ?」と声をあげるので、フランチェスキーニが覗き込んだところ、エドガルド・ソーニョがロベルト・ドッティの葬儀書類にサインしているのを見つけて仰天します。

『赤い旅団』創世期、いまだコラード・シミオーニがDeus ex machina (デウス・エクス・マキナーギリシャ悲劇の機械仕掛けの神) であった頃、シミオーニは自身が秘密裏に構成した精鋭武装グループ『ジエ・ロッセ』のメンバーであったマラ・カゴールに「資金や情報など、必要なことがあれば、ロベルト・ドッティに助けて貰えばいい」とアドバイスしています。また、前項でも触れたように、フランチェスキーニが拒絶した、メンバーひとりひとりの趣味、性向をリスト化するためのアンケート用紙カゴールがまとめて届けるように命じられたのも、ロベルト・ドッティのオフィスでした。

ドッティという人物は71年に亡くなっていますが、戦後から暗躍し続けるファシスト、エドガルド・ソーニョと繋がっていた、ということはつまり、『赤い旅団』の背景にはシミオーニ(極左)ードッティ(?)ーソーニョ(極右)という構図がそもそも存在し、アンチテロリスト部隊長ダッラ・キエザ大佐ですら、当初、エドガルド・ソーニョと『赤い旅団』の直接の関係を疑ったという経緯があります。のちの調査によると、シミオーニとドッティは初めから、ソーニョが構成するカトリック教会と共産主義者の連携を阻止するための委員会を構成するアンチコミュニストでした。

当時エドガルド・ソーニョは、友人であるルイジ・カヴァッロとともに、あらゆる全ての政党、政治活動、すなわち『キリスト教民主党(DC)』、『イタリア共産党(PCI)』、『イタリア社会党(PSI)』、『統一プロレタリアート・イタリア社会党(PSIUP)』、『イタリア共和党(PRI)』、『イタリア自由党(PLI)』、『CGIL(イタリア全国労働組合)』、『UIL(労働組合)』、『Lotta Continua(継続する闘争)』、 『Potere Operaio (労働者の力)』に、スパイチームを編成して潜入させていたそうです。しかもソーニョは、そのスパイ活動で『イタリア共産党の弱みを握っていたとも言われます。

ここで再び、マリオ・モレッティの名が出てきますが、ルイジ・カヴァッロの恋人は、モレッティのパートナーの両親が住むアパートと同じ建物に住んでいたことが判明し、77年にはカヴァッロと『赤い旅団』の関係が疑われてもいます。さらに、シミオーニの友人であったチェーザレ・モンディーニ(のち、謎の死を遂げていますという人物は、72年のルイジ・カラブレージ殺害のあと、新聞でその記事を読みながら「素晴らしい出来だ」と喜んでいたという報告もあるそうです。

さて、『赤い旅団』のグランデ・ヴェッキオー黒幕と目されるシミオーニという人物は、70年にクルチョ、フランチェスキーニに拒絶された後、スイスとの国境付近に邸宅を構え、一度入ったら出られない、というカルト教団のような組織を作っていたようです。

1934年生まれのシミオーニは、そもそも『イタリア社会党』に在籍、「自治論者、反共産主義者、活動的で野心家、冷笑的で頭脳明晰、高い文化水準」、と政治家になることを運命づけられているような人物でもありました。当時『イタリア社会党』では、ベッティーノ・クラクシーと双璧と言われるホープと見なされましたが、政治謀略に失敗して政党をはじき出されています。その後はモンダドーリ出版で、ピランデッリの作品の編集を務めるなど文化的な仕事に携わったのち、66年から67年まで、「ルッソー」センターという、金満家の子供達のためのカルト的教育センターを、米国からファイナンスされ運営していた時期もありました。

シミオーニは「ルッソー」にしても「スーパークラン」にしても、カルト的で秘密主義の集団を作ることに非常に長けています。その才能で、やがて76年にパリに渡り、国際諜報のセンターとなる語学学校「ヒペリオン」を組織するようになるわけですが、現代から振り返れば、各国の言葉を操る教師たちを一堂に集めるということは、まさに国際諜報にはうってつけの環境でした。

そういうわけで74年は、クルチョ、フランチェスキーニという初期の執行幹部が逮捕され、『赤い旅団』に残された執行幹部は、マラ・カゴール、そしてマリオ・モレッティ、プロスペロー・ガリナーリだけとなりました。

『旅団』はここから大きく方向性を変えて行くことになります。

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