パレスティーナ
5月1日には、さらにジョヴァンニ・レオーネ大統領、上院議長アミントーレ・ファンフーニ、下院議長ピエトロ・イングラオ、首相ジュリオ・アンドレオッティ、『キリスト教民主党』議員フラミニオ・ピッコリへ、モーロからの手紙が届いています。そのほか、下院議会司法委員会長リカルド・ミサシ、そして『イタリア社会党』党首ベッティーノ・クラクシーにも届きましたが、その7通のうち新聞で公表されたのは、レオーネ大統領、そしてクラクシー宛の手紙だけでした。
「親愛なるクラクシー 断片的に入ってくる情報の中、この痛みに満ちた経緯に、あなたの政党の非常に繊細な人道主義を認めています。あなたの重要なイニシャティブを、どうかこのまま継続、いや、もっと際立たせてくれるよう懇願します」「大げさでない方法で、あらゆる機会を利用して、可能な限り、正しい方向へと導いてくれることを懇願します。『キリスト教民主党』は、それをまったく理解していないようだ。あなたが緊急を要することだと説明してくれるなら嬉しく思います」
そのときのクラクシーは、モーロから直接手紙が届くとは予想していなかったようで、子供のように嬉し泣きして、「警察が持って行ってしまうから、この手紙の写真を撮ってほしい」と秘書に頼んだそうです。
その後、クラクシーは即刻、『キリスト教民主党』のファンファーニに連絡し、獄中にいる『旅団』女性メンバーを含む3人の恩赦に向けて動き出しました。その女性メンバーは病気を抱えていたため、「人道的恩赦」として、モーロの解放に向けた交渉の突破口とするためでした。
こうしてクラクシーがファンファーニとともに、獄中の『旅団』女性メンバーたちの恩赦を実現するために奔走している間、教皇パオロ6世もまた、刑務所教会の責任者であるチェーザレ・クリオーリ神父を中心に、モーロ解放に向けて獄中の『旅団』メンバーや、さらには身元が隠された人物を仲介に、秘密裡の交渉を続けていたことが、『政府議会モーロ事件調査委員会』のファビオ・ファブリ神父の聞き取りで明らかになっています。
この仲介人という人物は、『赤い旅団』から送られてきた人物(不明)で、ナポリ、南イタリアの各地で少なくとも1週間に1度、教会の使節と会い、電話での連絡も密に行っていたそうです。またファブリ神父は、モーロが亡くなる3日前の5月6日、カステル・ガンドルフォの教皇の別邸で、札束がテーブルの上に積み上げられているのを目撃したことをも明らかにしました。
その山積みのドルの札束は、全額で1000億リラの価値があったそうで、現代の価値に換算するならば(1ユーロ=約1936リラ)、約51,652,892ユーロとなります。しかし当時の物価から考えるなら、現代においてはその何倍もの価値があることになり、そんな莫大な身代金を、教皇パオロ6世は用意していたということです。前述したように、モーロはヴァチカンに落胆し、エレオノーラ夫人への手紙で何度も批判していますが、教皇はモーロを解放するためにアンダーグラウンドな連絡網を駆使し、力を尽くしていたのです。
「わたしの可愛いノレッタ(エレオノーラ夫人)へ。この手紙が本当に最後になると思う。どうしてだか分からないが、すべての希望は閉ざされたようだ。さまざまな動きが語られるが、これから何が起こるのかは分からない。教皇は、このような事件が起こっているのに、何もできず、意思表示もできないのか。なぜだ。わたしたちにはあんなにたくさん(ヴァチカンには)友達がいるじゃないか。それなのに今まで、たったひとつの声もあげられることはなかった(略)」
これは1990年に見つかった、モーロが4月25日頃に書き、エレオノーラ夫人には届くことがなかった手紙です。
ところで、刑務所の教会責任者であるクリオーリ神父は、4月21日の、教皇パオロ6世の『赤い旅団』へのモーロの解放を懇願するメッセージの最後の一文を変更するよう、教皇にアドバイスした人物だと、いくつかの新聞が報道しています。つまり、「交渉はありえない」と教皇が断言したことで、モーロやモーロの家族だけではなく、『赤い旅団』をも絶望させた、あの「シンプルに、あらゆる交換条件なくモーロを解放してください」はクリオーリ神父のアイデアだったと言うのです。
しかしながら、ファブリ神父の証言によると、クリオーリ神父は21日の夜、ロンバルディアの自宅にいて、夜中の12時過ぎに教皇から直接電話を受け、最後の最後まで、獄中の『旅団』との仲介人と交渉するよう要請されていたのだそうです。さらにファブリ神父は、モーロが殺害される前日の5月8日、教皇パオロ6世は、モーロがヴァチカンに来るのを待っていたことをも明らかにしており、つまり、獄中メンバーと仲介人を通して、ヴァチカンと『旅団』の間に何らかの交渉が成立していた可能性が考えられるわけです。
なお、匿名を希望する人物の聞き取りによると、刑務所教会責任者の勤務が長いクリオーリ神父は、モーロの遺体の写真を見て、ミラノの少年院時代に知った、プロフェッショナルな人物の典型的な仕業だ、と語り、心臓の周囲を11発の銃弾で撃ち抜かれた写真から、モーロの殺害犯は「ジュスティーノ・デ・ブォノではないか」とも言っていたそうです。
しかし残念ながら、『政府議会事件捜査委員会』のレポートには、すでに死亡している(とされている)「デ・ブォノが、『モーロ事件』に直接関わっていた確実な証拠を見つけることができなかった」と記されることになりました。
ところで、アンダーグラウンドな『旅団』との交渉における、第3回『政府議会事件捜査委員会』の最も興味深いリサーチは、当時のパレスティーナとイタリアの関係性についてでしょうか。
モーロが、パレスティーナ人民解放戦線(PFLP)と、「イタリア国内でテロを起こさないことを条件に、イタリア国内における武器の輸送を認める」『ロード・モーロ』という密約を交わしていたことは前項に書いた通りです。
したがって、当時のイタリアの諜報員たちが、パレスティーナ(PLO、PFLP)の諜報員たちとコンスタントに交流し、互いの情報を交換していた経緯から、『政府議会事件捜査委員会』は、PFLPと『赤い旅団』の関係を明確にするために、バッサン・アブ・シェリフに聞き取りを行っています。シェリフは70年代、PFLPにおいて重要な役割を担い、のちヤーセル・アラファットに、マルキシストのポジションからアドバイスを行った人物です。
シェリフはその聞き取りで、イタリアーパレスティーナの合意における確固たる機能が存在していたことを示唆し、その中核にSISMI(軍部諜報局)のステファノ・ジョヴァンノーネ大佐がいたことに言及しました。前述したように、当時、ベイルートに勤務していたジョヴァンノーネ大佐は、『モーロ事件』が起こる1ヶ月前、「イタリアを標的に、重要人物がターゲットとなる国際テロが起こる可能性」をPFLPからの情報として、ローマへ発信したシークレット・サービスです。
いずれにしても、このシェリフという人物は、アルド・モーロに中東情報を密に送っていたジョヴァンノーネ大佐と深い信頼関係を築いており、当時の「イタリアの安全保障のために協力」した人物でもあり、『モーロ事件』においても、有益な解決法を見つけるために、あらゆる情報網を駆使して奔走しています。
「個人的には、『旅団』の創立メンバーが逮捕されてからは、ほとんど付き合いがなかった。それ以降の『旅団』には、米国、あるいはNATOのグラディオチームがスパイとして潜入していたのではないかと思う。もちろん、それを知らないメンバーたちは、自分たちが『赤い旅団』であることに、無邪気に納得していたわけだが」
『政府議会モーロ事件調査委員会』の聞き取りで、シェリフはこのような発言をしています。
また、PFLPの指導者であったジョージ・ハバシュは、ジョヴァンノーネ大佐に直接、「PFLPは(当時の)『赤い旅団』と何の交流もなく、『旅団』の新しいジェネレーションのリーダーはスパイである」と警告していたそうです。つまりそれを知っていたジョバンノーネ大佐は、『モーロ事件』が起こった瞬間から、別の視点で『旅団』の動き、政府の動きを捉えていた、ということでしょう。
さらにシェリフは、「PFLPと欧州の左派のテロ・ムーブメントの関係は、欧州を攻撃するためではなく、あくまでもイスラエルが目標であった。PFLPはパレスティーナの闘いのため、つまりその地を占領する者たちと闘うためでなければ、他のどの欧州のグループのテロ事件を支持したことはなかった。もちろん『赤い旅団』もだ。確かにPFLPは、ドイツ赤軍、初期の『赤い旅団』、『日本赤軍』と関係を結んでいたが、それはパレスティーナの人民のためだった」と強調しています。
事件が起こった時点で、ベイルートにいたジョヴァンノーネ大佐は、『モーロ事件』が起こるとすぐに、モーロの居場所と状況を掴むために、ハバシュのPFLP、そしてアラファットのPLOのメンバーから情報を得て、交渉の道程を探っています。シェリフによると、ジョバンノーネ大佐の『赤い旅団』との交渉は4月末まではうまく行きそうでしたが、何らかの介入があり、突然断ち切られることになったといいます。4月末、というと、マリオ・モレッティが慌てた様子で、「何とかしてほしい」とエレオノーラ夫人に電話をかけた頃でもあります。
なお1983年の裁判で、ジョヴァンノーネ大佐がマステローニ裁判官に語ったところによると、「パレスティーナと『赤い旅団』との交渉は存在したが、『旅団』はその代わりに不可能な代償を要求してきた。そして突然、双方の会話は中断した、とアラファットがSISMIのジュゼッペ・サントヴィート司令官(モーロ事件のタスクフォースを担ったP2メンバー)に伝えた」のだそうです。
ジョヴァンノーネ大佐は、モーロを救うために、モーロの手紙(『キリスト教民主党』フラミニオ・ピッコリ宛)で帰国を促される数日前の4月25日、自主的に帰国の途に着き、その飛行機の中から「非常に短い間に行動を起こさなければならないため、欧州の有益な『赤い旅団』のコンタクトをリサーチしている」と当局へ通信しています。モーロはまた、4月28日、29日に書いた手紙に、獄中の『旅団』メンバーと自らの交換について詳しく指示し、釈放された『旅団』メンバー(そしておそらく自身も)の海外亡命を考えていることを明らかにしました。
具体的には、ジョバンノーネ大佐が情報網を駆使するうち、「PLOは、対話が必要な例のメンバーとコンタクトを取るために有効なエレメントを収集した」との連絡を受け、それまであらゆる交渉を拒んでいた『赤い旅団』との交渉がはじまっています。
しかし、残念なことにコッシーガ内務大臣もその極秘の交渉の開始を知っていて、亡くなる直前の2008年に、「国際レベルの思想犯の交換を条件にモーロの救済を目的として、ユーゴスラビアの東側シークレット・サービスとパレスティーナの支援を受ける国際極左テロリストとの交渉が、イタリア軍部の援助で、密かに進んでいることを警察とカラビニエリから報告を受けていた」との手紙をコリエレ・デッラ・セーラ紙に送った、という経緯があります。つまりその交渉を、タスクフォースは知っていた、ということです。
なお、両者のこの対話を成立させるために、極左雑誌の編集長がベイルートからのメッセージを受け、ドイツ赤軍経由で『旅団』へと伝えられる、というスタイルがとられたそうで、ベイルートでジョヴァンノーネ大佐の右腕として働いていた二等准尉は、「(モーロの)手紙がメッセージだった。われわれに、『行って、パレスティーナの扉を叩け』と促していた」と語っています。どうやらモーロの手紙には、われわれには解読不可能なコードもクリプト化されていたようです。
『政府議会モーロ事件調査委員会』もまた、「4月末から5月のはじめにかけて、モーロ救済を期待する動きが最も強烈になった。それまでは、警察による捜査情報の収集に終始していたが、捜査そのものが暗礁に乗り上げる一方、4月末(モーロと交換する、13人の獄中メンバーの具体的な名前が記された『旅団』8番目の声明発表ののち)、国家が認知する形で、パレスティーナの仲介による真の交渉が行われていた。その時点では、捜査による解決ではなく、政治的解決がいまにも成立する、という状況だった」というコメントを出しています(スタンパ紙)。
ということは、4月の末までモーロが期待し、手紙にクリプト化したメッセージをジョヴァンノーネ大佐が解読して進めた、ある意味、モーロ自身がオーガナイズしたとも言える『赤い旅団』との交渉が、何らかの障害で成立間際に決裂した、ということです。
『政府議会事件捜査委員会』が入手したSISMIのメモによると、PLOの非公式なイタリア「大使」ネムル・ハマッドは、当時のイタリア政府から、『モーロ事件』のポジティブ(?)な解決と引き換えに、パレスティーナとイタリアの国家安全補償における「永続的協力の交換」を迫られた、という事実が浮上しています。
このあたりの理解が難しいのですが、政府の誰かが、PLOと『赤い旅団』の交渉の妨害をし、モーロの救済の交渉を中断することを条件に、パレスティーナとモーロの間に交わされた密約『ロード・モーロ』を、イタリア政府が継続することをPLOに約束した、ということでしょうか。
交渉が決裂した後の5月5日には、ベイルートの通信社が、「パレスティーナの人民と革命闘士たちの名において、誘拐犯たちにアルド・モーロを解放するよう要求する。なぜならわれわれは、イタリアの市民、イタリアの民主主義を保護するために一致団結しており、人質は、自由、平和、そして人間性の敵に利用されてはならないからだ」というヤーセル・アラファットの声明を拡散しました。
しかしながら、このPLOと『赤い旅団』の関係については後日談があり、『モーロ事件』の後、武器の密輸を捜査していたヴェネチアの検察官が、PLOと『ロッジャP2』、ENIーpetronium(イタリア主要エネルギー会社)との関わりを指摘することになりました。具体的には、『モーロ事件』後の1978年から1981年にかけて、『P2』メンバーであるSISMI、SISDEの司令官が、事件後に連帯を取り戻したPLOと『赤い旅団』に武器を調達していた疑いがあるのです。つまりリーチォ・ジェッリとアラファットは『赤い旅団』を挟んで、両者の利益を隠すために情報を隠蔽していた可能性があるということです。
また、『モーロ事件』以後の『旅団』メンバーが、PLO、PFLPの戦闘員とともに、ベイルートでイタリアのシークレット・サービスから特殊訓練を受けていた、という証言も浮上しており、このあたりの経緯についてはあまりに混沌として、理解を超える利害関係で成立しているため、収拾がつかない、というのが正直なところです。
さらには1979年、『旅団』内部で勧誘され、情報提供者(スパイ)となったパトリッツィオ・ペーチが『旅団』とPLOの関係を暴露したため、アンチテロリスト特殊チームのダッラ・キエーザ大佐が捜査を開始すると、「これ以上捜査をしないように」との強い圧力を受けたこともあったそうです。
しかし、では『モーロ事件』をきっかけに世界を震撼させた、凶暴きわまりない狂気のテロ集団として名高い『赤い旅団』とは、いったい何だったのか。『モーロ事件』の後、『旅団』がいっそう脈絡なく、無秩序で破壊的なテロに走り、マフィアと判別がつかない集団へと変遷したことは周知の通りです。
ともあれ、ここで再び事件の経緯に戻ります。
5月6日には、獄中の『旅団』の女性メンバーを含む3人と、モーロの交換を『赤い旅団』が受け入れる可能性があるか、『イタリア社会党』のシニョリーレは、『ポテーレ・オペライオ』のピペルノに打診し、その後『キリスト教民主党』のファンファーニに会っています。この時クラクシーも『ポテーレ・オペライオ』のランフランコ・パーチェに会って、同じことを確認しました。そしてその直後、モーロと獄中のメンバーの交換を実現するため、検察官たちによる司法上の手続きが開始されています。
5月7日には、イタリア大使と面会したリビアのガダフィ大佐が、TVのインタビューで「『赤い旅団』のテロは許せない。モーロの生命を守るためなら、何でもする用意がある」と宣言しました。
5月8日、クラクシーは再びファンファーニに会い、人質交換のための司法手続きを急ぐよう、要請しています。その書類は、9日にジョヴァンニ・レオーネ大統領が署名することになっていました。
一方ピチェーニック、コッシーガ、アンドレオッティの間には「モーロには『人民裁判』で暴いた秘密とともに消えてもらう」という明らかな同意があり、ピチェーニックは、インタビューで「イタリアを安定させるにはモーロに死んでもらうしか道はなかった。モーロを犠牲にすることで、国が生き延びることができると判断した」と語っています。
しかしながら、ここで彼が口にした「安定」という言葉が曲者で、そもそも『Strategia della tensione (緊張作戦)』が、「安定のための不安定化」をコンセプトに繰り広げられたオペレーションであったことを、忘れてはなりますまい。
このようにヴァチカンも、『イタリア社会党』も、ジョヴァンノーネ大佐も、モーロの解放のために、明日、何が起こるかわからないまま、最後の最後まで、ありとあらゆる方向に向かって全力で疾走していたのです。
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