フィナーレ
運命の5月9日、モーロと獄中メンバーの交換を許可する書類にレオーネ大統領がサインをするため、ファンファーニが訪れるのを待っていたまさにその時、モーロの遺体が『キリスト教民主党』の本部、そして『イタリア共産党』本部の、そのちょうど中間地点にあるカエターニ通りで、まるで両党の『歴史的妥協』を嘲笑うかのように見つかることになります。13時50分のことでした。
モーロ殺害の知らせは、ドクトル・ニコライと名乗るヴァレリオ・モルッチが、ローマ大学サピエンツァの教授でもあったモーロの助手、フランコ・トリットにかけた電話で告げられています。
カエターニ通りに駐車された、赤いルノー4に、モーロの遺体が乗っていることを家族に告げるよう促されたトリットは、「そんなことはできない」と泣き崩れますが、モルッチは「できない? 頑張ってやってほしいんだ」「申し訳ない。このことをあなたに伝えて欲しい、というのがプレジデント(モーロ)からの願いだったんだ」と励まし、同情する様子を見せています。
レオナルド・シャーシャは、この「申し訳ない」という言葉に、『旅団』にも憐みがあったのか、と問い、抑揚のない冷たい口調でありながら、その言葉、間、そしてためらいに、モルッチに湧き起こった人間的な憐れみを見出しています。さらにはこの短い会話でモルッチは、モーロを6回も「onorevole(国会議員)」と呼び、さらには2回「Presidente(プレジデント)」、と尊称で呼んでもいる。
「多分、若い『旅団』たちは、憐みを持たず、憎しみだけで生きることができる、と信じていただろう。しかしこの日、彼(モルッチードクトル・ニコライ)には、自分たちが(殺害を)実行したあと、その強さに忍び込んだ裏切りのように、憐れみが入り込んだのだ。そしてわたしは、その憐れみが彼を荒廃させることを望んでいる」
シャーシャの、この一文が『赤い旅団』の、人間としての本質を見事に言い当てている、とわたしは思っています。この重大事件の後、「血に飢えた狼の群れ」「極悪非道のテロリスト」とくっきりと刻印された『赤い旅団』は、実はわたしたちとあまり変わりのない、憐れみを知る、普通の青年たちだったのだと思います。
実際、事件から40年以上を経て、インタビューに答えたり、モーロのご家族と共に(!)公の場に現れるアドリアーナ・ファランダやフランコ・ボニソーリは、穏やかで好感が持てる人物のようにも見受けられます。
『旅団』創立者であるレナート・クルチョは、自身が設立した出版社から著作を発表し、社会の最も弱い立場にある人々の、差別や人権問題と闘い続け、アルベルト・フランチェスキーニは年金生活に入るまで、弱者の生活と文化を守るARCI(アンチファシストを核に据えるアソシエーション)で、幹部を務めていました。現在は、『旅団』創立メンバーをはじめ、『モーロ事件』のコマンドたちも、何人かの例外を除いてほぼ全員が釈放され、普通の市民生活を送っています。
しかしながら、だからと言って、わたしは決して『赤い旅団』を庇うつもりはありませんし、普通の青年たちだったからこそむしろ、より罪深く、恐ろしいのだとも思います。ただ、世論とメディアによって過度に強調された彼らの虚像を、考証なく断罪することは、ある種の「まやかし」であり、事件の本質を失ってしまうとも思うのです。まず、事件から43年経った現在まで真実を決して語らない『旅団』のコマンドたちは、イタリアが失った歴史に責任をとるために、すべてを明らかにすべきだと思います。透明性こそが、民主主義の核だと信じるからです。
『L’Affaire Moroーモーロ事件』の最終章は、4月27日から30日あたりに書かれ、6月13日にミーノ・ペコレッリが主幹である軍事雑誌『OP』にコピーが掲載された、モーロからエレオノラ夫人への手紙の一節の表現に注目しています。なお、この手紙に主要メディアは大きな注意を向けなかったそうです。
モーロはその手紙で、人間性を核に置くはずのヴァチカンが交渉を拒絶したことを、恐ろしく、恥ずべきことだと糾弾したあと、「国からの追放は、ソ連を含め、あらゆるケースで行われたことだ。なぜ、ここで『Strage di Stato(国家の虐殺)』に置き換えられなければならないのか理解できない。ポレッティ(枢機卿ウーゴ・ポレッティ)が、この極端な矛盾を、ヴァチカンの他のやり方で訂正することができるかどうかも分からない。このテーゼ(拒絶ー死刑)では、コミュニストとその連帯の最悪の状況が裏書きされる事になる。こんなカオス(モーロはconfusione delle lingueという表現を使用。天まで届くバベルの塔を作ろうとする人間の傲慢を、神が言語を混乱させ、打ち砕いたエピソードに由来)に達したことは信じられないことだ」と夫人に伝えているのです。
ここでモーロがさらっと書いた『国家の虐殺』という言葉は、シャーシャが指摘するように、『フォンターナ広場爆破事件』からはじまった『鉛の時代』の背景にある、『二重国家』が画策した一連のテロ事件を指す言葉として定着していましたから(現代では、その名が明かされていますが、当時は匿名の著者たちにより、『フォンターナ広場事件』から数ヶ月後に出版され、左派の青年たちのバイブルともなった本の題名でもあり)、モーロがその事実を念頭に置くことなくその言葉を使い、「政府のある機関、政府、『キリスト教民主党』、そして彼自身を糾弾しているのか? とシャーシャは問いながら、はっきりとそれを打ち消しました。
というのも、『旅団』の最初の犯行声明に、「汚れた陰謀はすべて暴かれ、その真の黒幕が明らかになるだろう。モーロがすべてを明らかにし、顔のないその陰謀の立案者たちを明確にするだろう」とあり、『人民裁判』では、絶え間なく『国家の虐殺』という言葉を、モーロは聞いただろう、と仮定して、確信的に、『国家の虐殺』という言葉が使われた、とシャーシャは推理したのです。
そもそも『国家の虐殺』は、イタリアにおける共産勢力を粉砕するための極右テロリストが実行犯となった国家の一部が絡む謀略、『Strategia della tensione (緊張作戦)』の一環でしたから、モーロはこの時点で、その作戦が自分を標的にした極左テロリストである『旅団』に裏返った、置き換わった、ということを夫人への手紙にクリプト化したのかもしれません。
シャーシャは最後に、「わたしは推理小説だとすでに言っていた」からはじまる、ボルヘスの「伝奇集ーFiccionesーFictions」の一節を引用し、「『ふたりのチェスの対戦者は、偶然に出会った』ーこのフレーズは、間違った解決であることを理解させる。落ち着かない読者は、あやしいと思われる章を読み直し、別の、そして真の解決を見出すのだ」という一文を最後に、『L’Affaire Moro (モーロ事件』を、事件の3ヶ月後となる8月24日に書き終えています。
そして、事件を取り巻くコードが、暗示的に随所に散りばめられ、やがて無限の情報コスモスへと発展する、この『L’Affaire Moro 』が、文学的フィクションなのか、それとも文学的ノンフィクションなのか、結局のところ、事件に解決が見られない現在も定かではありません。
カエターニ通りで、モーロの遺体が発見されたのち、コラード・グエルゾーニは「医師の解剖がはじまる前に、どうしてもエレオノーラ夫人に会わせなければならない」とファンファーニに懇願し、モーロの家族、自分を含める近しい人々と共に、車2、3台に分乗して安置所へと向かっています。その途中、事件が起こったファーニ通りを経由した際は、誰もが心を砕かれ、何ひとつ言葉を発しないまま、静かに通り過ぎたのだそうです。安置所に到着し、モーロが眠る部屋へ入ると、グエルゾーニは皆と離れてただひとり、その部屋の奥から遺体を見たそうですが、心も魂も凍てついて、何の感情も湧き上がってこなかったと言います。
グエルゾーニが2008年に書いた『アルド・モーロ』という評伝は、モーロのスポークスマンを務めたジャーナリストらしく、冷静に状況を観察し、淡々と書き進められていますが、グエルゾーニはこのシーンではじめて、モーロを「プレジデント」と呼ぶのです。グエルゾーニにとって、その呼び名はモーロのシンボルであり、聖なる言葉でもありました。
19年にわたり、「プレジデント」とモーロを呼び続け、スポークスマンとしていつも傍にいたグエルゾーニにとって、プレジデントは多くを教えてくれた師であり、スピリチュアルな父親でもあった。「プレジデント」という言葉をグエルゾーニが発した途端、堰を切った思いが、綴られた言葉の行間から押し寄せてくるようでした。
モーロの最後の1日についてはさまざまな説があり、『赤い旅団』の供述と、遺体に残された銃痕がまったく合致しないため、モレッティの供述もガリナーリの供述も信憑性がないと判断されています。
モーロは、『人民刑務所』とされているモンタルチーニ通りのアパートのガレージで、マリオ・モレッティに殺害されたことになっていますが、そのうち何発かはサイレンサーが稼働しておらず、その音の凄まじさに近隣の人が気づかないはずはありえないのです。それでもアパートの住人は、モーロが殺害された時間に、物音ひとつ聞いていません。
たとえばジャーナリスト、パオロ・クッキアレッリは『モーロの最後の1日』という、大変なボリュームの著書で、モーロは別の場所(中心街であるカエターニ通りのすぐ近くの建物)に移動させられ、『赤い旅団』以外の人物に殺害されたと考証していますが、ここから『モーロの最後の1日』を追うと、もはや切りがなくなってしまうため、クッキアレッリはリーチォ・ジェッリ、そしてスティーブ・ピチェーニック、シークレット・サービスのエキスパートからも証言を得ている、とだけ記しておきたいと思います。
わたしの愛しいノレッタ(エレオノラ)
かぼそい楽観を感じた瞬間は、多分わたしの誤解で、いまやわたしたちは、最終の場面に差しかかっているのだと思う。わたしの温和さと節度に降りかかった、信じられない制裁について議論すべき時ではないだろう。もちろん、良かれと思っていたのだが、わたしが人生の方向性を間違ったのは確かだ。しかしいまや引き返すことはできないんだ。ただ、君が正しかったことを認めるよ。わたしたちやわたしたちの子供たちを断罪するには、他の方法があったのではないか、としか言えない。
不合理な、信じられない態度をとった『キリスト教民主党』にすべての責任があるということは明らかにしておきたい。この事件に与えられる、もしもの場合のメダルは拒否しなければならないかのように、このようにfermezza(交渉の拒絶)を断言したのは彼らだ。
多くの友人たち(名前は知らないが)、あるいはわたしを傷つけようとする間違った考えに欺かれた者たちが、自分たちの地位を守ることに精一杯で、すべきことを何もしなかったのは事実だ。たった100人の署名を集めれば、交渉しなければならない状況になったというのに(グエルゾーニによると、モーロが要請した全国『キリスト教民主党』会議を開くために集まった署名は29にとどまり、それ以上は集められなかったそうです)。
これはすべて過去のことだ。未来、いまこの時、終わることのない愛情を(家族である)君たちひとりひとりのすべての思い出に注いでいる。表面的には意味がないようでも、現実にはとても尊い思い出に、大きな、大きな愛情を感じている。わたしの思い出とともに、ひとつとなって生きていってほしい。わたしは君たちの中に生き続けると思う。
(略)わたしの大切な人よ、このありえなく、信じられない試練に強くいて欲しい。わたしは神へと向かう途中だ。家族、そして友人たちと、計り知れない愛情でわたしを思い出して欲しい。そしてわたしは君を、そして君たちを永遠の愛の証として温かく抱きしめよう。
死にゆくわたしの小さい目で、そのあと何が起こるのかを理解したい。もし光が差すなら、素晴らしいことだ。アモーレ・ミオ、わたしの存在を常に感じ、強くつかまえていてほしい。フィーダ、デミ、ルカ、アンナマリオ(まだ生まれていない)、アニェーゼ、ジョヴァンニが行ったことすべてをありがたく感じている。
扉を開けさせたくない時、すべては無益だ。教皇はあまり何もしてくれなかった。多分、良心のとがめを感じるだろう。
アルド
これが、モーロから夫人への最後の手紙となりました(抄訳)。
モーロの死後、エレオノーラ夫人とご家族が、国葬を断固として拒絶したため、モーロに本当に近しかった人々だけで、その死は静かに弔われています。
しかしその後、教皇パオロ6世のたっての希望もあり、サン・ジョバンニ・ラテラーノ教会で、モーロの遺体がないまま、国葬が開かれました。その場には、アンドレオッティ首相、コッシーガ内務大臣、『イタリア共産党』のエンリコ・ベルリンゲル、『イタリア社会党』のベッティーノ・クラクシーをはじめ、上院下院議員すべてが列席し、青ざめた無表情に空虚な視線を泳がせながら、空の棺を見つめる映像が残されています。
最近のドキュメンタリー(il CondannatoーRai)で、モーロのご子息で政治社会学者のジョヴァンニ・モーロは、40年を超えても、人々に忘れられることがない父親を「幽霊」と呼び、「幽霊は、自分が穏やかではないから、人々を穏やかにすることができないのだ」と言いました。
そういえばモーロは、その手紙で「『キリスト教民主党』が今日やっていることを妨害するために、これ以上小さくならない『点』のように存在し続けるだろう」と書きましたが、時を経て『キリスト教民主党』が消滅し、ジュリオ・アンドレオッティ、フランチェスコ・コッシーガが亡くなった今も、彼らには「悪名」と「疑惑」しか残されることはありませんでした。
またジョヴァンニ・モーロは、「イタリアの『鉛の時代』はブラックホールのように、整頓されないままにカオスとして存在しているが、その時代を明らかにしないことは、イタリアのアイデンティティに関わる問題だ」とも強調しています。
インタビュアーであるエツィオ・マウロ(ラ・レプッブリカ元主筆)が、「すでに『赤い旅団』は司法で裁かれている。あなたは真実と司法の裁きとどちらが重要だと考えるか」と問うと、ジョヴァンニ・モーロはためらうこことなく、「真実こそが、唯一の正義であり、裁きです」と答えました。
真実こそが、唯一の正義であり裁き。
したがってその真実が、いまだ闇の中から浮き上がってこない『モーロ事件』は、アーカイブ入りすることなく、真実が暴かれるまで捜査が続いていくことになります。
こうしてモーロとその理想は、モーロが手紙に書いたように、小さな『点』となって、いや、社会の深層に色濃く刻み込まれた十字架となって、生き続けることになったのです。
※教皇パオロ6世のたっての希望により、空の棺の前、1978年5月13日に行われたモーロの国葬。